今回は、前回「光明寺の歴史」からの続き(というか、長くなり過ぎたので分割した後半w)

 

「吉水草庵」の前後に法然の聖地となった「粟生光明寺」。

 

公式サイトを見てみると、「西山浄土宗総本山 光明寺」と名乗っておられます。

 

「光明寺」についてやっておきながら、「西山浄土宗って何?」をやらずに終わるのはどうかなぁ…というのもアレなんで、やっておきたいなぁと。

 

法然以降の「浄土宗」は、現在大きく3つの法脈が伝わっています。

「浄土宗(浄土宗鎮西派)」「浄土宗西山派」そして「浄土真宗」。

 

「浄土真宗」を別宗とすると、西山派は「浄土宗を成す2大派閥」の1つということになりそうですね。

 

熊谷直実が建てた「念仏三昧堂(粟生光明寺)」は、直実が関東へ帰る際に、兄妹弟子の幸阿(こうあ)に預けられて「嘉禄の法難」を迎え、幸阿の後は證空(しょうくう)が継承しました。

 

この證空が、「浄土宗西山派」の開祖。

 

證空は、「二尊院」に運ばれた法然の遺骸を広隆寺、そして光明寺へ移した時の中心人物なので、この関係で「光明寺」とつながりができていたんでしょうかね。

 

證空は村上源氏の出身で、源通親の養子でした。実父は源親季といわれます(誰…?というかんじなんですが、村上源氏の誰かのようです)

 

通親は、土御門天皇の外祖父にあたる人物です。

別名「久我通親」、または「土御門通親」とも。

 

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも「土御門通親」として登場してました。声優の関智一さんがやっておられましたなー。

 

通親の子に、「曹洞宗」を開いた道元(どうげん)がいます。

ということは、證空は道元と義兄弟。

 

ただ、證空は治承元年(1177年)生まれ、建久元年(1190年)に出家して法然の弟子になっているので、正治2年(1200年)生まれの23歳年下の道元とは、一緒には暮らしていないようですね…。

 

(ちなみに、久我通親は1149年生まれなので、道元が生まれた時は51歳。なので、本当は通親の次男・堀川通具の子だったのではないかとも言われます。となると證空と道元は叔父甥の関係になりますな)

 

 

「浄土宗」は、「この世で悟りを開くのは無理。浄土で悟りを開こう。そのために阿弥陀如来の名を呼んで(念仏して)救ってもらって極楽浄土へ移こう」というような教えの宗教。

 

證空の「浄土宗西山派」は、もう少し進んで「念仏しなくても阿弥陀如来は救ってくださる。その感謝の念が、念仏となって口から出てくるのだ」という世界観になっています。

 

これがさらに進むと、「感謝の念が踊りになる」となって、一遍が開いた「時宗」となります。

一遍、実は證空の孫弟子なんですねー(證空-聖達-一遍)

 

いっぺんの旅路(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11258357756.html

 

證空の特徴と言えば、「法然の元で出家した」こと。

 

「浄土宗」本流をたどった弁長も、「浄土真宗」を開いた親鸞も、比叡山を通った「天台僧」の時代を経験していますが、證空は出家した最初から、法然が亡くなる最後まで21年間を「法然の弟子」として過ごしています。

 

こういうところが、立ち上げた新派が現在まで続くことになった源泉にあるのかもしれないですね。

 

 

そして、「浄土宗西山派」は現在、「西山浄土宗」「浄土宗西山禅林寺派」「浄土宗西山深草派」の3つの流派に分かれています。

 

教義の解釈が違うらしいのですが、そういう難しいことはワタクシには分かりません…。

 

ただ、総本山はそれぞれ有名なので、そちらをご案内してみようかなと。

 

 

まず、「西山浄土宗」の総本山は、「粟生光明寺」。

 

「遊蓮坊円照」ゆかりの「西山」に熊谷直実が建てた「念仏三昧堂」が、法然墓所となった際に「光明寺」となったんでしたねー。

 

 

「浄土宗西山禅林寺派」の総本山は「禅林寺」。

 

「禅林寺」…と聞いてピンと来なくても、「永観堂」と聞けば「ああ!」となる方も多いのではなかろうか。

 

 

「禅林寺」は、元々は「真言宗」の寺院。

 

空海の弟子・真紹(しんしょう)が、仁寿3年(853年)に藤原関雄の山荘を買い取って寺院としたのが始まり。

 

ちなみに、藤原関雄は、真夏の五男。冬嗣の甥っ子に当たる人物。

「薬子の変」で失速した父の煽りを受けたのか、政治家ではなく、風流な文化人だったようです。

 

藤原の兄弟たち(北家独走編)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12795043217.html

 

延久4年(1072年)、7世住持となる永観(ようかん)がやってくると、禅林寺に転機が訪れます。

永観は、法然より100年ほど前の人物ですが、「末法の到来」と言われた時世から「浄土教」に目覚め、その教えを禅林寺に持ち込んだことで「念仏道場」として栄えることになりました。

 

この「中興の祖」の功績から、禅林寺は「永観堂(えいかんどう)」とも呼ばれるようになったわけですねー。

 

禅林寺12世の静遍(じょうへん)は、最初こそ法然を批判していましたが、後に帰依して、禅林寺の住持の座を法然に譲っています。

 

