アウシュヴィッツ強制収容所内部を中谷剛さんの案内で見学する・・・。
(2022.09.24)
悪名高き、
『ARBEIT MACHT FREI』、労働は自由への道
働けば自由になる
のスローガン。
『Arbeit Macht frei』は強制収容所建設から約70年前に作家ディーフェンバッハが著作の表題に用いたもので、ナチスの言葉ではない。
単語ARBEITのうちのBはバランスが悪く、上下を反転させたようになっている。
この門も収容者が造ったので、収容者の抵抗や皮肉の象徴と言われているが、当時はこのような書き方が流行だったというのが本当らしい。
このサインは盗難や破損にあったため、後に修復されたもの。
昨年、ミュンヘンへ友人を訪ねた折り、
友人の長年来の願望、ダッハウ強制収容所を見学した。
その時、私はどうしてもアウシュヴィッツに行きたいんだと呟いたのを覚えていてくれた友人が、クラクフ行きを提案してくれた。
即答で同行をお願いする。
語学が不案内の身にはポーランドは遠すぎる。
またとないチャンスだもの。
なぜこんなに行きたかったのか自問してみる。
中学生の頃だったろうか、兄の本棚から取り出した『アンネに日記』だと思う、そこで「ゲットー」という言葉に出会った時の衝撃は忘れられない。
「アウシュヴィッツ」や「ホロコースト」という固有名詞も。
その言葉たちは普段は忘れているのだけれど、決して忘れられない言葉になり、
胸のどこかで静かに息づいていたのだと思う。
多分、
我が身の栄養素の大切な一つであることは間違いがない。
2022年9月9日に訪ねた折の、
ダッハウ強制収容所の
ARBEIT MACHT FREI
そんな経過なのだけれど、
手続き、手配は全て友人がして下さった。
感謝、深謝💕
まず、
公認日本人ガイドの中谷剛さんへツアー案内をメールで依頼して下さる。
予約はなかなか取れないそうだけれど、
まだ見学者がそれほど多くなく、
日程調整の後、9月24日の午後2時からの見学が確定する。
今回のガイドツアー料金
一人、30€ 、
あるいは120Zt(ポーランド通貨)
(ガイドの最後に、「今回は人数が少なかったので少々高くなりすみません」と中谷さんからお話があった)
14時ちょうどに中谷さんが顕われ、
早速、テキパキと指示がある。
手荷物検査があること、
手荷物はクロークに預けること、
パスポートが必要なこと、など。
各自にヘッドフォンが渡され、
中谷さんの説明を聞きながら進んで行く。
監視棟。
などの建物を見ながら進む中谷さんの説明は、
一見すると?いやいや、、ともすると?、、、
ビジネスライクに聞こえる。
導入部には、
ユダヤ人が歴史の中で占める位置、
人々から見られるユダヤ人像、
現代も続く特定な人々に対する偏見、排除、
・・例えば同性愛者、ハンディキャップのある方々など、
そのような背景があってこのような現実が目の前に存在することなど、
視野の広い説明がある。
足早に進むので写真を撮る時は、群?から抜けて、
速攻で撮り、チームに戻る😅
説明はヘッドフォンから漏れてくるのでご安心を。
煙突・・・😭
昔使われていた棟がそのままミュージアムとなっていて、
各棟に当時の写真や遺留品、書類などが展示されている。
アウシュビッツ周辺の地図。
中央ほんの少し左、KL AUSCHWITZ I、アウシュヴィッツ強制収容所
左に、KL AUSCHWITZ II BILKENAU、ビルケナウ強制収容所
当初はアウシュヴィッツ1号強制収容所のみだったが、収容者の増加に伴い1941年秋ごろに2号強制収容所(ビルケナウ)が建設された。
そこに住んでいたポーランド人は強制退去させられる。
🌸
