大河ドラマ『光る君へ』第7話「おかしきものこそ」見ましたー。

 

 

お話は、まひろと道長、2人の失恋話でしたね。

 

道長が送った恋文に、まひろから返事はなかったみたい。

百舌彦からの「あれはどうなりました?」との問いに「ふられたのさ」と答えておりました。

 

まひろの方は、随分と乱暴な早とちり。

 

道長が「身分差のある女性との恋愛は遊びの1つ」と考えている…と思い込み。

ショックのあまり、もらった恋文に火をつけて灰燼と化してしまいます(汗)

 

まだ14歳の下級貴族とはいえ、まひろが当時の男たちの標準的な結婚観を知らなかったとは思えないので、あのショックの受け方は、随分とドラマに都合のいい設定だなぁ…とは思いますね。読書家でもあるわけですし、知らないはずはないのでは…。

 

まぁ、道長は違うと勝手に思い込んでいたのに裏切られた気持ちになったとか、そういうことにしておきますか(笑)

 

ともあれ、2人の関係は、おそらく完全に終了。

 

これでようやく、「まひろ♡宣孝」「道長♡倫子」という、史実ルートへの道が開かれたのかな。

 

(まひろ♡直秀ルートが開かれたような次回予告でしたが…)

 

なんだかんだ言ってますけど、ワタクシもうちょっと「淡い恋の行方」みたいなのを見ていたかったです(ウフフ)

 

 

メインストーリーではないところでは、平安時代の4つの「風俗」が出ておりましたね。

 

それを交えて、今回の気になったところを列挙してみたいと思いますw

 

 

◆お隠れの忯子様

 

最愛の忯子に先立たれ、死穢を避けるため妻の遺骸に会うこともできなかった花山天皇は、ご乱心の果てにご傷心マックス。

 

モチベーションがダダ下がりして、あんなに熱心だったお仕事も義懐に丸投げするようになってしまいました。

 

平安後期『平清盛』の頃になると、堂々と愛妻の遺骸を抱いて慟哭した白河天皇や、愛妻の棺に付きっきりになった"悪左府"頼長さまのような豪胆な猛者(むしろ異常者?)が現れるんですが、この頃は「宗教的にダメなものは絶対ダメ」で別れの悲しみさえ存分にはさせてくれなかったのですなー。

 

側にはべる為時が「あまり義懐さまを重用されるのはどうかと…」と諫言申し上げるのですが、「他の者はみな右大臣家に繋がっておる」「本当に信用できるのは叔父上とお前しかおらぬ」との仰せ。

 

花山天皇は人を見る目があるようでいて、やっぱりない…。為時が右大臣家のスパイだなんて、まったく気づいていませんw

 

しかし、この一言は為時の心を揺さぶったようで、「帝の忠臣でありながら右大臣の恩でスパイをしている自分」が許せなくなってしまい、ついに兼家にお役御免願いを伝えに参上し、了承を得てしまいました。

 

「『鹿』を『馬』と言う処世術」のツラさに耐えかねてしまったわけですな。だいぶ融通が効くようになったようでいて、やっぱり性根は変わらないもんですね。

 

SNSでは「この時の兼家の目が、もう使い道がなくなったか…と、炉端の石ころを見るように興味を失っていた。でも次の瞬間には営業スマイル。怖い」という読みがバズっていましたが…どうなんでしょうかね。

 

内情を知る人物が、自分の手元から離れ、ましてや政敵たる帝のサブ腹心に収まるのは、兼家にとってマズい展開。

 

宣孝も「そう簡単に手放すハズがない」と言っていましたし、あれは「どうするべきか?引き留めるか?一旦は解放して後で詰めるか??」を熟考した表情だったと思います。少なくとも、興味を失ったのではないと思いますな。

 

もしかしたら、「ならば、為時の娘を抱き込んで、為時に牽制なり首に縄をつけるなりしておくか」の人質作戦みたいになって、それを道兼にやらせる…とか??と考えたら、あの次回予告に繋がってしまって、「マサカー!?」ってなってます。当たったら褒めてやってください(笑)

 

 

妹を失った斉信は、同僚たちと木の棒を壺に投げ込む遊興「投壺(とうこ)」を催しながら、その早過ぎる死を花山天皇のせいにしておりました。

 

怒りは滲んでいるけど、意外とショックを受けてないような…。同母妹が亡くなっているのにね。こういうのも平安貴族メンタルなんでしょうか(現代よりも死は身近だったんでしょうけど)

 

「投壺」は「えさし藤原の郷」に現物があるんだそうです。

…ン十年前に行ったことあるけど、覚えてない…。

大鎧には目が釘付けになっていたんですけどね(笑)

 

