大河ドラマ『光る君へ』第19話「放たれた矢」見ましたー。

 

 

冒頭、一条天皇が道長に語り掛けます。

 

「そなたはこの先、関白になりたいのか?なりたくはないのか?」

 

「なりたくはございません」と即答する道長。

 

「関白は陣の定めに出ることはできませぬ」

 

「私はお上の政のお考えについて、陣の定で公卿たちが意見を述べ、論じ合うことに加わりとうございます」

 

「後で聞くのではなく、意見を述べる者の顔を見、声を聞き、共に考えとうございます」

 

「(これまでの関白とは)異なる道を歩みとうございます」

 

ここで、オープニングへ。

 

道長の第二幕、ここに開幕というかんじ。

厭が応にもテンションが上がりますw

 

 

道長は太政官としては「右大臣」。

 

『光る君へ』では、兼家が長らく「右大臣」と呼ばれておりましたが、あそこに追いついたのだなぁと、感慨深いところがありますね。

 

 

というわけで、今回も気になった所などを列挙していきたいと思います。

 

 

 

◆陣の定

 

道長が熱弁をふるった、これからの自分の生きる道「陣の定」が、さっそく開催。

 

議題は、一条天皇が仰せになったという「伯耆国と石見国の租税を四分の一免じる」について。

 

 

藤原誠信「帝の仰せのままに」

藤原公任「帝の仰せのままに」

平惟仲「分かりません」

藤原道綱「帝の仰せのままに」

藤原実資「同じく」

藤原隆家「分かりません」

藤原顕光「帝の仰せのままに」

藤原公季「帝の仰せのままに」

藤原伊周「この儀よろしからず」

 

伊周が、そんな生ぬるい政策は許さんとばかりに、毅然と反対意見を述べます。

 

「二国の申し出を容れ、税を免ずれば他国も黙っておらぬ。そのようなことで朝廷の財を減らしても良いのか?甘やかせばつけあがるのが民。施しは入らぬと存ずる」

 

道長は堂々と正反対の意見。

 

「今だ疫病に苦しむ民を救うは、上に立つものの使命と存ずる」

 

「なんだと??」と、怪訝な顔になる伊周。

 

道綱は破顔し、実資は頷き、公任は納得の表情。

この3人は安定の味方ですねw

 

 

「陣の定」の群像、左列の一番手前にいる藤原誠信は、為光の長男で、斉信の同母兄。

 

今回は俊賢が「参議」に上がったことで斉信は「蔵人頭」に留まりましたが、「いずれ引き上げるゆえ、今回は許してくれ」と道長に言われた通り、後に「参議」に上がっているので、兄弟で「参議」として並ぶことになります。

 

その後、誠信お兄さんは色々あって…となるのですが、それは機会が来た時にまた…ということで。

 

しかし、これだけ「顔見せ」程度しか出番がないと、その機会が来るのかどうかビミョウではあるんですが…(--;

 

右列手前のお二人は、発言が無かったので誰なのか分からず…

 

藤原安親(正三位参議・74歳)

藤原時光(従三位参議・48歳)

源扶義(正四位下参議・44歳)

 

↑このうちの誰かっぽいのですが、さてさて…。

 

(中納言の藤原懐忠と源時中はどうしたのだろう?)

 

 

◆おつかいの答え合わせ

 

前回の「岐路」では、誰かから何かお願いごとをされた人が5人おりましたね。

 

定子→お上「どうか伊周を関白に」

詮子→お上「どうか道長を関白に」

伊周→定子「早く皇子を産め」

俊賢→明子「道長様に俺を褒めておいて」

まひろ→惟規「『新楽府』を借りて来て」

 

(道兼→道長「こっちに来るな!」を入れると6人)

 

この中で、ちゃんとお願いごとを果たしたのは、惟規だけという結果。

 

ポンコツのようでいて、やる時はきっちりやり遂げる弟クンw

第3話で、姉に頼まれて「三郎」を探してあげた、あの時のままですねw

 

(道長が「こっちに来るな」を聞かなかったのは、柄本佑さんのアドリブだったようで…それがなかったら、道長も惟規の仲間入りだったのにw)

 

さっそく惟規が借りて来た白居易の『新楽府』を書き写す まひろ。

 

白居易は、官吏としての人生を全うした人ですが、政治に対して真っ直ぐ過ぎていたせいで1度だけ左遷の憂き目にあったことがあります。

 