アウシュビッツは第3収容所まであった。
3つめはモノヴィッツでソ連軍に破壊され今は残っていない。
当時はファルベン化学(軍需生産の大手民間企業)に隣接しており強制労働で2万5千人が犠牲になった。
ユダヤ人の労働力と炭鉱を目当てにモノヴィッツ工場を開設したが、工場で働かされた収容者は極端に短命だった。
4号棟
EXTERMINATION、皆殺し、絶滅、根絶。
通常は30人前後のツアーになるようだけれど、
今回は6人という人員数と一人のマダムがバンバン質問をしてくれるので分かりやすい。
「こんなに大人数を焼くのであれば匂いも強烈だったのでは?」と質問すれば、
「最初はこの収容所の意図を近隣住民に隠していたが、程なく住民たちも異常さに気付き始めました」などの即答がある。(写真右手、中谷剛さん)
4号棟の写真展示。
アウシュヴィッツに列車で強制連行された方々の路線地図。
遠くはなんと、RODOS、ロドス島(ギリシャ)、、、
OSLO,オスロ(ノルウェー)、、、
NARVA、ナルバ(エストニア)、
当時のドイツ軍の勢力圏がここまで及んでいたとは。
1940年から1945年の間に、
ナチスは少なくとも130万人をアウシュビッツに強制送還した。
収容された人たちの内訳。
ユダヤ人:1,100,000人
ポーランド人:140,000~150,000人
ロマ(ジプシー):23,000人
ソ連軍の捕虜:15,000人
周辺諸国からの捕虜:25,000人
そのほか同性愛者や精神・身体障害者、ドイツ国内の反社会的分子、政治犯など。
1940 ー 1945
「殺された方々の骨の粉が入った壺」
ハンガリーから連行されたユダヤ人。
コートを着ている。高齢者と女性と子供。荷物を持っていない。
これはビルケナウに到着後、選別を受けてそのままガス室に向かう人々。
選別、、、
ビルケナウ強制収容所に到着後、下車直後に「必要」、「不要」に分けられ、
妊婦、子供、高齢者、身体障害者などは「不要」とみなされ、そのままガス室に送られる。
全体の75 %から80%がガス室に送られた。
「バラックに入る前にシャワーを浴びますと伝えられた人々です。この人たちの表情を見て下さい。
それを信じているかどうか、表情で判断するしかありませんね?」とガイドの方は我々に注意の視点を求めて来る。
「考えて欲しい」、
「よく見て欲しい」とのガイドの意図が見えて来る。
ダビデの星を身につけた人々をユダヤ人と一言では言えない。
どの方にも名前があり、今まで生きて来た過程があり、
一人ひとりに己の尊厳がある。
↑↓ 「この写真を覚えておいて下さい。ビルケナウで追体験します」と中谷さん
選別前。
左奥に「死の門」が見える。
選別後。
指差す先には荷物だけが取り残さる。
これらの荷物は収容者によって仕分けられ、ドイツへ送られたが、誰かが私服を肥やすのはいつの世も同じ。
そして、何よりも中谷さんが強調するのは、
その荷物の仕分けをするのは同じユダヤ人であること。
ユダヤ人の中にも階級のようなものが出来上がること。
↑選別前。
「カメラマンはこの白い帽子の少年に注目したと思いますよ。彼を追跡した様子が窺えます」と中谷さん。荷物を持っているので到着直後。
↓選別後、死への道。
ここにその少年がいるとの説明だったけれど、私には判別できなかった。
カメラマンも一人の人間として過酷な任務だったのだろうなとは想像がつく。
一人の少年にフォーカスしてその運命を一瞬、共にする。
カメラマンとしての矜持のようなものを見落とすなと言われてもいるよう。
ガス室へ向かう女性達。
ユダヤ人収容者が隠し撮りした。。。
選別後、「バラックに入る前に清潔になるよう、シャワーを浴びなさい」と命じられた女性たちはガス室に送り込まれた。
