ギフチョウの蛹の休眠特性に関しては古くからよく研究されており、石井実氏の『ギフチョウの蛹休眠』などの論文に詳しい。まず、蛹の管理に関係する点を簡単に説明しておく。

1.初秋までは、蛹の内部に変化は認められない。高温または長日条件によって形態形成が抑制されているためである。

重要なのは「または」であり、短日条件であっても、高温であれば変化は始まらない。屋内の冷房の効かない場所に置けばよい。


2.中温と短日条件の両方が揃うと、ゆっくりした形態形成が始まる。秋である。

3.この形態形成は冬の低温によって抑制される一方、一定期間の低温接触により、蛹は羽化能力を獲得する。冬である。
4.低温接触の後の温度上昇によって形態形成の残りの過程は急激に進行し、羽化に至る。春である。

例えぱジフィーポットの中にある蛹は屋内の冷房の効かない廊下などに置いてあれば、短日条件にあるが、夏は高温によって形態形成が抑制されている。秋の温度低下に伴い2の条件が満たされ、ゆっくりした形態形成が始まる。

秋までの蛹は、飼育した時と同じような形で屋内に置けばよい。飼育時と唯一異なるのは、ペットシーツをよく湿らせ、蛹を乾燥させないことだけである。ジフィーポットは湿っていれば色が濃くなるため、ジフィーポットの色を見れば十分湿っているかどうかが分かる点も便利だ。


冬の低温は正常な羽化に必要であるが、通常この条件は屋内の暖房が効かない場所では不足する。都市部では屋外でも不足する。概ね12月中から3月まで冷蔵庫に保管することでこの条件が満たされ、冷蔵庫から出すとやがて羽化が始まる。

「自然条件で」と言って屋外に出して失敗する人がいるが、大事なのは発生地の自然条件に近いかどうかだ。カンアオイが生えるような、あまり陽当たりの良くない北向き斜面の地表や雪の下と最も近い条件の場所は、都市部では冷蔵庫の中である。


すべての期間を通じて注意すべき条件は、乾燥を避けることと、カビの発生を防ぐために清潔に保つことである。特に死亡した蛹があると、そこがカビの発生源になりやすいため、速やかに取り除く必要がある。蛹の死亡の原因は、おぶい糸の位置に関係するものがほとんどのようだ。


「蛹の越冬で失敗」と言う話をよく聞くが、本当かな?と思う。越冬前、秋までに死んでいるのではあるまいか?秋までの期間は越冬期間よりもずっと長く、湿らせて、かつカビを生やさないと言う難しさがある。屋内に置いて時々確認するのが最も安全である。冬は失敗しようがない。湿らせて冷蔵庫に入れておくだけで通常カビは生えないし、乾燥も防げる。糸を全部切った蛹を「お茶バック」などに入れ、濡らした水ごけやペットシーツを敷いた密閉容器に入れるだけで全然問題ないと思う。


ただ、冷蔵庫の中が食品で一杯の場合、局所的に冷えない場所ができ、目を離している間に庫内で羽化して全員死亡のような惨事が起こることがある。時々確認するか、蝶専用の小型の冷蔵庫を購入して適宜温度調節することが望ましい。


ギフチョウの飼育を経験したことのある愛好家の今回のシリーズに対する偽らざる印象は、「なんでこんな面倒な飼育をするのか」と言うあたりだと思う。実際、プラスチック容器にある程度の量の餌を入れておきさえすれば4齢程度までは勝手に育ち、その後は大量に餌を追加すれば、これも同じく勝手にどんどん食べて蛹になる。卵を蛹にするというだけであれば、ギフチョウの飼育は極めて容易である。

この疑問に対する答えは、一言で言うと

「目的が違う」

と言うことである。

詳しい人が見れば一目で飼育品と分かる斑紋であろうが構わない。とにかく翅が4枚きちんと伸びた個体を標本箱に並べたいのであれば、それほど注意は必要ない。斑紋が野外品と区別できず、容易に累代飼育ができるほど繁殖力が強く、野外品と互角に戦えるレベルの個体が欲しいなら、注意して飼育すべきである。


どんな標本で満足するかは、完全に個人の自由だ。個人のコレクションに口を挟む気はないが、飼育して羽化させた虚弱な個体を野外に放すとなるとそうも言っていられない。


私はこの手の行動は「ギフチョウ根絶作戦」と呼んでいるが、何故か一部マスコミはギフチョウの保護に繋がる行動と勘違いし、好意的に報道している。


ウリミバエの不妊化雄を毎年放すことで、南西諸島ではウリミバエの根絶に遂に成功した。不妊化雄と交尾した雌は無精卵を産んでしまうためである。


放された虚弱なギフチョウの雄は交尾能力が低く、野外雄に勝てないので、いないのと同じであり、こちらは問題はない。しかし、放された雌を発見した野外雄はそれと交尾する可能性がある。この雌が野外でカンアオイを探索して産卵できる確率はごく低く、この雌との交尾で消費した雄の精子は無駄になる。