この『新楽府』は、そうした左遷以前のまだ白居易が尖っていた時代に多く詠まれた、社会や政治の実相を批判する「諷諭詩」のうちの1つ。

 

後には人柄が丸くなったのか、こうした作風は見られなくなって、自然や日常を詠む「閑適詩」へと作風が変わっていくことになりました。

 

…という白居易の人生と作風の変遷を照らし合わせると、あれだけ愛好していながら『新楽府』は知らなかった…というのは成り立たない気がするんですが、まぁドラマの都合だから仕方がないですかねー。

 

 

◆I have a dream

 

まひろのもとに訪ねてきた ききょう。

道長に関する宮中の評判を、頼まれてもいないのに まひろに伝えます(笑)

 

初めは人気のなさそうなかんじでしたが、1ヶ月ほどが経ってみると、その政治手腕はかなり高い評価を受けておりました。

 

そして、どういうわけか定子に謁見が叶う流れになり、定子の御前に十二単で見参(どこで手に入れたんだろう)

 

しかし、まもなく天皇の「渡り」があり、そのまま「いたす」のを待つ羽目になってしまうことに…。

 

「お上と中宮様は重いご使命を担っておられますので」

 

客人が来ているのに「いたす」ことがあったのかどうか?は分かりませんが、昼間からやって来て「いたす」ことがあったことは、『枕草子』にも、それっぽい記述があったりします。

 

題して「二月のつごもりころに」。

 

二月のつごもりころに 風いたう吹きて 空いみじう黒きに 雪すこしうち散りたるほど 黒戸に主殿司とのもづかさ来て 「かうてさぶらふ」と言へば 寄りたるに「これ 公任の宰相殿の」とてあるを見れば 懐紙ふところがみ

すこし春ある ここちこそすれ

とあるは げに 今日のけしきにいとようあひたるを これが本は いかでか付くべからむと 思ひ煩ひぬ  「誰々か」と問へば「それそれ」と言ふ 皆いと恥づかしき中に 宰相の御答へを いかでかことなしびに言ひ出でむと 心一つに苦しきを 御前に御覧ぜさせむとすれど 上のおはしまして御殿籠りおほとのごもりたり 主殿司は「とく とく」と言ふ げに 遅うさへあらむは いと取り所なければ さはれとて

空寒み 花にまがへて 散る雪に

と わななくわななく書きて取らせて いかに思ふらむと わびし これがことを聞かばや と思ふに そしられたらば聞かじとおぼゆるを「俊賢の宰相など『なほ内侍に奏してなさむ』となむ定めたまひし」とばかりぞ 左兵衛のかみの中将にておはせし語りたまひし


二月の終わり頃の、ある風がとても強くて暗い曇天の雪が少し降っている日。突然、藤原公任から「すこし春ある ここちこそすれ」という下の句だけが送られてきて、上の句を返さなければならなくなった…というもの。

 

名だたる者たちが揃っていると聞いて、定子に相談せねばと思ったのですが、現在お上と一緒にお休みになっているので叶わず。

 

待とうと思っていたのですが、使いの人(主殿司)が「早く早く」と急かすので、「下手なうえに返信が遅いとなると目も当てられないから、とにかく早く返すために自力でなんとかしよう!」となって、清少納言が力がこもるあまり震える手で書いた返事が、

 

「空寒み 花にまがへて 散る雪に」

 

もうどうにでもなれ…という気持ちでいたところ、「参議の俊賢が『清少納言を内侍に推薦しよう』と言うほど好評だったよ」という話を「当時は中将であられた左兵衛督」から聞いた…と結ばれています。

 

ちなみに、この「当時は中将であられた左兵衛督」が誰を指すのかは、それだけで論文が出来ちゃうほどの夢のある題材なのですが(笑)、ワタクシは「藤原実資」説を推しておりますw(だとすると『枕草子』唯一となる実資の出番)

 

そんなわけで「中宮様に相談したかったのだけれども(御前に御覧ぜさせむとすれど)、帝がいらっしゃっていて(上のおはしまして)お休みになっていた(御殿籠りたり)」と、日中からお渡りがあって一緒に寝ていることがあった様子が描かれておりますな。

 

 

ともあれ、一条天皇の謁見まで叶い、「ここは表ではないのだから遠慮せずとも良い」と促されて、演説が始まります。

 

「私には夢がございます」

 

「低い身分の人でも官職を得て、まつりごとに加われる。すべての人が身分の壁を越せる機会がある国は素晴らしいと存じます。我が国もそのような仕組みが整えばと、いつも夢見ておりました」