脱衣所には番号付きのハンガーがあったり、ガス室の天井には見せかけのシャワーが設置されていた。
↑ アウシュヴィッツ強制収容所のガス室模型
↓ ビルケナウ強制収容所のガス室模型。
ビルケナウ強制収容所にはガズ室は6室。
クレマトリウム2、3、4、5と農家を改造した赤い家と白い家。
模型は最も規模の大きかったクレマトリウム2。
図形のようにT字構造。
地下のT字の左部分に焼却炉と5箇所の遺体搬入口、ゾンターコマンドの住居。
使用したガス。
チクロンB (防疫施設で伝染病を媒介するノミやシラミの退治に使用されていたものを転用)。効率良く処刑を行うための研究班を配し「32分で800名処刑可能であった」とされる。死体は施設に備えられた焼却炉や焼却壕などで処分され、この作業にはゾンダーコマンドがあたった。死者の骨は砕かれてビスチュラ河に捨てられ、現在では慰霊碑が立てられている。 Wikiから
その様子、クレマトリウム5前から隠し撮りされた写真。
ゾンダーコマンドとは強制収容所内のユダヤ人によって組織された労働部隊。
「ユダヤ人収容者が同胞の焼死体を処理しているのです」と、ここでもガイドが流れる。
ゾンダーコマンドは特殊作業班としてガス室の近くに住み、遺体を処理しガス室を清掃する。そして口封じのために自分もガス室に行く運命にある。
1944年にこの写真は命がけで盗撮された。
チクロンBの缶。
これらを見ている間、ガイドアナウンスは何も流れない。
足早に進んで行く。
そして、美しい女性の頭髪が山積みになっている場所で待っている。
「これらを見て、『このような事実があったという事を実感しました、ありがとうございました』と礼状をいただくことが多いです」と仰る。
ここに連行された方のエピソードは語り切れないほど語った時期があるのだけれど、
「終わりがないのですよね」と何度か仰る。
「終わりがない」、、、
の意味を考えていたらその頭髪の写真は撮れなかった。
またも、「深く考えよ」、と言われているような気がした。
あたかも一般刑務所のように見せるべく、
カモフラージュされ、
整備された区画と植栽されたポプラの並木。
「展示されたような事をするドイツ人がこのように植栽する。
ポプラを植える、その行為、僕はとても怖いです」と、会話の中でガイドさんは呟いていた。
人間のありよう。
一人の人間の中にある自分の知らない自分。
また新しい棟に入った。
↓ ユダヤ人(収容者)のベット
「同じユダヤ人です」とガイドアナウンスが入る。
棟内案内図
眼目は地下で牢獄になっている。
撮影禁止。
撮影可能箇所のみ撮影。
↑ユダヤ人監視員の部屋。
↓収容者のベット。
ユダヤ人監視員の部屋。
なんでこんなに監視員が必要なのかは地下に回答がある。
撮影禁止なので、かいつまんで。
地下は牢獄。
刑の内容。
餓死刑、換気と灯りが制限される刑(窒息死)、棟の突き当たりは立ち牢で90cm四方の狭い空間に4人が入れられ立ったままの直立刑。
収容者を効率良く殺害する方法を模索していたナチスはこの地下で初めてチクロンBを使った毒ガスによる虐殺の実験を行い、850人が犠牲になった。
10号棟と11号棟の間にある慰霊碑。
強制収容所当時は、
向かって右の11号棟で行われた形式的な裁判で『有罪』が確定すると、衣服を剥がされ、この壁を背にして銃殺されていった。
「死の壁」と呼ばれていた。
このポプラたちも1940年頃に苗木を植栽したのであれば、
この地の歴史を見続けてほぼ80年経つことになる。
あれ、写真に夢中になっている間に、
中谷さんが鉄線の外に出ている。。。
急げ。
右が塀の中。
左が自由地区。
ご覧いただけるでしょうか?
