前回からの続き。「『藤原北家の本流は長男でないことが多かった』のやや深掘り」をやります。

 

今回は藤原鎌足から数えて5代目にあたる藤原内麻呂から。

 

 

前回も述べた通り、内麻呂は父・真楯の三男にあたります。

 

母は阿倍帯麻呂の娘。帯麻呂は遣唐使として渡り、客死した阿倍仲麻呂の弟です。

内麻呂は阿倍仲麻呂の姪の子だったんですねー(ちなみに、阿倍氏の系図はこちらをドウゾ→

 

この血統の良さからか、異母兄2人が庶流となり、内麻呂が嫡子として藤原北家の本流になっていきます。

 

 

藤原内麻呂が辿った人生は、藤原北家の一人勝ちへの苦難と栄光の軌跡

 

藤原氏は、大きく「北家」「南家」「式家」「京家」に分かれ、それぞれ藤原不比等の子である「藤原四兄弟」が祖となっていました。

 

内麻呂が官歴をスタートさせたのは、801年。桓武天皇が即位した年のこと。

奈良後期から平安初期に至る熾烈な権力争いの中で、その4家すべてに陰りが見え隠れしておりました。

 

まず、長男・武智麻呂の子孫である「南家」が、「藤原仲麻呂の乱」(764年)によって衰微。

 

続いて、四男・麻呂の子孫である「京家」が、氷上川継(元皇族)の謀叛事件「氷上川継の乱」(782年)に、京家唯一の参議だった藤原浜成(氷上川継の舅)が巻き込まれて失脚し、壊滅的ダメージ。

 

「北家」では、朝堂の首班となっていた左大臣・魚名が、「氷上川継の乱」の同年、桓武天皇によって突然罷免。元左大臣・永手の息子たちも冷遇や不運で政治の表舞台から去ります。

 

こうして他家が没落する中、三男・宇合の子孫である「式家」が、桓武天皇の即位を成功させた功績を誇って天下を獲りました。

 

しかし、式家をここまで育て上げた良継百川兄弟は、桓武帝即位時には故人。

それでも、政治スキャンダルのダメージを負っていない式家では、良継・百川の後をなんとか繋ぎたい藤原種継(たねつぐ)が、「長岡京遷都」を成功させるべく、頑張っておりました。

 

ところが、「藤原種継暗殺事件」(785年)で種継は暗殺。式家は勢力を大きく後退させてしまいます。

 

ここで台頭してくるのが、南家

藤原仲麻呂が起こした乱(764年)から20年。ようやく重傷から立ち直って来た…というところなんでしょうかね。

 

仲麻呂の甥にあたる是公(これきみ)は、娘の吉子を桓武天皇に嫁していて、伊予親王が生まれていました。

 

伊予親王は、桓武天皇の第三皇子。783年生まれなので、神野親王(=52代・嵯峨天皇や大伴親王(=53代・淳和天皇の異母兄に当たります(嵯峨帝・淳和帝ともに786年生まれ)

 

明るくて壮健活発な伊予親王を、桓武天皇は大層鐘愛していたそうで、叙位や賜地で厚遇し、山荘にもたびたび行幸して交歓を重ねています。

 

一方、皇太子となったのは、桓武天皇の弟・早良親王が廃された後は、式家・良継の娘(藤原乙牟婁)を母とする安殿親王(あて しんのう)が選ばれていました。

 

安殿親王は桓武天皇の第一皇子。774年生まれなので、伊予親王の9歳年上。地味で神経質な性格で虚弱な体質。さらに皇太子時代から自分の妃の母・藤原薬子(式家)にゾッコンな女癖の悪さを、父帝から直々に窘められていたと言います。

 

病弱で陰キャで女癖の悪い安殿親王と、壮健で陽キャで爽やか青年な伊予親王

 