 

文学者たる者、自らの志は自らの言葉で述べるもの。まひろは立派に文学者でございますね。

 

「『新楽府』を読んだのか」

 

一条天皇の鋭い指摘に、まひろは喜々として『新楽府』で得た新知識を言上します。

 

「高者未だ必ずしも賢ならず。下者未だ必ずしも愚ならず」

 

身分が高い人が賢いとは限らないし、身分が低い人が愚かとも限らない。

 

これは白居易(白楽天)の「澗底松(かんていのまつ)」の一節なんだそうです。

 

 

『澗底松 念寒雋也』白居易

澗底かんていの松、寒雋かんしゅんおもふ也)

有松百尺大十圍

生在澗底寒且卑

澗深山險人路絶

老死不逢工度之

天子明堂欠梁木

此求彼有兩不知

誰諭蒼蒼造物意

但與之材不與地

金張世祿黄憲賢

牛衣寒賤貂蝉貴

貂蝉與牛衣

高下雖有殊

高者未必賢

下者未必愚

君不見沈沈海底生珊瑚

歴歴天上種白楡

松有り百尺大なること十圍(高さ百尺、幹回り十抱えもある松の大木が)

生じて澗底じゅんていに在れば寒にしてつ卑し(寒く深い谷底で寂しく生えている)

たに深く山けはしくして人路絶ゆ(谷は深く山は険しいので行く人もなく)

老死するも工の之をはかるに逢はず(老いて枯死しても、良材を求める大工に逢うこともない)

天子の明堂梁木を欠く(天子は太廟を建てようと良質の梁材を探し求めるが)

此に求めかしこに有れど兩つながら知らず(谷底に松の大木があるのに両者は互いに知らないままだ)

誰かさとらむ蒼蒼たる造物の意(蒼蒼と広がる天たる創造主の意図を誰が知りよう)

ただ之に材を與へ地を與へず(ただ大松に良い材質を与えながら、良い適地を与えなかった)

金張は世祿せいろく黄憲こうけんは賢(愚者の金日磾や張湯は先祖のおかげで名族であったが、獣医の子の黄憲は賢者の評を得ただけ貧しい生涯を終えた)

牛衣は寒賤にして貂蝉は貴なり(卑賤の者は麻の牛衣を着て、高貴な者は貂蝉の冠をかぶる)

貂蝉と牛衣と(貂蝉と牛衣と)

高下殊なる有りといへど(身に着ける者の間には身分の違いはあるが)

高き者未だ必ずしも賢ならず(身分の高い者が必ずしも賢者であるとは限らないし)

下なる者未だ必ずしも愚ならず(身分の低いものが必ずしも愚者であるとも限らない)

君見ずや沈沈たる海底に珊瑚を生じ(諸君もご存知のように人の目が届かぬ深い海底に美しい珊瑚が生じ)

歴歴たる天上に白楡を種うるを(光り輝く天上のような宮中にはありふれた白楡の木が植えられている)

 

 

谷底にある立派な松は、知られることなく朽ちて行く。天上にあるのは、ありふれた白楡の木ばかり…という、痛烈な社会風刺の中の2句だったわけですな。

 

(それにしても「松の木柱も三年」って言うけれど、これは日本だけの話なんかね?)

 

漢詩というと「五言絶句」とか「七言律詩」とか、1句(1行)の文字数が決まっているイメージですが、この『澗底松』は御覧の通り、1句の文字数が決まっていません。

 

これは、先に音曲があって、後から歌われた形でつけられる形式の「詞」と同じなんでしょうか(「楽府」が、音曲が先なのか後なのかは、よく分かりませんが…)

 

西域に領土が広がったことで、異国情緒漂う音楽「胡楽」が持ち込まれたことにより、庶民に流行っていったという、「唐」ならではの新しい形の漢詩だったのかな。

 

あちらの白楽天(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12792155963.html

 

「六位前式部丞の娘」と「時の帝」が白楽天の志についての言葉を交わす華やかな場に、あのピリピリした中関白家の兄弟が参内。まひろ と ききょうは、足早にその場を立ち去ります。

 

人払いがなった所で、帝への伊周の言上はまたしても「はやく皇子を」

 

「伊周はそれしか言わぬな…もうよい、疲れた。下がれ」

 

その一部始終を見ていた定子の渋い表情は、何を物語るのか…?

