『光る君へ』の公式サイトを見ていたら、なんと!清原元輔のキャスティングが発表されておりました!!

 

大河ドラマ「光る君へ」 第6回の相関図・キャスト(外部リンク)⇒

 


清原元輔@大森博史さん
2024年大河ドラマ『光る君へ』より

 

清原元輔は、清少納言のお父上

 

勅撰和歌集の2番目『後撰和歌集』の撰者グループ「梨壺の五人」の1人に任ぜられるほど、優れた歌人として知られておりました。

 

『百人一首』にも採用され、42番歌の詠み人となっています。

 

ちぎりきな かたみに袖をしぼりつつ
末の松山 波越さじとは


清原元輔/後拾遺集 恋 770

 

次回、清少納言が初登場するのは予告とネット記事で知ってましたが、まさか元輔まで登場するとは……これは嬉しい予想外!!

 

以前にも言ったように、ワタクシは清少納言推し。

なので、父上様が映像化されるのは、かーなーり俺得。これだけでしばらく生きていけるわ(何)

 

 

しかし、清原元輔は「平安時代好き」「百人一首愛好者」でもなければ、あんまり知られていない、結構マイナーな人物。

 

そこで、放送前の今のうちに彼のことを紹介しておこうかなと、今日はそんなブログとなります。

 

 

清原元輔は延喜8年(908年)生まれ(ということは、第5話終了時点=984年では76歳)。藤原道長の祖父・師輔と同い年です。

 

父(清少納言の祖父)は「従五位下 下総守」の春光(はるみつ)

祖父(清少納言の曾祖父)は「従五位下 内蔵大允」の深養父(ふかやぶ)

 

深養父も『百人一首』の36番歌の詠み人に選ばれています。

 

夏の夜は まだ宵ながら明けぬるを
雲のいづこに月宿るらむ


清原深養父/古今集 夏 166

 

「短い夏の夜、まだ宵口だと思っていたら、いつの間にか夜が明けてしまっていた。これだけ早いと月は山蔭まで辿りつかなかっただろう……いったい雲のどのあたりに宿をとったのだろうか」みたいな意味。

 

月の軌道を旅路に喩え、「山蔭まで行けたかなぁ。どこの宿を取ったかなぁ」と思いを寄せる、想像と技巧をあつめて重ねた中々の幻想的なアイデア和歌。清少納言の曾祖父よな…というかんじがして、なんだか好きなんです(元輔の和歌は種別「恋」の歌なので、そこまでファンタジックという感じはしないですかな…)

 

琴の名手でもあり、深養父の演奏を聞いた藤原兼輔(『百人一首』27番)と紀貫之(『百人一首』35番)が詠んだ和歌が伝わっています。

 

夏の夜 深養父が琴ひくを聞きて

藤原兼輔
短か夜の ふけゆくままに高砂の 峰の松風 吹くかとぞ思ふ

紀貫之
あしびきの 山下水は行き通ひ 琴のねにさへ流るべらなり

後撰集 第4巻 夏 167・168

 

深養父の琴の音を、兼輔は「高砂の峰の松風」、貫之は「山麓を流れる涼やかな水」と例えて称賛しているわけですな。

 

収められているのは、元輔が編纂に参加した『後撰和歌集』。ひょっとすると元輔が祖父ゆかりの和歌を選んで入れたんでしょうかね。

 

ところで、藤原兼輔と言えば、紫式部の曾祖父。

ライバルと後世勝手に言われている2人ですが、互いの曾祖父は夏の夜に琴の音を愛でる風流をともに楽しんでいたんですなー(もしもこの話が大河で清少納言の口から出て来たら喜びます)

 

ちなみに、藤原公任は深養父を「優れた歌人」として名を挙げていませんでした。おかげで深養父は「三十六歌仙」からは漏れています。

深養父が評価されるのは、平安末期の藤原定家や藤原清輔たちの頃…となるようです。早過ぎたんだ。

(ちなみに、元輔は「三十六歌仙」に数えられています)

 

なお、深養父は洛北の「補陀洛寺」に隠棲していたそうです。兼輔や貫之と交流したのは、この場所だったんでしょうか(それとも、兼輔の堤邸?)

 

 

話を元輔に戻して…。

 

天暦5年10月(951年)。村上天皇の下命によって、勅撰和歌集を編む国家プロジェクトが始動。

 

元輔は、嵯峨源氏の源順(みなもと の したごう)大中臣能宣坂上望城紀時文らとともに撰者に選ばれ、内裏中の庭に梨の木が植えられていた「昭陽舎」に和歌所が置かれたことから、「梨壺の五人」と呼ばれ称されました。

 

元輔、43歳の頃になります(ちなみに、源順は40歳、能宣は30歳、時文は29歳。望城は不明…ということは、おそらくは元輔が最年長)

 

こうして歌人としての名声を勝ち得た元輔は、『光る君へ』の頃も依然として歌人として有名で、娘の清少納言は「父の名を汚したくないから和歌は詠めません」とこぼしたりと、苦労があったようです。

 

