「佐柳島庄屋中屋古文書」の中に年代不明の手紙文がある。
塩飽本島の大浦地区の倉本屋平兵衛という人物が恙地院様、玉泉院様に宛てた手紙である。

主な内容は、
①この間は参り候段お取り持ちに預かり忝く幸せに存じ・・・・
(お寺にお詣りに行った際の御礼)
②御家もあい済み候様子宝泉寺より承り陰ながら大喜び・・・
(行事か何かが無事に終わった事を宝泉寺の者から聞き喜んでいる)
③右1件も高見島の者どもまかり登るに得心の上、先々の通り両島・・・御請証文差し上げあい済み申し候・・・
(右の件の処理が終わったので高見島の方々も従来通り得心して請証文を出すでしょう)
④佐柳島より伊勢参りまかり登り候様子承り候ところ、本家はじめ家中・・・
(佐柳島から伊勢参りの話を聞き、本家も変わりないのでご安心ください)
⑤佐柳島より観光様へ差し登らし候金子、大阪にて聞き合わせ候ところ、いずれへも届き申さず、正覚院迄宝泉寺様へあい頼み・・・
(寺に納めたはずのお金が届いてないという噂なので宝泉寺から本島総本山の正覚院へ調査または処理についてお願いしてもらった)
⑥江戸表へ便りも御座候ば御院主様へお見舞いのほどよろしく・・・
(お便りの機会があれば東京で療養中の御院主様へお見舞い下さい)
ざっとこんな感じです。
 
疑問に思ったのは佐柳島庄屋の田本家に何故この手紙が保管されていたのかです。
最近になって理由が分かってきました。
本島の平兵衛さんは佐柳島庄屋長太夫の弟でした。

長太夫は佐柳島で集めたお金が目的地に届かず紛失した件の穏便な処置を求めるために、大浦地区の倉本屋に養子に入っている弟平兵衛に大浦の檀家寺の宝泉寺住職を経由して、塩飽真言宗総本山の正覚院を動かし、高野山悉地院の観光様への申し開きを頼んだのではないか。
恙地院(ようちいん)だが、これは悉地院(しっちいん)の読み間違えではないか。
明治時代に高野山の悉地院は消失し、今は無量光院に吸収されている。

この中に玉泉院があったのかも知れない。
佐柳島乗蓮寺で修業した島出身の阿闍梨寛應が高野山の悉地院住職を務めていたが江戸の高野屋敷で死去したと過去帳にある。寛應の兄は小原丈右衛門で祖父は喜八郎。佐柳島に小原姓は2軒ある。屋号は「キヤチ」。
この手紙の⑥の御院主様が寛應とすれば何となく話が合って来る。
寛應の没年月日は文政8年(1825)10月7日だから、この手紙の6月11日は文政8年ではないだろうか。
寛應の師匠は寛澄で柳屋出身とある。柳屋は瀬戸だ。
切支丹お改め帳(寛政10年)1798年の住職が寛澄だ。

さらにこの寛澄の師匠が寛道で田本家に縁があると思われる。
田本家の過去帳を見ると僧侶が3名居る。

(1725)享保10年1月2日 大法師義戒 當寺弟子三代長太夫叔父
(1774)安永3年6月16日 大法師照雄 當院寛道弟子假名蜜存房
(1778)安永7年7月22日 阿闍梨寛道 當寺一代
 
手紙を書いた文政8年、平兵衛さんは何歳だったのだろう。
田本家過去帳から没年は、
(1859)安政6年9月7日 法臺院清賢義翁居士 四代目長太夫弟大浦倉本ヤ平兵衛事

5代目庄屋喜平太の父親が3代目長太夫なので4代目は喜平太の兄と推定。
切支丹改め帳1798年から喜平太の家族を見ると弟の嘉助21歳が平兵衛と名を改めたと推定。
1798―21=1777年生まれ
文政8年→1825年―1777=48歳と推定。
昨年高野山にお詣りして今は無き悉地院の所在を確認してきた。
たまたま入った食堂で明治の古地図を見て場所が解った。

昔は佐柳島から偉いお坊さんを輩出していたのだ。
悉地院には織田信長の墓があったが今は奥の院に移転している。