 

やっぱり、まひろが引用した、アレ。

 

「高者未だ必ずしも賢ならず。下者未だ必ずしも愚ならず」

 

まひろみたいな、身分が低いのに志があって知識もある「賢」なる人がいる…それはいい。

 

でも、「身分の高い者が賢いとは限らない」は、困る…。

最近の兄・伊周は「愚」に成り下がっているのではあるまいか。

 

「帝には、そのように思われたくはないのだけれど…」

 

そんな溜め息のような表情に見えましたね…。

 

 

◆真っ赤な束帯の従五位下さんは

 

一条天皇から「政治について語る面白い女に出会った」という雑談を聞く道長。

 

「名は確か、ちひろ…いや、まひろと申した」

 

思わず口が開いてしまう道長(笑)

「開いた口が塞がらない」も、半分あったんでしょうかw

 

「身分低い者から能力がある者を取りあげるよう提案してきた。あれが男だったら、登用してみたいと思った」

 

これを聞いて、道長の脳裏にひらめきが走ります。

 

「身分の低い者から能力ある者を引き上げてやんよ!」とばかりに探し出したのが、為時の申文。

 

まひろと道長の志が交差したところに、為時の出世があったんだな。

 

さっそく、為時の堤邸に勅使がやって来て、平安時代の「貴族の仲間入り」を意味する「従五位下」に叙される勅令が申し渡されました。

 

「右大臣様の推挙でございます」

 

為時は「まひろと右大臣に何かあった」のが要因だと思っているようだけど、道長は蔵人だった為時の働きぶりを、以前耳にしておりますからねー。

 

それを思い出して「身分は低いが能力がある」を確信していたんだと思います(まひろの父というのも、もちろんありつつも)

 

これで、まひろの「越前ルート」の扉が見えてきましたね。まもなく旅立ちですし…。

 

「殿様…我が屋敷には赤い束帯はありません」

 

そう、従五位下は「緋(あけ。赤色)の束帯」なんですよねー。

 

  • 黄櫨染
    天皇
  • 黄丹
    東宮

  • 四位以上

  • 五位

  • 六位以下
  • 青白橡
    蔵人

 

ふと気になって、道長っていつから「緋の束帯」だったかなぁ…と調べてみたら、第2話「めぐりあい」から。

 

「右兵衛権佐どの、梅壺の女御様からお召しでございます」と呼びつけられた時、緋の束帯でした…え、序盤も序盤…。

 

まぁ、確かに縹の束帯姿をしている見覚えはないけれど…。

 

摂関家って、色々ズルいですね(何)

 

 

 

◆スパイ大作戦(俊賢)

 

新右大臣の差配よって「四納言」が本格始動。

今回、その有能さを発揮したのは、俊賢と行成。

 

道長が親しい幼馴染の斉信の昇進を先送りにしてまで、俊賢を「参議」に任命した、その意図は「伊周たちの元に潜り込ませる」ため。

 

俊賢は、右大臣道長に不満で出仕をやめてしまった、伊周と隆家の説得にあたります。

 

「埋伏の毒」ということかな(そこまで敵対的ではないですが)

 

確かに斉信では道長に近過ぎて、第三者的な使者として向かうには不向きでした。

 

でも、俊賢だって「道長の妻・明子の兄」。だいぶ距離は近いはず。実際、そのあたりを隆家に詰められてしまいます。

 

しかし、そんなことは俊賢も折り込み済み。


「私は源氏の再興のために右大臣様に近づいているのであって、忠義立てしているわけではございませぬ」

 

「自分は藤原ではない」と仲間外れ感を想像させて、道長の仲間ではないことをアピール。

 

「内大臣様の方がお若くご聡明で、いずれ高みに昇られましょう」

 

と、おだてに弱そうなボンボンの功名心をついて心理的な穴をあけ、さらに2人が「一条天皇」の忠臣であると自覚している「弱いところ」をつく作戦に出ます。

 

「お上はお二人を心配しておいででした」

 

何だって?と注意を引いたところで、必殺の言葉で斬りつけます。

 

「右大臣様に対抗する力が無ければ、内裏も陣の定めは偏りなく働かぬと、帝はお考えなのではありますまいか?」

 

「帝がそう仰せになったのか?」

 

「そのようにお見受け致しました」

 

ここで「そのようにお見受け致しました」と言っているのがポイントですよね。「私がそう思っただけと言ったんです。ウソはついてないです」と行けるというw

 

「私は蔵人頭として長く帝の側に仕えてまいりました。だから私の目に狂いはございませぬ」

 