人間的魅力はどう見ても伊予親王のほうが上ですが、自分の擁立に奔走してくれた式家への感謝を忘れない桓武天皇は、安殿親王を廃太子して伊予親王を…とは、できなかったみたい。

 

安殿親王にとっては、自分とは正反対の人物像で、また自分を疎んでいる父の愛を一身に受けていた伊予親王は、複雑な心境を抱かせる異母弟でした。

 

大同元年(806年)、桓武天皇が亡くなり、安殿親王が即位すると(=平城天皇)、伊予親王は全面的に平城天皇に仕え、若き皇族の重鎮として存在感を見せていきます。

 

 

伊予親王の伯父に藤原雄友(おとも。吉子の兄…つまり藤原南家)がおりまして、彼が内麻呂のライバル。雄友は753年生まれで、内麻呂(756年生)の3つ年上です。

 

2人は一緒に大納言へ上り、上位者の薨去もあって一緒に朝堂トップとなるのですが、先述のように伊予親王への気持ちが微妙だった平城天皇は、雄友をあまり重用したくなかったようで、内麻呂の昇進を優先させ、右大臣に任じました

 

ここで、「伊予親王の変」(807年)が起こります。

藤原宗成が、伊予親王に「謀反」を進言したのです。

 

平城天皇の皇太子は、伊予親王の異母弟の神野親王(平城天皇の同母弟)。

これに取って代われと、長幼の序でも説いたんでしょうかね。

 

雄友はこの出来事をすぐさま察知。伯父として謀叛事件に巻き込まれるのは御免だ!と、右大臣の内麻呂に報告しました。

 

政敵の内麻呂に報告すると言うのもヘンなかんじがしますが、この事件の黒幕は、式家の仲成(薬子の兄)とも目され、それを看破した雄友が、式家に対抗するために北家の内麻呂に共闘を申し込んだのかもしれません。

 

あるいは、謀反を進言したといわれる藤原宗成は、永手の曾孫にあたる人物(永手-家依-三起-宗成)。

つまり藤原北家の人物で、内麻呂にとってはちょっとしたピンチだったのかもしれません。「これが騒動に発展したら、私も困るけれど、内麻呂殿も困るでしょう?」というかんじなんですかね。

 

ところが、宗成はとんでもないことを言い始めます。「私が謀反を進言したんじゃない。伊予親王がやりたいと言ったんだ」

 

伊予親王が黒幕だった…この自供によって、伊予親王は謀反の罪で捕えられ、奈良の川原寺に母の吉子とともに幽閉され、やがて母子ともども服毒自殺(暗殺とも)という悲劇的末路を辿ります。

 

雄友は連座して流罪となり、ついでに南家の乙叡(たかとし)も解官(平城天皇が個人的に嫌っていたらしい)
一度に2人も議政官を失った藤原南家は没落してしまいました。

 

後に、伊予親王は冤罪だったことが判明するのですが、平城上皇には伊予親王の謀反を疑問視した形跡は見られません。

 

何故に伊予親王を助けなかったのか…?まぁ、どちらかといえばキライな相手だったから…かもしれませんが、側近の仲成が裏で暗躍していたから…とも、とれます。

 

ともあれ、「伊予親王の乱」によって、「南家vs北家vs式家」の御家対抗昇進レースから、南家が脱落。

仲成・薬子の兄妹が不気味に蠢動する「式家」との決戦は、内麻呂の子世代に引き継がれます。

 

 

藤原氏本流に連なる内麻呂の子は、冬嗣(ふゆつぐ)

 

冬嗣は内麻呂の次男で、長兄に真夏(まなつ)がおりました。

 

夏と冬…生まれた季節なんでしょうかね?ちなみに、その後の兄弟にも秋継(三男)桜麻呂(四男)と、季節がついた名前が続きます。

しかし、四男までで四季ができるせいか、五男(福当麻呂)からは季節関係ない名前になってます…ネタが尽きた?^^;(それにしては、夏→冬→秋→春と順番が謎なんですが)

