先日のことですが、SNSで「学校のカリキュラムに『古典』の授業って必要?」という提言が話題沸騰となっておりました。

 

どこかのテレビに出ているコメンテーターな人と、お笑いタレントさんが火種を投下したのが発端…らしい?

 

「古典なんて社会に出ても役に立たないでしょ。それよりも、現実に役に立つ英語や数学に時間を回すべき」みたいな。

 

その答えを求めて「時間効率」「教養の大切さ」「知識の重要度」「知る権利」「知る機会の喪失」「文化論」など、様々なテーマが出て荒れまくり。

 

「この話題、何度目だ…」という感じなんですが、これだけテーマが乱立すれば、何回持ち上がっても荒れまくるだけで、建設的な結論なんて出るわけがないですな。

 

そもそも、建設的な意見を求めて…よりも、学生時代の不満や鬱憤を晴らしているだけのように見えるんですよね…。

 

 

これに対するワタクシの意見なんてものは、歴史オタクなんぞやっている種族ですから、黙っていてもお察しなんで置いておきますけれどもw

 

「古典の授業は必要か?」の話題が出ると、学生時代に漢文を習った、あの頃のことを思い出してしまいました。当時、まぁまぁ得意だったのもありまして(笑)

 

ただし得意だったのは読文であって、文法はダメダメでしたが…。

 

でも、「くーからくーかりしーきーかるけれかれ」のク活用とか、まだ覚えているなぁ。使う機会は皆無ですけれど(笑)

 

ありおりはべりいまそかり…なにかの呪文のようですな。

 

 

漢詩も、いくつか習いましたよねー。

ワタクシ「古典」の授業では、この漢詩(と漢文)が特に好きでした。

 

今でも諳んじられるのもいくつか。『絶句』と『涼州詞』なら、今でも漢文体で書き起こすことができました(やってみた)

 

そんなことをしていたら、学生時代に「古典」の授業で習った漢詩をテーマにしたブログをやってみようかな…と触発されてしまいまして。

 

詩の知識もスキルもほぼない、ただの歴史オタクが語る漢詩の講義というのも、また面白いのではなかろうか。

 

冒頭の話題も、SNSではだいぶ鎮火してきたので(笑)、そろそろ頃合い…ということで、やってみようと思います。

 

 

ただワタクシ、このブログを見てもお分かりのように、歴史オタクをやってる人間なので、漢詩に触れる機会は一般の方々よりも、きっと多め。

 

あとから覚えた漢詩を、授業で習ったと勘違いしている可能性もありそう…。

 

あと、漢詩の意味とか読み方とか、間違っている可能性もありそう…(調べりゃいいか)

 

まぁ、ここは予習復習受験対策ブログではないので、そのへんはゆるーくやってみたいと思いますw

 

 

 

 

『絶句』杜甫

江碧鳥逾白

山青花欲然

今春看又過

何日是帰年

江はみどりにして鳥はいよいよ白く(長江の水は碧色に輝き、鳥はますます白く映え)

山は青くして花はえんと欲す(山は青々と茂り、花は燃えるように鮮やか)

今春みすみす又た過ぐ(今年の春もみるみるうちに過ぎ去ろうとしている)

いづれの日かれ帰年ならん(私はいつになったら故郷に帰ることができるのだろうか)

 

 

漢文の授業といえば杜甫。杜甫といえば漢文の授業。

 

「起承転結」を1句ずつ、4句構成で詠む詩を「絶句」と呼び、1句が5文字になっている絶句を「五言絶句」と称す。句の終わりの音で韻を踏むのがルール。

 

タイトルがなく、五言絶句の代表歌であるがゆえに『絶句』と呼ばれ称される杜甫の絶句は、授業の最初の方で習ったような気がします。

 

こうはみどりにしてとりはいよいよしろく、やまはあおくしてはなはもえんとほっす…今でも楽勝で諳んじられますねw

 

杜甫(とほ)は、通称「詩聖」。唐の9代皇帝「玄宗」の時代の人。

 

玄宗は712年~756年、皇位にあった人。楊貴妃を寵愛したことでも有名ですかね。

 

日本では奈良時代。「古事記」(712年)「日本書紀」(720年)が完成し、「長屋王の変」(729年)、「藤原四兄弟の全滅」(737年)、「藤原広嗣の乱」(740年)などの激動の時代。「東大寺大仏開眼」(752年)もこの頃の出来事となります。