事実を織り込んだ、中々の説得力ある言葉。言い切ることで、「帝の意見じゃなくて貴方の感想ですよね?」というツッコミを封じ込めてしまいます。

 

「是非、ご参内を!内大臣様と中納言様のおわさぬ陣の定めなぞ、あってはならぬと存じます!」

 

考える時間を与えず、最後の詰め。伊周と隆家は、これでコロっと「陣の定」に参内するようになってしまいますw

 

こんな交渉能力まで見抜いて俊賢を「参議」に抜擢して自分のとこに取り込んだんだのかなぁ…道長の人を見る目はずば抜けていますねw できれば、そういう描写が1つでもあったら、もっと良かったんですが…。

 

そして、この腹芸の上手さ。なんだか「道兼の再来」というかんじがしてしまいました。これからの汚れ仕事担当なんだろうか…と。

 

でも、道兼は「汚れ仕事は俺の役目だ(悟り切った顔)」な感じでしたけど、俊賢は「汚れ仕事は俺の役目だ(ギラリと光る白い歯並び)」という感じがして、むしろさわやかさまで滲み出ているように感じてしまうというか(笑)

 

 

なお、実際の俊賢は、おそらくは「かなり定子びいき」な人でした。

 

俊賢が出世の登竜門「蔵人頭」に任ぜられたのは、正暦3年(992年)8月、道隆政権下でのこと。

 

しかも「五位蔵人」という、藤原師輔・藤原挙賢(伊尹の子)・藤原顕光・藤原道兼といった、藤原北家の有力な人物の中でも「選ばれし者」しか就任していないレアな人事で抜擢されたのでした。

 

俊賢は、道隆から受けたこの恩顧を返さずにはいられなかったみたい。

この先、落ちぶれていく「中関白家」の泥船から定子を守るべく、時には政治的な危険まで冒して助け舟を出しています。

 

ただ、定子には手を差し伸べたけど、伊周や隆家にはどうだったかというと、うーむ…?

 

一応、「長徳の変」で失脚した伊周に同情的な意見を出してはいるけれど、これには公任や実資も同意しているので、俊賢の特別な情が入っているかというと…ねぇ?

 

ともあれ、定子には同情的だけど、伊周や隆家には白紙状態という、この状況をどう染めて来るか、脚本家さんの構想力には注目ですかなー。

 

 

◆スパイ大作戦(行成)

 

行成の方は、諜報活動。

 

「行成の書は女に人気だから、それで情報網が敷かれている。その情報を汲み取れば、うまく活用できる」という。

 

そして、これを提案したのが公任。

公任、堂々たる名軍師ぶりですな…今後、この路線で行く?(笑)

 

行成がもたらした情報は、中々に興味深いものでした。

 



藤原朝経
於公事泥酔及数度
人々云酒狂之者也
去春邊父喪之後殊甚云々
源頼定
有密通斎宮之疑
藤原通任
為侍従之間佐公事懈怠被恐懼数度
藤原公信
度々於京内及喧嘩云々

 

…と書かれていると思う(たぶん)

 

「藤原朝経は酒乱」

「源頼定は斎宮と密通している」

「藤原通任は職務怠慢のクセがあり」

「藤原公信は京中で度々喧嘩をしている乱暴者」

 

という公家たちの「弱み」情報が上がっているわけですねw


ここに上げられている人たち、実は伊周に近い人が多くて、見ていて「ほほう」となりましたw

 

藤原朝経は「従五位上・右近衛権少将」

先の疫病で亡くなった藤原朝光の子(ということは、兼通の孫)

 

藤原通任は「従四位下・右近衛少将」

こちらも先の疫病で亡くなった藤原済時の子。

 

朝光と済時は道隆の酒呑み友達で、道隆政権を支えたトップ政治家ともいえる存在でした(『光る君へ』では全く描かれませんでしたが・涙)

 

つまり、朝経と通任は伊周と共に「道隆グループの子たち」というわけ。まぁ、二代目同士が結託するかどうかは未知数ですけど、現段階で警戒しておくと言うのは、無駄ではなさそうですかね。

 

藤原公信は、斉信の異母弟。「藤侍従」の名で『枕草子』にも登場します(「五月の御精進のほど」)

 

ということは「公信=斉信サイド=道長グループ」じゃん?と思いたくなるのですが、今回の大河でも描かれた通り、伊周は斉信の妹(『光る君へ』では「光子」)の元に通っておりました。

 