法然自身は禅林寺に住んだことはないようですが、「法然は11世、自分は12世」と数えるほど入れ込んだみたい。ちなみに静遍は、清盛の弟・頼盛の子にあたります。

 

法然の没後に證空がやって来て、以来「浄土宗西山派」の拠点として現在に至っている…というわけですねー。

 

 

「浄土宗西山深草派」の総本山は「誓願寺」。

 

場所は…言葉では説明づらいので地図で見て(笑)

寺町京極商店街のモールの中を通って行くと突如として現れる立地。

 

 

京都の繁華街のど真ん中にある…というイメージですが、最初は奈良にあったようです。

それは、紀氏が造営した古代寺院「紀寺(きのでら)」だったとされます。現在では廃寺となり、地名として残っています。

 

 

平安京遷都とともに、京都の「一条小川」に移転。

現在も「元誓願寺通」という地名に名残があります。ちなみに、この場所は「平安大内裏」があった場所のすぐ近くに位置します。

 

 

この寺は和泉式部ゆかりのお寺。和泉式部は『百人一首』56番歌の詠み人ですねー。

 

あらざらむ この世のほかの思ひ出に 今ひとたびの あふこともがな

和泉式部/後拾遺集 恋 763

 

和泉式部には、小式部内侍という娘がおりました。

こちらも『百人一首』に採られている、60番歌の詠み人です。

 

大江山 いく野の道の遠ければ まだふみも見ず あまの橋立

小式部内侍/金葉集 雑 550

 

万寿2年(1025年)、小式部内侍は子供を出産した際に、運悪く亡くなってしまいます。享年21の若さでした。

(ちなみに、この出産したのは藤原公成との間の子で、どうやらその後は僧籍に入ったようです。公成は閑院流藤原氏の人で、白河天皇の外祖父にあたる人物)

 

悲しみに暮れた和泉式部は、娘と自分の往生を願って「誓願寺」で出家し、「専意法尼」の戒名を授かったそうな。

 

和泉式部はその後、道長が建立した「法成寺」の塔頭の1つ「誠心院」の初代住職となり、そこで没したと言われています。

「誠心院」は、現在は「誓願寺」のすぐ南にあります(ちなみに宗派は「真言宗」)

 

(もう1人、清少納言もこの寺で出家したと言われていますが、細かいエピソードはよく分からず…)

 

 

「誓願寺」は、平安時代後期までに「興福寺」の所有となっていました。

 

法然はたびたび参篭に訪れていたようで、やがて蔵俊(ぞうしゅん)僧都が法然に譲り、後には證空も住したことで「浄土宗西山派」の拠点となっていきます。

 

しかし、京の街中にあるだけあって「応仁の乱」の被害はハンパなかったらしく、以降衰微。法系も混乱して、住持が「西山派」「禅林寺派」「深草派」と入り乱れる有様でした。

 

秀吉の時代になると、秀吉の京都町整備政策に引っかかって、現在地に移転させられました。

 

この時、秀吉の側室である「松の丸様」の助力があったといいます。

 

松の丸様は、俗名は京極竜子。

 

現在の「誓願寺」があるあたりは「新京極」と呼ばれていて、京極竜子の「京極氏」は「誓願寺」近くの京極高辻に先祖の屋敷があったのが由来。

このあたりを面白がった秀吉が差配した…のかなぁと、これは妄想ですが(笑)

 

竜子は、血縁的には淀殿たち浅井三姉妹の従姉妹(母が浅井長政の妹・京極マリア)で、兄の京極高次に三姉妹の次女・初が嫁いでいて、秀吉には長女の茶々が嫁いでいる、という幾重にも繋がった義姉妹でもありました。

 

豊臣秀頼の子・国松(秀吉の孫)が生まれると、京極家に預けられて養育されていたそう。国松の母は側室なので、正室の千姫(と、その生家である徳川家)を憚ったのだろうとされています。

 

この縁で、豊臣家滅亡とともに国松が8歳で処刑されると、竜子はその遺骸を引き取って「誓願寺」に埋葬。現在も墓所があります。

 

 

ちなみに、「浄土宗西山深草派」の呼び名は、はじめこの宗派が「深草」にある「真宗寺」を総本山にしていたのが由来。

 

証空の弟子である立信の創建。宝治2年(1248年)というので、89代・後深草天皇、鎌倉5代将軍・藤原頼嗣の時代ですねー。

 

後深草天皇の帰依を受けて「真宗院」の寺名を賜り、後深草天皇の御陵「深草北陵」があります。

 

 

ちなみに立信は、多田行綱の孫。

 

行綱は「鹿ケ谷の陰謀」の時に「山荘で密談があった」ことを清盛に密告した人。後年の「一ノ谷の戦い」大勝利の一因となった「鵯の逆落し」は、義経ではなく、実際には現地の土地勘に明るかった行綱がやったのではないか…とも言われています。

 

「真宗寺」は「応仁の乱」で荒廃してしまい、江戸時代に「誓願寺」の龍空瑞山によって再興されています。ここで「誓願寺」の末寺となったようです。

 

昭和になって「深草浄土宗」として独立したのですが、後に「西山深草派」に合流したんだそうですよ。

 

 

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神社仏閣の歴史シリーズ