ふんわりリボン  ウィーン、ハノーファ 、アウクスブルクの旅  ふんわりリボン

ウィーン、ベートーヴェン、ハイリゲンシュタットの遺言の家へルンルン

 

                                                    (2024.09.26)

 

ウィーンに行く機会があったらどうしても行きたかった場所。

 

ベートーヴェン・ハウス。

 

詳細は知らなんだ。

例によって行けると知ってから、ネットでググった😅

 

何と彼、ウィーンに滞在中、やく70回前後、移転を繰り返したんだって。

 

そのうちの一軒は先日訪ねたので、

単独行動のこの日の決行😂😅先は,

ウィーン郊外にある『遺言の家』と言われるこの家。

 

簡単にググった情報。

 

🌸

『ベートーヴェンの遺書の家』Haus des Heiligenstädter Testamentsは、

ウィーンの北の森にあるハイリゲンシュタットにあり、

この辺一帯は、かつては温泉保養地だった。

 

疝痛(せんつう)と難聴に悩まされていたベートーヴェンは、

1802年5月から10月まで湯治、療養のためにこの地に住み、

そのアパートが、現在博物館になっている。

 

なぜ、『遺書の家』と呼ばれているのかといえば、、、、

 

22歳の時から作曲の勉強のためにウィーンに拠点を移し、

音楽家として、演奏会や社交界で成功の道を歩んでいたが、

26歳ごろから次第に耳が聞こえずらくなる。

 

彼にとって、

聴覚を失うことは致命傷であり、周りの人に気づかれないために、音楽家や社交界とも疎遠になり、人との距離をおき始める。

 

数年後、ついに友人の一人でもあったシュミット医師に難聴である事を打ち明ける。

医師は温泉療養を勧め、ベートーヴェンはハイリゲンシュタットに引っ越しをした。

 

自然の中を散歩するのが大好きだったベートーヴェンにとって、

自然に恵まれたこの場所は、

インスピレーションの源にもなっただろうことは否めない。

(1808年完成の『田園交響楽』の一部はこの時期に作曲されたと、どこかで読んだなぁ。)

 

しかし聴覚は一向に良くならず、むしろ悪化してゆく。

 

ある日、アパートの近くにある教会の鐘の音がいつもの時間になっても聞こえないのを不審に思い、教会まで行ってみると、鐘は左右に大きく揺れていた。

 

つまり、鐘の音が聞こえていない。。。

 

ほとんど耳が聞こえないことに絶望したベートーベンは1802年、32歳の時に、

難聴や孤独、それによる自殺願望について、この家で弟(カール)と甥(ヨハン)宛に遺書を書いた。

 

しかし、その遺書は投函されず、彼の死後に遺品の中から発見される。

 

なお、

ベートーヴェンの死の2年前のドナウ流域工事の影響で、この温泉は止ってしまい、

温泉施設があった場所は公園になり、

その公園には、散歩姿のベートーヴェン像が立っている。

 

この家では、作品番号31-2「テンペスト」のピアノソナタ、『プロメテウスの創造物』や『エロイカ』(ややこしいなぁ、日本語だと『英雄』、iphoneさんの翻訳はエロイカになっているので以下、「エロイカ」で)交響曲の一部が作曲された。

🌸

 

そんなことを頭に入れながら、

宿を出ました。

 

道案内、ありがたい😘

 

 

     

 

 

 

 乗り換え、次だからねぇ💖

 

 

 

   

 

こんなのに乗って、

 

 

無事、最寄駅、終点に着きました。

 

終点ってことは結構な郊外🍁🍀🍂

 

家並みも美しい💐

 

 

 

ヘェ〜💖

 

 

ほぉ~💓

 

とかキョロキョロしながら歩いていれば、

道は下り坂になり、

手入れの行き届いた公園のようなところに誘われた。

 

 

 

ひぇ〜〜〜〜〜、

いきなりなんと❣️あの❣️❣️散歩姿のご本人様にお会いできた💖😘(≧∇≦)

 

こんなこと、ありかぁっていう僥倖❣️

 

お宅もそれほど遠くないだろうなぁと希望が持てる。

 

 

🌸ガイリゲンシュテット公園

ウィーン市のこの庭園は、旧クーグラー公園の敷地に設置されました。

1905年設立 ウィーン市長

 

 

   さぁ、iPhoneさんを仕舞っても大丈夫。

 