この光子は、公信の同母妹(斉信にとっては異母妹)。ここから伊周グループである可能性も否定できなかったりするわけですねー。

 

(ついでに言うと、妹が伊周と付き合っている以上、斉信だって伊周グループである可能性は否定できなかったり。だから俊賢を先に「参議」にした…のかもしれませんな)

 

なお、公信は平資盛(重盛の次男)の母方祖先でもあったりします。

 

源頼定は、為平親王の子。『枕草子』にも「宮の中将(「にげなきもの」)」または「源中将(「五月ばかり」)」の名で登場しています。

 

為平親王は、かつて冷泉天皇の「皇太弟」の座を円融天皇と争って敗れ去った、あの人物ですねー。時と場合によっては、天皇になっていたかもしれない人物です(頼定も)

 

伊周たちとの繋がりは不明なのですが、史実としては「長徳の変」に連座して出仕差し止めとなっているので、伊周グループの人物であることは間違いなさそう。

 

というわけで、行成が情報を持ってきた4人は、いずれも「仮想敵」伊周繋がりの皆さん。

 

道長は、まだ「花山法皇奉射事件」も起きる前から目を付けていたことになるわけですね…というか、そこまで忖度・推測して情報を集めた行成のデキる子ぶりが恐ろしい(笑)

 

ちなみに、「間諜」行成が持ってきた情報ですが、通任の「職務怠慢」は同様のエピソードがあるのですが、「酒乱」「斎宮と密通」「喧嘩騒動」は、よく分かりませんでした…。頼定は2回ほど著名人と密通するエピがあるんですけど、どっちも斎宮ではないしね…。

 

(なお、995年当時の斎宮は恭子女王。為平親王の御息女、つまり頼定の同母妹です。妹と密通したという情報、これ何なんだろうか…?)

 

 

 

というわけで、今回は以上。

 

タイトルの「みどり摘み」というのは、伸びて来た松の枝や芽を選んで摘み取ることを、こう呼ぶらしいです。

 

ほっとくと、思わぬ方向に曲がったり、伸びたり、あるいは伸びなかったりするのを、よーく見定めて手をかけることで、思い通りの松に育てていくわけですな。

 

俊賢や行成の活用術を見つけて「大木に育てようとした」道長は、まさに白居易の詠んだ「澗底松」を地で行くような手腕でしたな。

 

そして、為時がずっと着ていた「六位」の「縹色の束帯」が、なんだか「みどり色」に見えて、それを摘み取って「緋色の束帯」にしたね…というのもかけてみましたw

 

(っていうか、今更だけど「縹色」ってあんなに緑色なもんなの?なんかもっと水色っぽいイメージでした)

 

身分が低くても才や志を持つ者、まだ開かない能力を秘めたままの身近にいる仲間、などなど、後で「思わぬ名木であったなぁ」とほくそ笑めるような人材活用。それこそが「関白にならない男」の往く一本道…かな?

 

あれだけの権勢を恣にした道長が何故「関白」にならなかったのか?は、諸説あるみたい。

 

「関白は陣の定に出席できないから」は、その中の有力と見られる答えの1つ。

 

『光る君へ』は、この路線で行くようですが、その理由を「自分で政治に参加したい」という理由にしておりましたね。

 

史実の道長は、当初「関白にならなかった」のは「ならなかったというより、なっていられなかった」と言われています。

 

なんせ、道長の嫡男・頼通は、長徳元年(995年)時点で3歳。「まだ公卿にもなっていない」どころか、幼児も幼児…。

 

そんなときに道長が「関白」になって「太政官」から抜けてしまったら、相当遠い未来まで道長の家から「議政官」が不在になってしまうからです。

 

もしも「一上」になった時に伊周くらいの年齢の嫡男がいたら、道長は「関白」になっていたかもしれないですね。

 

『光る君へ』のように、議論に参加することに意味がある!という思想を持つとしたら、道長は相当のディスカッション能力を有さねばなりません。

 

史実の道長がその手に優れていたかどうか?は、まだ研究が待たれる分野ではあるんですが、そこまで天才的ではなかった…とワタクシは思います。

 

でも、だからといって、上記の通り最終決定者側の「関白」になるわけにはいかない。

 

では、どうするか…というと「外に注意を向けさせて、自分の方に敵意や憎悪が向かないようにする」のが一番。これぞマキャベリの帝王学。

 

具体的には…?それは、これから追々見えて来るかと思うので、その時が来たらまた…ということでw

 

 

 

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大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
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