 

杜甫は『三国志』で孫呉を滅亡させた名将・杜預(とよ)の子孫といわれています。

 

あれからの孫呉の歴史(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12777799069.html

 

比較的名門と言える家の生まれでしたが、「科挙」の難易度はハンパなく、険しい仕官の道を苦しみながら歩むことになりました。

 

この就職活動の時代に、朝廷を辞して2度目の旅に出ていた李白と出会い、意気投合して名所めぐりをしていたりします(ちなみに李白の方が11歳年上)


ようやく仕官が叶って「右衛率府兵曹参軍(うえいそつふへいそうさんぐん)」という武器庫の管理を担当する官職を得るのですが、閑職に耐えきれなかったのか、あるいは鬱屈した性格が何かのトラブルを起こしたのか、やがて杜甫は公務員の地位を棄ててしまいます。

 

そして、長安が戦乱の世情不穏となっていたこともあり、家族を引き連れて都を出て「蜀」へと移ることになりました。

 

というのも、ここには知り合いの厳武が「節度使(唐における地方長官)」として赴任していたから。

 

彼を頼って「成都」に移住し、草堂を結んで住まいとしたのでした。

 

 

『絶句』は、この疎開先だった蜀の地で詠まれたもの

 

長江は碧にきらめき、鳥は真っ白、山は青々と繁り、花は燃えるように鮮やか。

 

目を見張る南国の美しい風景。でも、俺の故郷ではないんだよな…。

いつ帰れるのだろうか…。

 

というような意味になってます。

 

やがて、厳武が早死にしてしまったことで後ろ盾を失った杜甫は、「何れの日か是れ帰年ならん」と句で詠んだ通り、再び故郷の長安を目指すのですが、その旅の途上に志半ばで窮死。長江を下る船の上で生涯を閉じています。

 

 

 

『春望』杜甫

国破山河在

城春草木深

感時花濺涙

恨別鳥驚心

烽火連三月

家書抵萬金

白頭掻更短

渾欲不勝簪

国 やぶれて 山河(国家は戦乱でぼろぼろになったが、山河は昔からの姿で変わらずにある)

城 春にして草木そうもく深し(城内には春が来て、草木が青く茂っている)

時に感じては花にも涙をそそ(時世を感じては咲く花にすら涙をこぼし)

別れを恨んでは鳥にも心を驚かす(家族と別れた暮らしを嘆いては、鳥の賑やかさに家族が戻ったような気がしてそわそわしてしまう)

烽火ほうか 三月さんげつに連なり(戦で上がる烽火は何ヶ月も続き)

家書かしょ 万金にあた(家族からの手紙は何よりもの宝物である)

白頭けば更に短く(心を痛めて白髪の頭を掻けば、髪はさらに薄くなっていて)

すべしんえざらんと欲す(まったく簪(かんざし)を挿すこともできなくなってしまった)

 

 

2句で1聯を成し、それを4聯(つまり8句)やる形式の漢詩を「律詩」と呼ぶ。『春望』は代表的な五言律詩

 

普段まったく使わない言葉ですが、そう、「律詩」だったわ…思い出してきました(笑)

 

先ほどの『絶句』の段で、杜甫は長い就職活動の末にようやく仕官が叶い、しかし辞職して旅に出たと紹介しましたが、その公務員時代に安禄山と史思明による反乱「安史の乱」(755年)が勃発し、杜甫は安禄山の軍隊に見つかって、捕虜の身となり連行されてしまいます。

 

とはいえ、誰からも見向きもされない低い地位の役職にいたため、軟禁程度の扱いで比較的行動は自由。

 

そこで少し外に出てみた時、戦禍でボロボロになった街が目に入り、戦争はまだ終わらないのだろうか、家族はどうしただろうかと心配になり、悲嘆して詠んだのが『春望』でした。

 

(「別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」「家書 万金に抵る」は、捕虜となり家族と一緒にいれない身を嘆いているわけですな)

 

くにやぶれてサンガアリ…出だしは有名だけど、その後なんだっけ??になっちゃう人多し。

 

律詩は1聯の中にカテゴリーと文字数が同じで意味が響き合う言葉「対句」を駆使するのがルール。

 

