子供の頃『野生のエルザ』と言う映画を見たことがあります。見たと言うか、母親に手を引かれて見させられただけで、詳しいストーリーは覚えていませんが、次のような話だったかと。


ある狩猟監視官が人食いライオンになってしまった雌ライオンをやむを得ず射殺し、後に3頭の子供のライオンが残される。監視官の妻が3頭を育て、2頭は動物園に送られるが、エルザと名付けた雌ライオンだけはどうしても動物園に送りたくないと考え、自然に生きる訓練を開始する。


やがてエルザは狩りもできるようになり、夫妻もその地を去らなくてはならなくなった。


長い離別の後、その地を再び訪れた狩猟監視官の妻は、やっとのことでエルザと出会う。子供ライオンを連れたエルザとの感動の再会シーンがこの映画の最大の山場。


人間と野生動物の心の触れ合いと言う、今ではさほど珍しくはないテーマの話のハシリのようなものだったかと思います。


こういう話は、ライオンのようにある程度寿命が長く、知能もそこそこ高い哺乳動物だからできる話で、蝶では無理かな、とは思ってました。でも冷静に言ってすべて人間の思い込みですよね?


エルザに狩りのトレーニングをしているといっても、エルザは

「何でこんなめんどくさいことをしなくちゃならないの?早く餌をちょうだい!」

と思っているかもしれない。

感動の再会シーンと言ったって、まあ記憶はあったとは思うけど、それほど空腹でなかったから付き合っただけで、何日も何も食べていない時だったら、監視官の妻を襲って食べちゃったかもしれない。

そうしたらエルザも監視官に撃ち殺されなくてはならなくなり、

「やっぱり人食いライオンの子供は人食いライオンだよ。警戒心を持たずに野生のライオンに近づいた方が悪いよ」

と言う、身も蓋もない意見が正しかったことになり、作者は食べられてしまったから、物語も映画もなかった。


そう考えると、誰が読んでもただの偶然、全部人の思い込みに決まっていると確信できる話があってもいい。

寿命が短いことも、だからこそ重要なイベントが短いサイクルで書けるから、決して不利な点とは言えない。


今回、屋久島からたった一頭持ち帰ったツマベニチョウと言う形で話の舞台も整い、じゃあ、ちょっくらやってみるかと言う感じで書いて見ました。


で、最初は全編『海へ向かわなかったエバーあるツマベニチョウの話』で通そうとも思い、そう告知しましたが、いざエバが死んでしまうと、やっぱりもうこの表題では書きたくない。表題を変えたくなった。


『野生のエルザ』は四部作の最初、第二作は『永遠のエルザ』だけど、これはちょっとイメージが違う。第四作の『エルザの子供達』に倣って、以後の話は『エバの子供達ーツマベニチョウ飼育日記』

としたいと思います。


話は脇にそれ(るようで、関係があったりし)ますが、『ゴルゴ13』の『海へ向かうエバ』の最終章の副題、『エバは歌わなかった』については、エバはゴルゴ13との間の子に子守唄を歌いたかったんじゃないかなどと言われているようですが、私の解釈は違う。


まず、エバが狙撃された場面に注目すると、モーターボートの操縦席で狙撃されたエバの口元に血のように見えるものが一筋見える。口元に血が滲むようでは、ゴルゴ13は脳天を撃ち抜いていない。エバの髪に乱れもない。そもそも狙撃したかったら、上から狙うはず。あんな真後ろの低い位置から果たして操縦席に座る人の頭を狙えるだろうか?