   

 

この建物中ほどに旗が、、、

 

 

 

紛れもなく、ここです

 

 

 

入り口😘、 これだけでなんかドキドキする😘😘

 

 

 

門を潜るとすぐ目に入る中庭。

左手にある受付でチケット購入。

ここもやはりむつけきムシュ。

 

 

第一室 " ANKOMMEN "  ウィーンへ到着

 

生まれ故郷のドイツのボンからウィーンへの行程、移動手段、ウィーンに到着してからの足取り、ハイリゲンシュタット周辺の住居などが展示されている。

 

やっぱ、一番目をひくのはこの回転式蓄音機?

グリグリと手で回すと、

 

ピアノソナタ17番第三楽章『テンペスト』の音楽が流れてくる。面白い。

ベートーヴェンの弟子であったツェルニーが「ハイリゲンシュタット滞在中に窓から見える馬車の規則正しい走りを見てこの曲を着想した」と書き残しているそう。

 

左の説明によると、ここは自家製のパンを販売するパン屋さんだったんだって。

 

 

 

          

 

 

 

 

やや、

ナポレオン! 

ベートーヴェンは個人の尊厳の獲得に成功した「フランス革命」にいたく感激し、

ナポレオンを崇拝していたとか。

 

後日談があるのだけれど、

だんだんナポレオンの本性を知り、落胆して『エロイカ』は最初はナポレオンに捧げるつもりだったが、『エロイカ』の楽譜にはナポレオンの名前をグリグリかき消した跡がある。

 

 

 

このヘッドホンは見学者用で、

そこここに仕込まれた音楽を聴くことができるようになっている。

 

ひとまず、中庭に出て、第二室に入ります。


 

 

第二室 " erholen 休息? 湯治?🍡☕️

 

 

 

温泉水や温泉施設、当時の温泉療法についての考え方などなど😘

 

 

 

 

↑ ↓ 当時の引越し風景。

当時は貸家は家具付きだったのでスーツケースで引越しが可能だったそう。

しかし、ピアノだけはねぇ💖大事に梱包されてお引越し。

 

 

 

 

 

 

のどかだったんだなぁ。

 

 

 

 

 

こうしてお散歩しながら、不安や苦悩と闘っていたのだろうなぁ。。。

 

 

 

交響曲『田園』第二楽章は、

散歩道にある小川からインスピレーションを受け(やっぱ)、

現在、その散歩道はベートーヴェンの散歩道(Beethovengang)と呼ばれているんだそう。

 

残念ながらその小川までは足をのばさなかった。

 

ここに引っ越しをする前の同年1802年、

ベートーヴェンはイタリアの貴族出身で教え子でもあったグイッチャルディに、

恋心を抱き、無償でレッスンをし、ピアノソナタ『月光』を捧げたそう。

ところが、身分違いゆえ、大失恋。。。

 

ベートーヴェンにとって、

ここでの療養は耳の治療と心の深い傷を癒す意味があったのかも。

 

残念ながら見逃したんだけれど、

どこかのスーツケースにタマゴが展示されていて、

癇癪持ちのベートーヴェンが癇癪を起こして投げつけたと言われているんだとか。

他の説によれば、癇癪ではなく、

革新的な思想を持っていたベートーヴェンには危険分子のレッテルがはられ、

当局の監視がついていたんだって。

その監視者に対して投げつけたという説もある。

こっち、好きだなぁ。

 

そうそう、

難聴が進み、筆談をしたと言われているけれど、それも、

その監視者にバレないように筆談をしたという説も。

 

なんかいいよね。

楽聖とか気難しやとか苦悩に歪み眉毛ピクピクってイメージだったベートーヴェン像が、そんなエピソードに触れると、とても豊かな人間に膨らんでゆく😘

いい😘いい😘😘

 

 

 


 

 

やや、コンパス持参の散歩。

そうだよね、iphonneさんやGPSなんてない時代だものね。

それにしても、散歩好き💖🚶‍♀️👟🚶‍♀️

 

 

 

 

      

 

 

散歩中は曲想を練るだけではなく、こんなことも考えていたんだね。

じゃなきゃ、あんなに壮大な交響曲を何曲も作曲できないんでしょうね。

 

彼が、思想家だと知ったことはこの家に行った一番の収穫😘

 

 

         

わぁい、第三室 ” komponieren " 作曲

 