「国」と「城」「山河」と「草木」「花」と「鳥」。そう対句で覚えておくと、続きも意外と覚えられそう…ですかね。

 

 

 

『黄鶴楼送孟浩然之広陵』李白

黄鶴楼こうかくろうにて孟浩然もうこうぜん広陵こうりょうくを送る)

故人西辞黄鶴楼

烟花三月下揚州

孤帆遠影碧空尽

唯見長江天際流

故人こじん西のかた黄鶴楼こうかくろう(わが友は西の黄鶴楼に別れを告げて)

烟花えんか三月さんがつ揚州ようしゅうに下る(花霞にけむる3月に揚州へと下って行く)

孤帆こはん遠影えんえい碧空へきくうに尽き(ぽつんと浮かんだ船が遠く青空の中に消えて行き)

ただ見る長江の天際てんさいに流るを(ただ長江の流れだけが天の果てへと流れている)

 

 

お酒とお遊びが大好きな「詩仙」李白(りはく)

遣唐使として渡唐した阿部仲麻呂のお友達

 

哭晁卿衡(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11375406885.html

 

尊敬する大先輩の孟浩然(もうこうぜん)が揚州へ旅立つのを見送った時の七言絶句

 

先輩を乗せた船が帆を膨らませて長江へ出立し、交流を重ねた黄鶴楼から東へと川を下り、見守るうちにだんだん遠くへ、だんだん小さくなって、やがて空に溶け込むように見えなくなっていく…という描写。

 

寂しいとか、涙を流したとか、直截な言葉は一言もないのに、情景描写だけで別れの寂しさが滲み出ていますなー。

 

李白は西域あたりの商人の生まれ。唐の皇帝は「李姓」だったので、怪しい出自を隠すために「李姓」を名乗った…なんていう説もあったりするようです。

 

少年時代から青年時代にかけて「蜀」に移住しています。

 

「蜀」は「道教」発祥の地。李白の詩には神仙思想に影響された描写傾向がみられ、この地が関与していると言われています(だから「詩」なんですかね)。

 

実家は裕福で、任侠者のような生活を送っておりましたが、学問と詩才はズバ抜けて優秀だったみたい。やがて立身出世を目指して諸国行脚の旅に出立。商人階級の出自ゆえに「科挙」が受けられないので、有力者の推挙を得るための見聞と人脈を広げる目的の旅でした。

 

孟浩然と出会ったのも、十数年に及んだ諸国漫遊の旅の途中。

交流を温めた「黄鶴楼」は、現在の「武漢」にありました。

 

 

やがて、とある道士に出会い、玄宗にお目通りする機会に恵まれるのですが、頂戴した官職が「翰林供奉(かんりんぐぶ)」。お召しがあった時に詩を献上するだけの、はっきり言って閑職でした。

 

長年の下積みが実ってようやく仕官できたというのに、「思ったのと違う…」ということで、2年で致仕。以降、再び諸国放浪の旅に出て、やがて生涯を終える、報われない人生となってしまいます(この時に、先述の杜甫と出会っています)

 

最後は舟遊びの最中、水面に写った月を酔っぱらった手で取ろうとして転落し、溺死…なんていう伝説も。

 

李白って名前は有名だけど、授業ではあと何を習ったっけ…?というと、思いつかない…。これだけだったんかな??

 

 

 

『春暁』孟浩然

春眠不覺曉

處處聞啼鳥

夜来風雨聲

花落知多少

春眠しゅんみんあかつきを覚えず(春の眠りは朝になったのも気づかない心地良さ)

処処しょしょ啼鳥ていちょうを聞く(日が昇ったのか、あちこちから鳥のさえずりが聞こえる)

夜来やらい風雨の声(昨夜は風雨の音がしきりに聞こえていたが)

花落つること知りぬ多少ぞ(どれだけの花が落ちてしまったのであろうか)

 

 

先ほど李白に見送られていた大先輩・孟浩然が詠んだ五言絶句。

 

「春眠暁を覚えず」の出だしがあまりに有名。でもその先はやっぱり記憶は曖昧になりがち(^^;

 

孟浩然の頃の「暁」「眠れなかった」(悲しい、寂しい、腹立たしい)を詠むことが定石だったそうな。

 

それを「まだ寝ていたい」と詠む180度の発想の転換で、詩界は「あっ!」となったとかなんとか。

 

