インチキ坊主、権蔵の独り言 -3ページ目

魔2

もしも魔が心の迷いを顕すとすれば
お釈迦様が悟りを開かれ煩悩を断ち切った後にも
魔が現れて問いかけてくるシーンはどう理解したらいいのか?
心の迷いである煩悩を断ち切った釈尊の前に姿を現す魔こそ
まさに姿形を持った魔そのものではないのか?
このことを考える手掛かりとして証所知障がある。
煩悩という障りを断ち切った仏にも
究極の悟り、涅槃に入るための障害となる思いがあるというのである。
有余涅槃と呼ばれる涅槃に入る前の状態の仏様には
我々の計り知れぬ微細な心の迷いがあるという。
とすればやはり魔とは心の迷いをさすのだろうか?

拝める御方

百万遍大本山の大野台下が極楽に往生なされました。
いつも笑顔の素晴らしい御方でした。

健康が一番ですからお体を大事に

が台下の口癖でした。
念仏を申すためには我が身を大切にすべきであるとは法然上人も仰せのところです。

また台下は気さくなお人柄でした。
毎月15日の手作り市にキリスト教の修道女の方がジャム等を売りに来られるのですが
いつもご苦労様、貴女方も私達も皆の幸せを願う役目ですからがんばりましょう
とおっしゃる台下を青い目のシスターが
私にはローマ法王と同じくらい尊敬出来る方です
と言って下さるのです。

本当に拝める方であります。
どうか御前様、浄土から私達を御護り下さいませ。
ナムアミダブツ

魔

魔と言っても坊主さんのことではない。
お経の中には魔が登場する。
その魔をどう理解すべきか?
大きく分けて二つの見方があると思います。
一つは魔を実在として受け止めていく方向。
今一つは魔を心理的な迷いとして考えていく方向。
キリスト教では今日でもエクソシストを実践しており明らかに前者のタイプ。
真言宗日蓮宗なども前者の色が濃いようだが
一方で浄土一門では来世の安穏に重点を置くため現世利益を避ける傾向か
後者のパターンが多いように思う。
もちろん浄土宗に於いても現世利益は明確に説かれていて
本願を頼み念仏するものを諸仏が魔事から守ってくれることが記されている。
ただ、その魔を心の迷いと受け取り
往生を願う信仰の心が芽生えることで迷い心(魔)から離れることが出来るとも
文字通り魔物から身を守ってくれるとも理解し得る。
どちらで理解すべきか考えている内に
この問題は阿弥陀仏を法身として捉えるか報身と見るかという問題と類似していることに気付いた。
魔と仏という両極をそれぞれ具象的有形のものとして理解するか?
抽象的概念として理解するか?

次回に少しく提案を試みてみたい。