奈良の宝物庫「正倉院」にもありまして、『平清盛』の頃の康治元年(1142年)、鳥羽上皇が東大寺戒壇院で受戒するために奈良御幸を行った際、正倉院の宝物上覧が催され、御覧になっています。

 

ただ、この時は「投壺」は廃れていたようで、遊び方は一般には知られていなかったみたい。

 

鳥羽院が「これは何ぞ?」と問うたところ誰も答えられず、藤原通憲(後の信西入道)だけが「投壺という遊興の道具でございます」と答えられたそうな。

 

「棒を投げ入れた時に倒れないよう、壺には小豆を入れておったそうでございます」というので、ひっくり返してみると数粒の小豆が転がり出て、人々はその博識ぶりを称賛した…と言われています。

 

ということは、ドラマにも出たあの斉信の持ち物(?)の壺にも小豆が入っていたんでしょうかねー。

 

 

◆実資の愚痴の行方

 

何気なく実資さまのご自宅が登場。結構、広くて立派そうなところにお住まいで…さすが小野宮流の跡継ぎ!

 

むかし惟嵩親王が住んでいた、実資の祖父・実頼の邸なんですかね。もしそうなら、以前ニュースになっていた、この邸のことになりそう。

 

〈独自〉平安人の鬼門封じ? 藤原実頼邸跡から最古級の人面墨書土器(外部リンク)⇒

 

(平安京は、現在の京都御所は違う場所に建っていました。一応、捕捉)

 

中庭(?)で「蹴鞠」の練習をしながら、藤原義懐に官位で抜かれたことを、目を剥いて愚痴っておりましたw

 

大江匡房(赤染衛門の曾孫)によると、実資は「蹴鞠の達人」のはずなんですが、全く上手には見えませんでした…。

これは、怒り心頭のあまり平常心を失ってスキルが行かされていないということなんでしょうかね(笑)

 

「くどい。聞き飽きました。私に言わないで日記に書きなさいよ」と、「双六」に熱中しながら言い放つ、実資の妻・桐子さん登場。

 

実は前回の終了後、公式サイトでキャスティングが発表されていて、「おお、実資の妻も出るのか」と待っておりましたw

 

実資には何人か妻がおりまして、最初の妻・源惟正(文徳源氏)の娘かな…と思っていたのですが、惟正の娘は、ちょうど7話の寛和元年(985年)に女の子を出産しているはずが、妊婦っぽくもなく、出産後にも見えず、違うかな…?というかんじ。

 

(ちなみに、この女児の出産は予定日より遅れたらしく、安倍晴明に祈祷を依頼していたりします)

 

となると、僧・良円の母(一説には藤原朝成の縁者。ちなみに朝成は勧修寺流で、娘は宣孝の前妻)か、あるいは架空の人物か…あたりでしょうかね。

 

桐子さんが遊んでいた「双六」は、倫子さまもプレイしておられましたね。

女性にさせているのは、何か意味があるのかないのか…?

 

 

なお、実資は天元3年(980年)に「従四位上・蔵人頭・左近衛中将」に任ぜられてから、花山朝ではずっとこのまま。

 

一方の義懐は、天元5年(982年) に「従四位下」に昇進して円融朝を終えたのですが、花山天皇即位の年の永観2年(984年)8月に「従四位上・蔵人頭」となって実資に並んだと思った瞬間、10月に「従三位」→「正三位」と2回も昇進して先を越し、さらに翌年の寛和元年(985年)には「参議」となって議政官入りを果たしました(ちなみに、実資が参議になるのは、あと4年後)

 

「花山天皇の外戚」という追い風を思う存分活かして、あっという間に実資を抜き去っていた…それは、実資も愚痴りますわなw

 

というわけで「参議」に成り上がった義懐は、堂々と「陣の定」に出席。

 

「忯子に皇后の称号を贈るか否か」との議題に臨んでおりました。

 

本当は議政官の定員は16人のはずなのに、ずらりと並んだ18人の公卿たち。

(頼忠は「関白(=天皇寄り)」なので、公卿が参列する「陣の定」には出席しません。以前に出席していたことの方が異常なんですな)

 

「下位の者より順に意見を述べよ」というのに、「先例がないとダメ」との発言に「先例はある!」と、思わず順序を無視して意見を入れてしまう義懐(そして、前回の元輔のように咳払いして注意する左大臣さまw)

 

注目なのは、顕光の「わ、分かりません!」ですかね…後に全公卿たちが頭を抱えるダメダメなNo.2になる人物…その片鱗がバッチリ出ていますw

 

あと、兼家の「先例が見つかればよろしいかと」は、解釈が分かれそう。

 

「贈皇后」は「皇太子時代に亡くなった皇太子妃に、即位後に贈る」もので、即位後に女御となって、皇子も産まずに亡くなった忯子に「皇后を追贈」というのは、結構無理筋。

 