極めつけがモーターボートのフロントガラスに穴を空けている銃弾の跡。あれはエバを撃った弾とは別の弾、依頼者に対する「依頼は果たしたぞ」と言うメッセージ。狙撃はモーターボートの正面からではなく後ろからであり、後ろから撃った弾がエバの頭部を貫通し、かつ、フロントガラスに穴を空けるほど強力なものだったら、「口元から一筋の血」で済む筈がない。


あの血はモーターボートの揺れで口の中を切った程度でも説明できてしまう。


総じて狙撃を匂わせる描写が雑なんですね。これは、「実は狙撃していない」ことを匂わせるために、恐らくわざとそうしたのでしょう。


エバに着弾したとしたら、フロントガラスを割る弾よりも前に撃った弾。着弾位置は多分頸椎の近く、弾丸も普通のものとは違う。その狙撃によってエバは一時的にだらっとした感じになり、ハンドルにもたれかかって眠らされている。ゴルゴ13はエバに致命傷を与えていない。


次に依頼の内容に注目すると、身内がエバに殺されたとしても、恨むべきはエバに依頼した相手のはず。百歩譲ってエバも憎いと思ったとしても、世界最高のスナイパーを起用する場面ではない。ショートキル専門で、普段は隙だらけで歩いているエバを狙撃するだけなら、二流三流の殺し屋で十分。


依頼の理由はエバに対する恨みではなく、目立たない形でエバの口を封じることでは?エバが何かを知りすぎているから邪魔になった。射殺死体が出てきて殺人事件として警察が動き出しては依頼者も困る。依頼の内容が行方不明とか事故、自殺などにしか見えないようにすることであれば納得が行く。

海を疾走するモーターボートの運転席で撃たれた血まみれの死体などと言う、派手なやり方で良いのなら、そもそもゴルゴ13に依頼する必要はない。


諸々の不自然さを無視し、あの場面だけでとらえるなら、つか こうへい氏の解釈は妥当。さらに言えば、「エバは歌えなかった」であれば、それが唯一の解釈かもしれない。


しかし、描写や設定に見られるいくつかの不自然さも考慮すると、さいとう・たかを氏は、あの話によってアナザーストーリーへの入り口を作ったようにも思える。


アナザーストーリーでは、あの話でスナイパーとしてのゴルゴ13は終わる。あの後、ゴルゴ13はエバを回収し、ゴルゴ13もエバと共に表舞台から姿を消す。もう讃美歌の13番が流れても、13年式G型トラクターの広告が出ることはない。


エバ・クルーグマンは、女性であることを差し引いてもマーカス・モンゴメリーを越える逸材です。行方不明にするという生かす手段があるとしたら、生かして利用すると思いますよ。


ゴルゴ13の偽りの狙撃により、すべては終わった。エバはいずれ、子守唄を歌うだろうが、いまは歌わなかった。ゴルゴ13も農夫などに姿を変え、エバと共に静かな余生を送っている。


もちろん、そんなメデタシメデタシみたいな話は読者が納得しない。だから、さいとう・たかを氏はゴルゴ13を描き続けるのが辛いとしばしば語っている。ゴルゴ13が引退し、静かな生活に入るような結末にはできず、できるのは人知れずアナザーストーリーへの入り口を作ることだけだった。


それがあの『海へ向かうエバ』と言う話だったんじゃあるまいか?依頼者も読者もだまされている。最終回でそれをぶちまけたかったんじゃないかな?


あの副題は表のストーリーと裏のアナザーストーリーを繋ぐ分岐の役割を果たしている。表のストーリーでは「歌う機会は持てず、ここで死んだ」と言う意味。アナザーストーリーでは、「歌わなかった」は口を閉ざし、表舞台から去ったことを意味しつつ、将来歌うことを暗示している。さいとう・たかを氏が結局描かなかった幻の最終回には年老いたエバが登場していたのではあるまいか。


以上は勝手な解釈ですが、何を言いたいかと言うと、『ゴルゴ13』でもアナザーストーリーの中ではエバはいつか子守唄を歌う。『エバの子供達』はいるのです。


話を戻します。飼育日記とは言うものの、毎日の状況を読まされても退屈でしょうから、重要な節目、ツマベニチョウの飼育法、交配、採卵などに関心のある人が読みたい局面に絞ります。そのため、以後はやや不定期更新になります。


物語の最後の場面は高平の予定です。お分かりですね?何とかそこにたどり着きたいと思います。