孟浩然もまた「科挙」の壁に阻まれて仕官がかなわず、あきらめて「風流」に生きたという人。性格が奇矯なので近寄る人は少なかったのですが、李白など個性の強い詩人は好んで道交を重ねていたと言います。度量は小さくはなかったということですかね。

 

方々から鳥の啼き声が聞こえて日が高くなったことを知り、風雨の音を思い出して花はどれほど落ちたかなぁと思う。

 

花が全部落ちたら、春は終わり。

 

視覚的描写は一切出てこないけれど、移り行く光景や季節がビシビシ感じられますね。

 

「春眠暁を覚えず」は聴覚的漢詩だったんだな。

 

 

 

『涼州詞』王翰

葡萄美酒夜光杯

欲飲琵琶馬上催

酔臥沙場君莫笑

古来征戦幾人回

葡萄ぶどう美酒びしゅ夜光やこうはい(葡萄の美酒が月の光に照らされた杯に注がれ)

飲まんと欲すれば琵琶びわ馬上にもよお(いざ飲もうとすれば誰かが馬上から琵琶を奏でて煽ってくる)

酔うて沙場さじょうすとも君笑ふことかれ(酔っ払って砂漠に倒れ込んでも笑ってくれるな)

古来こらい征戦せいせん幾人いくにんかえ(戦場から生きて帰れた者は幾人もいないのだから)

 

 

「葡萄の美酒」「夜光の杯」「琵琶」「沙上」「征戦」と異国情緒あふれる七言絶句。

 

詠んだのは王翰(おうかん)。唐時代の詩人(李白と同時代ながら、ちょっと前の人)。

 

并州晋陽の出身。晋陽といえば『三国志』の名将・呂布の出身地のあたり。騎馬民族っぽい雰囲気を感じるのは、「馬上」という言葉とともに、この出自も影響しているんですかねー。

 

唐は3代・高宗の時代に外征政策を活発化させ、最大版図へと至りました。ちなみに、高宗の皇后が則天武后。

 

東は朝鮮半島にも介入して「百済」滅亡を達成(660年)。日本史から見ると「白村江の戦い」(663年)への導火線に火がついたのが、この時代。

 

西は父帝である2代・太宗(李世民)が突厥(トルキスタン)を服属させており(630年)、王翰の頃(玄宗の頃)までには涼州に「藩鎮」(「節度使」が派遣される要塞)が置かれて、西果ての国防の要を担いました。

 

 

王翰が詠んだ「涼州詞」は、節度使の軍として戦地に赴いている兵士たちの悲哀を異国情緒に混ぜ込んで詠んだもの。

 

この頃には「均田制」が崩壊して「募兵制」に移行していたので、王翰自身が募兵に応じて出征していた可能性もありながら、戦地で詠んだものかどうかの詳細は分からず…。

 

 

 

『香炉峰下新卜山居』白居易

香炉峰こうろほうの下に山居を新たにぼくす)

日高睡足猶慵起

小閣重衾不怕寒

遺愛寺鐘欹枕聴

香炉峰雪撥簾看

匡廬便是逃名地

司馬仍為送老官

心泰身寧是帰処

故郷何独在長安

日高くねむり足りてくるにものう(日が高くなり眠りも足りているのに、まだ起きたくない)

小閣しょうかくしとねを重ねて寒きをおそれず(小さな家に布団を重ねて寝ているので、寒さの心配はない)

遺愛寺いあいじの鐘は枕をそばだてて聴き(遺愛寺の鐘の音は枕を高くしてじっと聞き)

香炉峰こうろほうの雪はすだれかかげて看る(香炉峰に積もった雪は簾を高く上げて眺める)

匡廬きょうろ便すなはれ名をのがるるの地(ここ廬山はうるさい世間様から逃れるにはピッタリの場所)

司馬しばおいを送るの官(司馬という職務も老後を過ごすにはピッタリの官職)

やすく身やすきはするところ(心も身も安らげる場所こそが帰るべき所である)

故郷なんぞ独り長安に在るのみならんや(故郷は長安だけだと、どうして言い切ることができるだろうか)

 

 

平安貴族たちに大人気だったという、白居易。

公任も紫式部も清少納言も大好き。

 

ちなみに白居易は、姓は「白」名は「居易」字は「楽天」なので「白楽天」と呼ばれることもありますが、ここでは「白居易」で統一しますね。

 

「香炉峰~」は、白居易の七言律詩。授業で習ったような、習ってないような…。

『枕草子』の有名な段「香炉峰の雪」の出典として習っただけで、詩自体の読み解きは授業でやったわけではない??