 

ちなみのちなみに、神野親王(嵯峨天皇)に嫁いだ娘も「緒夏」と、「夏」がもう一度ついています…やっぱり生まれた季節なんかな(いずれも系図では省略されてます…ごめんちゃい)

 

真夏と冬嗣は、前回紹介した百済永継から生まれた同母兄弟。

それなのに、真夏(兄)の子孫が傍流に転落し、冬嗣(弟)の子孫が本流になっていった原因は、一言で言うなら「所属の違い」。

 

真夏は、安殿親王=51代・平城天皇の側近

冬嗣は、神野親王=52代・嵯峨天皇の側近だったのです。

 

長男・真夏が仕えた安殿親王は、問題ある性格が桓武天皇に疎まれ、さらに虚弱体質だったので、本当に即位できるか、即位しても治世がどれだけ続けられるかが、不安要素。

 

内麻呂は万全を期すため、次男の冬嗣を次期皇太子に目される神野親王(安殿親王の第一皇子・高岳親王がまだ幼少だったので、中継ぎ的に同母弟を桓武天皇が指名していた)のもとに送り込んだのでは…と言われています。

 

延暦25年(806年)、内麻呂に目をかけてくれた桓武天皇が崩御すると、平城天皇が即位。

そして神野親王が皇太子となりました。

 

2人の息子を送り込んだのがそれぞれ、現天皇と次期天皇となる。

これだけ見れば、内麻呂の布石は中々のものw

 

ところが、在位3年後の大同4年(809年)、体調不良と早良親王・伊予親王の祟りを理由に、平城天皇が嵯峨天皇に譲位してから、運命の暗転が始まります。

 

平城上皇は病気療養のため、古都・平城京に居を移すのですが、生まれ故郷・奈良の空気は治癒の役に立ったみたい。

 

譲位から半年後、すっかり元気になった平城上皇は、嵯峨天皇が打ったある政策に驚愕します。

 

それが「観察使の格下げ」

 

観察使(かんさつし)とは、地方行政を振興するために参議が改められて置かれた役職で、平城天皇時代の改革の目玉でした。

 

平城上皇の腹心として暗躍する藤原仲成は北陸道観察使、藤原縄主(薬子の夫。繰り返すようですが、薬子は人妻なんです…)は西海道観察使に任ぜられ、真夏も「山陰道観察使」の職を与えられ、この改革の指導者として活躍していました。

 

一定の成果はあったようなのですが、平城天皇の側近が各地に影響力を持ったことで、嵯峨天皇の時代には「平城上皇サイドの勢力が各地に扶植されている」ような状態になっていました。

 

嵯峨天皇には脅威に感じたようで、対策に乗り出したわけです。「令外官にして給料を下げ、影響力を弱めておくか」

 

つまり、「観察使の格下げ」とは、平城上皇にとって「自分の側近たちの処遇を削る」政策。断然スルーできるものではありません。

 

すると、平城上皇は対抗するかのように、「観察使の廃止」の命令を発動し、外官にされた観察使を参議(内官)に戻しました。「令外官でなければ食封が削られる謂れはないわな」

 

先に出ていた詔を、後から出した詔で打ち消す形になったこの応酬は、明らかに対立の狼煙。

 

こうして、平安京の嵯峨天皇と平城京の平城上皇が互いに指示を出して政治が混乱、2人の対立が悪化と言う、「二所朝廷」状態が発生してしまったのです。

 

事態はエスカレートして、ついには平城天皇が平安京の貴族たちに「平城京遷都」の詔を出すに至ると、嵯峨天皇も立ち上がらざるを得なくなります。

 

平城天皇は、東国に移って挙兵し「壬申の乱」の再来を演じようとしたところ、嵯峨天皇の意を受けた坂上田村麻呂が先回りして進路を遮断。

 