雄が可能な交尾回数は限られているため、多くの飼育雌が放されると、無駄な交尾が増え、野外雄は野外雌と交尾できなくなり、野外雌の未交尾率が上昇する。


飼育したギフチョウの雌を放すことは、ウリミバエの駆除のために不妊雄を放したことと同じ効果をもつ。野外雌が産卵できる受精卵の数を減らすのである。これを毎年続ければ、やがてギフチョウは絶滅する。


飼育した雌でも放せば産卵するかも知れない。そうすれば個体数を増やすことはできるのでは?と考える人もいるだろう。本当は飼育した雌であるかどうかすら問題ではない。他所で羽化した個体は、健全な野外雌であっても産卵しないのだ。すべての種でそうとは言えないだろうが、少なくともギフチョウは産卵しないことが確認されている。


藤沢正平氏の著書『ギフチョウとカンアオイ』のP152付近に、大阪府での捕獲-放蝶についての記述がある。1953年(昭和28年)春に二上山のギフチョウを200頭以上採集し、翌日カンアオイが沢山生えている岩湧山に放したが、翌年全く発生が見られず、移植に成功しなかったそうだ。


アサヒグラフの昭和28年5月6日号の22~23ページに記事があるそうです。私にはできないが、系列会社の記者さんなら容易にソースが見られるでしょう。


私が生まれる前に無駄だと分かっていることを今でもやる人がいて、それを好意的に取り上げる新聞記者がいることには、驚きを禁じ得ない。


ギフチョウの産地の中には、成虫が飛来する場所は分かっていても、実際の発生地がよく分かっていない場所も多くある。そのような産地では、山頂などに飛来した未交尾雌は交尾後どこかにある発生地に戻り、産卵できるのだろう。


羽化した雌は、自らが羽化した場所を記憶する、何らかのシステムを備えているのかも知れない。だから、山頂などまで行った後、人間が探せないような場所に戻って産卵できるし、他の山で採集した成虫を放しても産卵できないのだろう。


自宅で羽化させた個体を山で放しても、その個体が産卵できる可能性はない。飼育した雌を放すことは無意味ではあるが、ことは単に無意味では終わらない。有害である。


ギフチョウの雄の交尾可能回数は最大3回程度だと思う。つまり、ある地域に、そこに生息するギフチョウの2倍の数の飼育雌を放すと、雄の交尾余力がなくなる。それを越える雌を放せば、野生雌に交尾できない個体があらわれ始め、根絶作戦の効果があらわれてくる。一定の数のギフチョウを毎年放した場合、野外個体の減少に伴って根絶作戦の効果は高くなり、遂には全滅に至る。ウリミバエの根絶作戦と同じである。


ギフチョウ根絶作戦の具体例を1つ挙げよう。この作戦は、下のような記事によって毎年好意的に報道されている。そんなに絶滅させたいのか?

 


 

映像の右側の個体は雌はのようだが、それにしてもかなり黄色部が広い。この地域のギフチョウは、全国的に見るとそんなに黒が強い方ではないが、ここまで黄色部が広い個体は普通出ない。

また、この地域の個体は前翅前方にある2個のU字型斑紋のうちの内側のものはかなり細く、UがVのように外に向かって広がる個体が多いように思う。UがOのようにリングになることは、この付近に産する野外産個体ではほとんどいないはずだ。少なくとも、野外採集の標本では見たことがない。

それにも関わらずこの個体では内側のU紋の前縁まで黄色であり、はっきりOになっている。更に付け加えれば、翅が全体的に張りがなく、翅の伸びの弱さを感じる。


これらの特徴は低温の不足など、蛹の管理が悪い場合に出やすい特徴である。


次に翅の色。映像が実際に近い色を再現していると仮定すると、この個体は奥の個体と比較して妙に茶色い。これは、終齢幼虫で過密ないし過湿だと出やすい特徴である。


映像から見る限り、飼育個体としての特徴がはっきり現れている。それもまともな飼育ではない。この個体を飼育した人は終齢幼虫から蛹の期間の管理が下手ないし雑であることが一目で分かる。


どんなに丁寧に飼育しても、こういう個体が少しは出てしまう可能性は否定しない。しかし、多少とも知識と経験があれば、「その個体はやめて、こっちの個体を撮影して」と頼むだろう。まともな個体もいれば。