木立の奥にほんの少し茶色の屋根をのぞかせている家。
アウシュヴィッツ強制収容所の所長だったルドルフ・ヘスの家です。
外に出たら、文章ものんびりし始めた。。。
ヘスは戦争終結後に捕らえられ、ここで絞首刑になりました。
妻と息子への遺言には、「名前を変えて生きるように」とあり、残された方々はそうして生きたそうです。
「ヘスとして生きる辛さがわかっていたのでしょう」、と中谷さん。
何年か前に、
ヘスのお孫さんとアウシュヴィッツ収容所の生存者(9?歳)が和解の抱擁を交わし話題になったそう。
「祖父がした事をお詫びします」、
「いや、あなたのお爺さまが悪いわけではない」との会話の後に。
人間の尊厳に敬意が表れているエピソードだなぁと聞いていました。
そこからさほど遠くないところに、
ガス室、焼却炉。
↑↓ ガス室で殺害された人々を運び出し、その後、この焼却炉へ。
ガス室も通ったけれど、写真は撮れなかった。。。
(202209.24 15:58)
これでアウシュヴィッツ強制収容所の見学は終わり、
ビルケナウ強制収容所に向かいます。
アウシュヴィッツ強制収容所
Wikiから
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アドルフ・ヒトラー率いるナチスが行ったホロコーストの象徴と言われる「アウシュヴィッツ強制収容所」とは、1940年から1945年にかけてドイツが占領下においた現在のポーランド南部オシフィエンチム市郊外に作られた、強制的な収容が可能な施設群の総称である。ソ連への領土拡張をも視野に入れた「東部ヨーロッパ地域の植民計画」を推し進め、併せて占領地での労働力確保および民族浄化のモデル施設として建設、その規模を拡大させていった。
地政学的には「ヨーロッパの中心に位置する」「鉄道の接続が良い」「工業に欠かせない炭鉱や石灰の産地が隣接する」「もともと軍馬の調教場であり、広い土地の確保が容易」など、広範なドイツ占領下および関係の国々から膨大な数の労働力を集め、戦争遂行に欠かせない物資の生産を行うのに適していると言える。また、次第に顕著となったアーリア人至上主義に基づいた「アーリア人以外をドイツに入国させない」といった政策がドイツ国内の収容所の閉鎖を推し進め、ポーランドに大規模な強制収容所を建設する要因にもなった。
労働力確保の一方で、労働に適さない女性・子供・老人、さらには「劣等民族」を処分する「絶滅収容所」としての機能も併せ持つ。一説には「強制収容所到着直後の選別で、収容者の70-75%がなんら記録も残されないまま即刻ガス室に送り込まれた」とされており、このため、現在にいたっても正確な犠牲者の数は把握されていない。
収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、エホバの証人、さらにはこれらを匿った者など。その出身国は28に及ぶ。ドイツ本国の強制収容所閉鎖による流入や、1941年を境にして顕著になった強引な労働力確保(強制連行)により規模を拡大。ピーク時の1943年にはアウシュヴィッツ全体で14万人が収容されている。
たとえ労働力として認められ、収容されたとしても多くは使い捨てであり、非常に過酷な労働を強いられた。理由として、
- ナチス党が掲げるアーリア人による理想郷建設における諸問題(ユダヤ人問題)の解決策が確立されるまで、厳しい労働や懲罰によって社会的不適合者や劣等種族が淘汰されることは、前段階における解決の一手段として捉えられていたこと
- 領土拡張が順調に進んでいる間は労働力は豊富にあり、個々の労働者の再生産性確保(必要な栄養や休養をとらせるなど)は一切考慮されなかったこと
- 1941年末の東部戦線の停滞に端を発した危急の生産体制拡大の必要性と、戦災に見舞われたドイツの戦後復興および壮麗な都市建設計画など、戦中と戦後を見越した需要に対し、膨大な労働力を充てる必要があったこと
などが挙げられる。
併せて、劣悪な住環境や食糧事情、蔓延する伝染病、過酷懲罰や解放直前に数次にわたって行われた他の収容所への移送の結果、9割以上が命を落としたとされる。生存は、1945年1月の第一強制収容所解放時に取り残されていた者と、解放間際に他の収容所に移送されるなどした者を合せても50,000人程度だったと言われている。
すべての強制収容所は、ナチス親衛隊(SS)の全国指導者であったハインリヒ・ヒムラーによって、SSの下に集約されており、SSが企業母体となる400以上にも上るレンガ工場はもとより、1941・1942年末以降の軍需産業も体系化された強制収容所の労働力を積極的に活用。敗戦後は、SSのみならず多くのドイツ企業が「人道に対する罪」を理由に連合国などによって裁かれた。
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