実際に住んだのはこの部屋といわれています。

 

 


 

 

 

圧巻はこれ。スピーカー付きピアノ。

オリジナルで実際、彼が使用していた実物だそう。すげぇ。

 

中間をくり抜き、弦の響きを捉らえやすくし、音を拾い、確認できるようになっている。

一音いちおん耳を傾けている様子が手に取るようにわかる。

 

このピアノは以前パスクヴァラティハウスにあったものを、

この遺書の家の改修に伴い、こちらに移動してきたんだとか。

 

 

 

こんな感じだったんだろうね。

 

 

        

 

あはは、コーヒーの愛飲家で、おまけに凄い凝り性。

 

コーヒー好きの兄は、あるいはこのエピソードを知っていて、ニマニマしながらハンドドリップでコーヒーなんぞを煎れていたのかも。

わたしゃ、コーヒー飲めないんですけど、なんか近親感が湧いてくる。

 

 

 

友人と開発したとされるメトロノーム😘

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピアノ?の上に置かれた補聴器。。。

 

 

 

補聴器と遺書。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

なかなか去り難いのですが、

部屋を別角度から。

 

 

 

        

 

第四室 " verdienen "  生計

 

 

 

 

 

 

 

 

わが弟カルルおよび(ヨーハン**)に。ーーわが死後、この意志の遂行さるべきために。

 原註(編集部注:本稿の「原註」はロマン・ロランの手による)ーー

  * ハイリゲンシュタットはウィーン市の郊外。ベートーヴェンはそこを夏期の住居と

   していた。  

 ** 原文にはヨーハンの名の記入が忘れられている。ーー文中傍点

  (編集部注:本文ではアンダーライン)の箇所はベートーヴェンの原文にアンダーラインのある部分である。

 

 

おお、お前たち、ーー私を厭わしい頑迷な、または厭人的な人間だと思い込んで他人にもそんなふうに言いふらす人々よ、お前たちが私に対するそのやり方はなんと不正当なことか! お前たちにそんな思い違いをさせることの隠れた本当の原因をお前たちは悟らないのだ。

 

幼い頃からこの方 かた 、私の心情も精神も、善行を好む優しい感情に傾いていた。偉大な善行を成就しようとすることをさえ、私はつねに自分の義務だと考えてきた。

 

しかし考えてもみよ、六年以来、私の状況がどれほど惨めなものかを! ーー無能な医者たちのため容態を悪化させられながら、やがては回復するであろうとの希望に年から年へと欺かれて、ついには病気の慢性であることを認めざるを得なくなったーーたとえその回復がまったく不可能ではないとしても、おそらく快癒のためにも数年はかかるであろう。

 

社交の楽しみにも応じやすいほど熱情的で活溌な性質をもって生まれた私は、早くも人々からひとり遠ざかって孤独の生活をしなければならなくなった。折りにふれてこれらすべての障害を突破して振る舞おうとしてみても、私は自分の耳が聴こえないことの悲しさを二倍にも感じさせられて、なんと苛酷に押し戻されねばならなかったことか! しかも人々に向かってーー「もっと大きい声で話してください。叫んでみてください。私はつんぼですから!」と言うことは私にはどうしてもできなかったのだ。

 

ああ! 他の人々にとってよりも私にはいっそう完全なものでなければならない一つの感覚(聴覚)、かつては申し分のない完全さで私が所有していた感覚、たしかにかつては、私とおなじ専門の人々でもほとんど持たないほどの完全さで私が所有していたその感覚の弱点を人々の前へ曝 さら け出しに行くことがどうして私にできようか! ーーなんとしてもそれはできない! ーーそれゆえに、私がお前たちの仲間入りをしたいのにしかもわざと孤独に生活するのをお前たちが見ても、私を赦してくれ!