ネット上で同じ環境で飼育された他の個体の写真を見たが、大半の個体にOリングが出ている。龍門山産と言われれば迷いもするが、初めてギフチョウを見る人でも一目で飼育品と分かる個体ばかりである。


翅が伸びるようになる次のステップで止まったやり方での飼育。私も高校生の頃はこう言うのを羽化させて喜んでいたから、よく分かる。


こういう個体は繁殖力が弱く、交尾できない雄や交尾させても産卵できずに死んでしまう雌が多い。累代飼育には使いにくいし、かといって恥ずかしくて標本にもできない。


こんなものを野外に放してはいけない。これをギフチョウ根絶作戦と呼ばず、何と呼ぶのか。


「ギフチョウの絶滅を願って30年、希少植物カンアオイの最悪の害虫、ギフチョウを根絶せよ!」


マスコミが取り上げるなら、プロジェクトX風に、こういうタイトルで取り上げるべきだろう。それがどのくらい共感を呼ぶかは知らないが。


こんな個体ばかりでは累代飼育は容易ではあるまい。毎年野外で卵を採集しているのだろうか?餌の調達は?まさか発生地から大量に採って来てはいないよね?その辺も気になる。


いくつか言いたいことがある。


ギフチョウに対して。

こんな根絶作戦を毎年やられながら、よくぞ生き残っている。称賛に値するしぶとさである。雌の飛翔能力が低く交尾対象として認識できなかったために無害だったのだろうか?


あなた方は悪意に囲まれて生活しています。特に雄の皆さんは今後もおかしな雌は相手にせず、まともな雌を選んで交尾して下さい。それが生き残るために最も重要なことです。


この根絶作戦の実行者に対して。

30年も続けたそうですね。その間に、自分が飼育した個体が野外を飛んでいる個体と違うことに、一度も気づきませんでしたか?だとしたら、努力でどうなるレベルではありません。あなたはこういうことをやっていい人間として生まれていません。

どうしても飼育したいのであれば、3齢位まで飼育を楽しんで、卵を採集した場所に幼虫を放して下さい。自分で成虫にして野外に放してはいけません。


報道機関に対して。

朝日新聞ですか。社会部や政治部の記事とか、ASAなどの新聞販売店への対応に色々問題があると聞いています。最近発行部数が大幅に減っているそうですね。不動産管理業者として生き残るだろうとか、ささやかれてます。私も立ち寄り先に置いてあるとプロ野球の結果などに目を通すことはありますが、お金を払ってまで読みたいとは思いません。


この記事を書いた記者さんの所属が文化くらし報道部か、科学みらい部かは分かりませんが、もしかしたら自分達は他の部署の被害者だ、ぐらいに思ってませんか?一遍、最重要文献と自社系列の雑誌の過去の記事の該当頁を熟読した後、自分が書いた記事を読み直してみてはいかがですか?そう、あなた方も同程度にご立派なお仕事をされてますよ。


会社のサイトに


時間が許す限り「裏」を取り、「事実」に肉薄する。地道な積み重ねが必要とされる仕事


と言う説明がありましたが、あなたは本当にそれをやっていらっしゃいますか?


あまり読者をなめない方ががいい。手遅れかも知れませんが。


ブログ読者に対して。

自分のやり方で飼育を楽しんで下さい。どんなやり方で飼育しようと、あなたの自由です。

しかし、飼育で用いるプラスチック容器の中と野外環境の間には、ジョーが過ごした東光特等少年院や泪橋の下の丹下拳闘クラブと、ジョーが燃え尽きた日本武道館のリングぐらいの違いはあります。時々言われるほど生き残った個体が優れた個体とは思いません。むしろ運の良い個体が生き残るとは思いますが、「あしたのために(その2)」もまだマスターしておらず、力石徹にあっさり張り倒された矢吹丈に、日の丸と君が代の演奏をバックにホセ・メンドーサとの世界タイトルマッチを戦わせてはいけません。

雄は一瞬でノックアウト、無意味、無害だから自己満足としてやるのは許容できますが、雌を放すのは有害であり、自然に対する侮辱です。飼育斑の出た虚弱な個体を安易に現地に放すことは、やめた方がいいでしょう。


なお、自分が飼育して得た標本を人に見せる時は要注意。ギフチョウは飼育のやり方が斑紋に現れます。その人は標本を見るような顔をしながら、あなたの飼育の仕方を見ているかも知れません。


この連載はこれにて終了。多分次回は久々のミヤマカラスアゲハの羽化の話題。