平城上皇は観念して剃髪し、仲成は射殺、薬子は服毒自殺。

皇太子の高岳親王は廃太子され、平城天皇の皇統は傍流に追放。

 

「薬子の変」は、嵯峨天皇の全面勝利のもとに幕を閉じたのでした。

 

 

仲成・薬子が政治スキャンダルの果てに潰えたことにより、「式家」は敗北。

 

「北家」の一人勝ちが達成されたのですが、真夏は平城上皇の側近として、敗者側に回ってしまいました

 

真夏は左遷。後に復位しましたが、政治生命は絶たれ、弟の冬嗣の系統が本流になっていくことになります。

 

父の内麻呂は、弘仁3年(812年)に亡くなっているので、「薬子の変」(809年)の時はまだ健在。嵯峨天皇の権臣として、事態を見守っていたようです。

 

「伊予親王の変」の時も「薬子の変」の時も、内麻呂は見ているだけ(笑)

 

何の繋がりもない伊予親王を擁護しなかったのはともかく、なんで真夏を呼び戻さなかったのかなぁ…というのは、結果を知っている後世人の勝手な言い草でしょうかね。

 

嵯峨天皇は、平城天皇の子・高岳親王が幼少だったために皇太子にされた、中継ぎ構想の中で即位した天皇。事実、嵯峨天皇の御時は、高岳親王が立太子しておりました。

 

そして「薬子の変」の前年、嵯峨天皇は重病に倒れていて、内麻呂は「もしかしたら高岳親王が即位して、平城上皇が後見する未来になるかもしれない」と考えて、真夏が上皇側で活動するのを黙認していたのかもしれません。

 

結果、真夏の系統を犠牲にして、内麻呂と冬嗣は、次代へ栄達の道を繋ぐことができたわけで。

 

「関ヶ原の戦い」の時、真田家が敵味方に分かれて、昌幸と信繁は没落しても、信幸は家を守ることができた…それと同じこと。内麻呂の冷徹で強かな面が、「真夏を諦める」ところからも見えて来るようですなー。

 

「薬子の変」後、平城天皇は「太上天皇」の称号を与えられ、平城京で静かに余生を過ごしました。

 

真夏は相変わらず、平城上皇に仕えています。歴史の表舞台に出る芽が無くなっても、見捨てることはなかったんですね。

 

 

真夏の妻には、伊勢老人の娘と、橘清友の娘三國真人の娘の、3人が見られます。

 

このうち、伊勢老人の娘は、平城天皇の宮人・継子(高岳親王の母)の姉妹

橘清友の娘は、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(仁明天皇の母)の姉妹

 

王者兄弟と女系で連なっている系図からは、真夏にかけられていた当初の期待が見えてこようってものです。

 

ただし、2人の夫人との間に生まれた子は、後世あんまり振るわなかったみたい。

 

三國真人の娘との間に生まれた濱雄(はまお)の系統は続いて、濱雄の子・家宗(いえむね)は参議にまで任じられています。

 

家棟は真夏の邸宅があった宇治郡日野「法界寺」を創建。真夏の系統は「日野流」と呼ばれるようになります(伝承上では。実際には11世紀…藤原道長の時代になって資業(すけなり。真夏から7世)が創建し、家名を「日野」にしたようです)

 

 

日野流の特徴は、「日記の家」。儒学で仕えるので、有職故実を書き留める必要があったわけですねー。

 

日野流からは、平安時代には有国(兼家の側近)と息子の資業(法界寺の実質的創建者)広業(道長の時代の官僚)兄弟(この親子は大河ドラマ『光る君へ』にも登場すると思う…たぶん…)、鎌倉時代では日野資朝(後醍醐天皇の側近)、浄土真宗の開祖・親鸞、室町時代になると日野富子(足利義政の妻)などが輩出されました。

 

このあたりは、またいずれ紹介するとして(さすがに余談にしては長すぎる)本日はここまで。また次回…ということで。ではではー。

 

 

 

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