 

私はこの不幸の真相を人々から誤解されるようにしておくよりほかしかたがないために、この不幸は私には二重につらいのだ。人々の集まりのなかへ交じって元気づいたり、精妙な談話を楽しんだり、話し合って互いに感情を流露させたりすることが私には許されないのだ。ただどうしても余儀ないときにだけ私は人々のなかへ出かけてゆく。

 

まるで放逐されている人間のように私は生きなければならない。人々の集まりへ近づくと、自分の病状を気づかれはしまいかという恐ろしい不安が私の心を襲う。ーーこの半年間私が田舎で暮らしたのもその理由からであった。できるだけ聴覚を静養せよと賢明な医者が勧告してくれたが、この医者の意見は現在の私の自発的な意向と一致したのだ。

 

とはいえ、ときどきは人々の集まりへ強い憧れを感じて、出かけてゆく誘惑に負けることがあった。けれども、私の脇にいる人が遠くの横笛 フレーテ の音を聴いているのに私にはまったくなにも聴こえず、誰かが羊飼いのうたう歌を聴いているのに私には全然聴こえないとき、それはなんという屈辱だろう*!

原註ーー* この痛切な嘆きについて私(ロラン)は一つの解釈をーーいまなお一度もなされた事がないと私の信じる一解釈をここに表明しておきたい。ーー『田園交響楽』の第二楽章の終わりに、オーケストラが夜啼鶯 ロシニョールとかっこうと鶉の鳴き声を聴かせることは人の知るとおりであり、たしかにこの交響曲のほとんど全部が自然のいろいろな歌声とささやきで編み上げられているとも言える。多くの美学者たちが、自然音の模倣描写であるこの曲の試みを是認すべきか、あるいはすべきでないかということをしきりに論じてきた。しかもそれらの学者の誰一人、「ベートーヴェンは(自然音を)模倣描写したのではない、なんとなればベートーヴェンには(自然音が)なんにも聴こえはしなかったのだから」ということに気づいていない。ベートーヴェンは、自分にとっては消滅している一世界を、自分の精神のうちから再創造したのである。小鳥たちの歌のあの表現があれほど感動を与えうるのはまさにそのためである。小鳥たちの声を聴きうるためにベートーヴェンに残されていた唯一の方法は小鳥たちをベートーヴェン自身のうちに歌わせることだったのである。(les faire chanter en lui)

たびたびこんな目に遭ったために私はほとんどまったく希望を失った。みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。ーー私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事をしとげないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。

 

そのためこのみじめな、実際みじめな生を延引して、この不安定な肉体をーーほんのちょっとした変化によっても私を最善の状態から最悪の状態へ投げ落とすことのあるこの肉体を引き摺って生きてきた! ーー忍従! ーーいまや私が自分の案内者として選ぶべきは忍従であると人は言う。私はそのようにした。ーー願わくば、耐えようとする私の決意が永く持ちこたえてくれればいい。ーー厳しい運命の女神らが、ついに私の生命の糸を断ち切ることを喜ぶその瞬間まで。自分の状態がよい方へ向かうにもせよ悪化するにもせよ、私の覚悟はできている。ーー二十八歳で止むを得ず早くも悟った人間 フィゾローフ になることは容易ではない。これは芸術家にとっては他の人々にとってよりも一層つらいことだ。

 

神(Gottheit)よ、おんみは私の心の奥を照覧されて、それを識っていられる。この心のなかには人々への愛と善行への好みとがあることをおんみこそ識っていられる。おお、人々よ、お前たちがやがてこれを読むときに、思え、いかばかり私に対するお前たちの行いが不正当であったかを。そして不幸な人間は、自分とおなじ一人の不幸な者が自然のあらゆる障害にもかかわらず、価値ある芸術家と人間との列に伍せしめられるがために、全力を尽くしたことを知って、そこに慰めを見出すがよい!

 

お前たち、弟カルルと(ヨーハン)よ、私が死んだとき、シュミット教授がなお存命ならば、ただちに、私の病状の記録作成を私の名において教授に依頼せよ、そしてその病状記録にこの手紙を添加せよ、そうすれば、私の歿後、世の人々と私とのあいだに少なくともできるかぎりの和解が生まれることであろう。ーーいままた私はお前たち二人を私の少しばかりの財産(それを財産と呼んでもいいなら)の相続人として定める。二人で誠実にそれを分けよ。仲良くして互いに助け合え。お前たちが私に逆らってした行いは、もうずっと以前から私は赦している。弟カルルよ、近頃お前が私に示してくれた好意に対してはとくに礼を言う。お前たちがこのさき私よりは幸福な、心痛のない生活をすることは私の願いだ。

 

お前たちの子らに徳性を薦 すす めよ、徳性だけが人間を幸福にするのだ。金銭ではない。私は自分の経験から言うのだ。惨めさのなかでさえ私を支えてきたのは徳性であった。自殺によって自分の生命を絶たなかったことを、私は芸術に負うているとともにまた徳性に負うているのだ。ーーさようなら、互いに愛し合え! ーーすべての友人、特にリヒノフスキー公爵とシュミット教授に感謝する。ーーリヒノフスキーから私へ贈られた楽器は、お前たちの誰か一人が保存していてくれればうれしい。しかしそのため二人の間にいさかいを起こしてくれるな。金に代えた方が好都合ならば売るがよかろう。墓のなかに自分がいてもお前たちに役立つことができたら私はどんなにか幸福だろう!