兼家も「まぁ通らないだろうが、もし通ったら、それは上手いこと使える『先例』になれるかもしれん」と、政治的な勘が働いたということか。

 

ワタクシはそれを否定しない上で、忯子に呪詛して死なせてしまった、その祟りを避けるために、名誉だけでも与えられたら与えたいと考えたのかなぁ…と思います。

 

寧子のもとで「祟り怖い祟り怖い」と震えあがってましたし、あり得るのではなかろうかw

 

 

◆「打毬」観覧試合

 

寛和2年5月(986年)、花山天皇が、冷泉天皇の時代に廃止された「端午節会(たんごのせちえ)」を復活開催。

 

競馬(くらべうま)と騎射(うまゆみ)が恒例として行われ、勇ましく華やかな宮廷行事に、都はにぎわったと思われます。

 

「63代・冷泉天皇」の代に廃止して「65代・花山天皇」の代に復活したということは、「64代・円融天皇」はその治世で1度もやってないということ。

 

「端午節会」から1週間後。円融上皇は「仁和寺」において「競馬・競射・打毬」を開催し観覧。大いに楽しんだと言われています。

 

タイミング的に考えると、花山天皇の「端午節会」に対抗してやったかのよう。「中継ぎの天皇だから、端午節会をやらなかったんだね」みたいな感じになったのが、円融上皇はイヤだったのかもしれません。

 

(「端午節会」を開催していた内裏内の「武徳殿」が火災焼失してしまったので開催できなくなり、花山天皇が「武徳殿」を再建させたので開催できた…というのが本当の事情)

 

でもって、放送前からNHKさんから宣伝されていた「打毬」の再現ニュースと、前回の次回予告の映像。

 

てっきり、「打毬」のシーンは円融上皇が「仁和寺」で観覧した御前試合ということにするんだと思ったのですが…。

 

ドラマでは「花山天皇の治世、おもしろくねぇなぁ!しゃらくせぇ!スポーツでもして鬱憤を晴らそうぜ!」で、観客を集めて試合という、青春まっさかりな理由…そうなるとは思いませなんだw

 

(試合会場は、斉信の手紙によると「一条賀茂河原」…あんまり河原っぽくなかったような?)

 

しかし、成り行きはどうあれ、令和の世に甦った「打毬」の光景は、勇敢にして躍動的にしてカッコイイw

 

演じていたの、打毬のプロ選手じゃないですよね…?ただの俳優サンですよね…?

 

あんなのが再現できるなんて、スゴイですなw

 

そして、観覧席には紫式部、清少納言、赤染衛門という、どこかで(『百人一首』で・笑)見た女房たちが勢ぞろい!

 

思わずスクショ撮りました…。肌身離さず持ち歩きます(何)

 

 

(まぁ、前回の「漢詩の会」の方が清原元輔・藤原公任・儀同三司母がいて5人そろっていたので多かったんですけど、1枚画には収まらなかったのでね)

 

道長が「実は兄弟がいることが分かりまして…」といって連れてきたのが道綱だったら、道綱母もそろったかもしれなかったのにな。

 

(つーか、「打毬」ができる直秀…何者なんだよ本当に)

 

 

というわけで、今回は「打壺」「蹴鞠」「双六」「打毬」の4つの「平安時代の風俗」が描写されてましたね。

 

「平安大河なんて滅多にないし、この機会にやってしまおう!」という気概がマンマンに感じられて、大変興味深かったですw

 

特に「打毬」は、なんとなく格好は聞いてはいましたが、あんまり想像もしていなかったので、あんなに勇壮だったのかと感動すらしましたよ(マジで)

 

「鎌倉武士」が「平安貴族」の末裔というのも、あれを見るとよく理解できますなー。

 

 

タイトルの「おかしきことにこそ」は、まひろが散楽の台本執筆を始めたことから来ているのかな。

 

そういえば小遊三師匠も「おかしきもの」を語るシーン、ありましたね。

当時、久しぶりにご尊顔を拝した喜びで、セリフの内容はすっかり忘れていましたw

(仕事のシフトの関係で「笑点」は録画でもしないと見れなくてさ)

 

そんな、まひろのデビュー作は「お猿さんが"神"を騙る狐にたぶらかされて、くるくる踊らされる」という演目。

 

右大臣家を揶揄して作ったそうなので、猿たちは藤原兼家たち東三条家の皆さん。

 

で、神を語る狐って…安倍晴明のことですかね…?

 

晴明は妖狐の母「葛の葉」から生まれたという伝説があって、キツネ=晴明はイメージぴったりですもんね(でも、まひろは東三条家と晴明の関係を、どこから情報を仕入れたのか??)

 

 

 

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