そんな気配が濃厚ですが、まぁやっちまいますw

 

白居易は「安史の乱」(755年)も昔の出来事となった、12代・徳宗の時代の人。

 

「科挙」に将来の道を阻まれて苦悶した杜甫や孟浩然と違って、20代後半にして「科挙」に合格(800年)。50歳で合格でも「若い」と言われているというのに(合格率は3%以下と言われます)、たいしたもんです。

 

この時の同期が、『光る君へ』の「二人の才女」で ききょう(清少納言)が名を挙げた元微之(げんびし)だったわけですねー。

 

以降、白居易は生涯を終えるまで、お払い箱になることも自ら地位を棄ててしまうこともなく、それどころか大臣まで任命されたりして、官吏としての人生を全うしました。

 

それでも順風満帆というわけではなく、越権行為を働いたことが「けしからん」と上司のお怒りを買って、左遷の憂き目に遭ったことがあります(815年)

 

「司馬」(副知事)という何もやることがない役職を与えられ、「江州」に飛ばされてしまいました。「しばらくそこで、頭を冷やしなさい」ということでしょうかね。

(この時、白居易の左遷を嘆いた詩を元微之も詠んでいます)

 

白居易は落胆こそすれ、腐ることはなく、この閑職の期間を有効利用。

 

江州の名勝である「廬山」のふもとに山居(別荘)を結び、ここで詩を賦し酒に耽る遊興を洒落込みました。

 

この山居まで聞こえてきたのが「遺愛寺の鐘」であり、この山居から見えたのが「香炉峰の雪」というわけですね。

 

(漢詩の中に出て来る「遺愛寺」は現在の「東林寺」の塔頭の1つ…なんだそうです。香炉峰は2か所あるんですが、漢詩に詠まれているのはこの山塊の北方にある峰の1つ…らしい)

 

という経緯を踏まえて漢詩を鑑賞すると、なんだか閑職を楽しんでいるような雰囲気…「廬山は静かでいいな」「司馬は暇でちょうどいいな」と、なんか開き直っています(笑)

 

しかし、「故郷何ぞ独り長安に在るのみならんや(故郷は長安だけだと、どうして言い切ることができるだろうか)」と、強がっているというか、左遷はやっぱり無念だったんだろうなという感が滲み出ていますかね。

 

 

 

というわけで、唐の詩人5人を紹介した所で、今回は以上。

 

「古典」で習った漢詩って、ぜんぶ唐の時代のものでしたかね…?はるか昔過ぎて記憶が…。

 

 

「古典」の授業が「それ数学や英語より大事で時間を割く価値のあるものとお思いか?」というのは、分からんでもないです。

 

でも、荘子曰く「人は有用の用を知りて、無用の用を知らざるなり」と言うではないですか。

 

一見、世の中には必要ではなさそうな…と思われるものの中にこそ、世の中を生きていく上で欠かせない大切な要素が秘められているもの。

 

「無用の用を知らざるなり」。

 

ワタクシはこれに大賛成。

 

もちろん、高校時代にコレやられても、入ってこない人が多いかもしれない。

 

「武漢?」とか「蜀?」とか「節度使?」とか「安史の乱?」とか、前提として知っておかないと通っていけない部分が多いですよね。

 

ワタクシみたいな歴史オタクだったら、すんなり入っていける世界ですけど…

 

でも、後になって「武漢って、あの漢詩の…」とか、「蜀って、あの漢詩の…」とか、何かあった時に頭の中に甦って、ついでにその頃の思い出なんかも一緒に湧いてきて、っていうきっかけにはなるかもしれない。

 

そういうのを「心が豊か」っていうのかもしれない。

 

「無用の用」の真髄は、そんなところにあるような気がするんですよなー。

 

(あと、漢詩の授業は「中国の歴史」と「中国の地理」と、それに拘わってきた「日本人の文化」とが濃縮していて、実は無駄じゃないどころか効率的では…と思う部分もあるんですけども)