 

そうなるはずならばーーよろこんで私は死に向かって行こう。ーー芸術の天才を十分展開するだけの機会をいまだ私が持たぬうちに死が来るとすれば、たとえ私の運命があまり苛酷であるにもせよ、死は速く来すぎるといわねばならない。いま少しおそく来ることを私は望むだろう。ーーしかしそれでも私は満足する。死は私を果てしのない苦悩の状態から解放してくれるではないか? ーー来たいときに何時 いつ でも来るがいい。私は敢然と汝(死)を迎えよう。ーーではさようなら、私が死んでも、私をすっかりは忘れないでくれ。生きている間私はお前たちのことをたびたび考え、またお前たちを幸福にしたいと考えてきたのだから、死んだのちも忘れないでくれとお前たちに願う資格が私にはある。この願いを叶えてくれ。

 

 

ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン    

ハイリゲンシュタット、一八〇二年十月六日  

 

 

ハイリゲンシュタットにおいて。一八〇二年十月十日。親愛な希望よ。ーーさらばおんみに別れを告げるーーまことに悲しい心をもって。ーーいくらかは快癒するであろうとの希望よ。この場所にまで私が携えてきた希望よ。いまやそれはまったく私を見棄てるのほかはない。秋の樹の葉の地に落ちて朽ちたようにーー私のためには希望もまた枯れた。ここに来たときとほとんどおなじままにーー私はここから去る。ーー美しい夏の日々 にちにち に私の魂を生気づけた高い勇気、ーーそれも消えた。ーーおお、神の摂理よーー歓喜の澄んだ一日を一度は私に見せてください。ーーすでに久しく、まことのよろこびの深い反響は私の心から遠ざかっています。おお、神よ、いつの日にーーおお、いつの日に、ーー私は自然と人々との寺院のなかで、その反響を再び見出すことができるのですか! ーーもはや決して? ーー否ーーおお、それはあまりにも残酷です!ーー

🍒🍒🍒🍒🍒

 

 

 

『遺書の家』に関しての記述はこの辺で。

ってながぁ〜〜〜。ごめんなさい🥴

 

旅から戻り、やたらべートーヴェンを聴いている。

何よりも今はネットで大方のことは可能なのがありがたい。

そこで、

クラシック音楽に魅せられた日本の若者たちが、それを拡めることで身を立てたいと懸命に模索している青春群像を見ることが出来たことは、この上ない幸せで、天上のベートーヴェンも彼らが奏でるご自分の旋律をお聴きになっているのだろうなぁと思うと、少しの安らぎを感じることができる。

彼、彼らに幸あれ💖

 

で、(ベートーヴェンに倣ってにしたい)にお気に入りは

ピアノソナタ第八番『悲愴』💖 

なんと1798年作曲とか。

難聴に気づき絶望の淵を彷徨った時期と重なるんだとか。

第一楽章、第一音のなんという絶望。深い悲しみ。緩急があって、第2楽章に入ると一転、祈り?模索?典雅な旋律が続き、第3楽章の微かに兆す希望へと発展してゆく。

なんか救われる。

 

ベートーヴェンは、自曲にタイトルはあまりつけなかったそうだけれど、これはご自分で与えられた由。

『悲愴』という言葉が作曲家の状況に一番適していたのかも知れない。

わがパソコンに悲愴は一発転換できずインプットに苦労した。。。

 

余談:

・「カラヤンのベルリン・フィルいいんだよぉ」という兄の声音を思い出し、ベルリン・フィルとN響を聴き比べたら、友人に嗜められたので反省😂😅

・交響曲5番『運命』を「ロックだぁ❣️」と叫んでいた日本人指揮者がいて惚れた😘

 

この日の旅は続きますが、ひとまずこの辺で🍡🍵🍰

 

 

 

 

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