また、元輔は河内源氏の源満仲とも親交があったそうで、ところが…という歴史話があるんですが、これはまたいずれ…ということにして。

 

元輔の人となりが、グッとよく分かる「お話」が『今昔物語』にありまして。

 

これを知っていると知らないとでは、元輔に対するイメージがガラっと違ってしまうといっても過言ではありません。

 

そう言い切りたいくらい重要だと思うので、せっかくなので全文引用してみます。

 

今昔 清原の元輔と云ふ歌読有けり 其れが内蔵の助に成て 賀茂の祭の使しけるに 一条の大路渡る程に の若き殿上人の車 数並立て 物見ける前を渡る間に 元輔が乗たる庄馬かざりうま 大躓して 元輔 頭を逆様にして落ぬ

年老たる者の馬より落れば 物見る君達 いとほしと見る程に 元輔 いと疾く起ぬ 冠は落にければ 髻露無し ほとぎを被きたる様也 馬副 手迷をして 冠を取て取するを 元輔 冠を為ずして 後へ手掻て 「いでや あな騒がし 暫し待て 公達に聞ゆべき事有」と云て 殿上人の車の許に歩み寄る

夕日の差したるに 頭は鑭鑭きらきらと有り 極く見苦き事限無し 大路の者 市を成して 見り走り騒ぐ 車 狭敷の者共 皆延上りて咲ふ

而る間 元輔 君達の車の許に歩び寄て云く

君達は元輔が此の馬より落て 冠落したるをば嗚呼をこ也とや思給ふ 其れは 然か思給ふべからず 其の故は 心ばせ有る人そら 物に躓て倒る事 常の事也 何に況や 馬は心ばせ有るべき物にも非ず 其れに 此の大路は極て石高し 亦 馬の口を張たれば 歩ばむと思ふ方にも歩ばせずして 此引き彼引き転かす 然れば 我れにも非で倒れむ馬を 悪と思ふべきに非ず 其れに 石に躓て倒れむ馬をば 何がは為べき 唐鞍はことさら也 物拘べくも非ず 其れに 馬は痛く躓けば落ちぬ 其れ亦わろからず 亦 冠の落るは 物にて結ふる物に非ず 髪を以て吉く掻入たるに 捕らるる也 其れに鬢は失にたれば 露無し 然れば 落む冠を恨むべき様無し 亦 其の例無きに非ず □□の大臣は 大嘗会の御禊の日 落し給ふ 亦 □□の中納言は 其の年の野の行幸に落し給ふ □□の中将は 祭の返さの日 紫野にて落し給ふ 此の如くの例 かぞへ遣るべからず 然れば 案内も知給はぬ近来の若君達 此れを咲給ふべきに非ず 咲給はむ君達 返て嗚呼なるべし

此く云つつ 車毎に向て 手を折つつ計へて云ひ聞かす

此の如く云ひ畢て 遠く立去て 大路に突立て いと高く 「冠持詣もてまうで来」と云てなむ 冠は取て挿入れける 其の時に 此れを見る人 諸心に咲ひけり

亦 冠取て取すと寄たる馬副の云く 「馬より落させ給つる即ち 御冠を奉らで 無期むごに由無し事をば仰せられつるぞ」と問ければ 元輔 白事しれごとなせそ 尊 此く道理を云ひ聞せたらばこそ 後々には此の君達は咲はざらめ 然らずば 口賢くちさがなき君達は 永く咲はむ者ぞ」と云てぞ 渡にける

此の元輔は 馴者なれものの 物可咲く云て 人咲はするを役と為る翁にてなむ有ければ 此も面無く云ふ也けりとなむ語り伝へたるとや

 

賀茂祭に奉幣使として参加していた元輔が、一条大路を通っていた時、若い殿上人たちが車を並べて見物している目の前で馬がつまづいて、元輔は落馬してしまいます。

 

「あの爺さん大丈夫か?」と心配している中、元輔はひょいと身軽に立ち上がるのですが、冠がスッポリと脱げ落ちてしまい、ピカピカの禿げ頭が夕日に晒されてキラキラしておりました。

 

これを見た若公達らや桟敷の見物客たちは大爆笑。

 

馬曳きの従者が慌てて冠を取ってくると、元輔はそれを制し「まぁ待て。公達に申し上げるべきことがある」と言って、頭を晒したまま公達の車の前に進み出ました。

 

「私が馬から落ちて冠を落としたのを、公達は"うつけ者(嗚呼)"だと思われるか?それはお心得違いでござる」

「頭のいい人でさえ普通につまずくことがあるのだから、頭を使わない馬がコケたって仕方がありません」

「まして、この道はデコボコしていている上に、手綱を引かれていては、馬だって思うように歩けない…そんな馬を恨むことなんて、私にはできませぬ。さらに、唐鞍は皿のように真っ平。これではどんなものも上手く載せられません」

「また、冠は巾子(こじ)で髻に固定するものですが、私は御覧の通りのハゲ頭で、それができないのだから、冠を恨むこともできません」

「それに、だ。冠が落ちるのは、先例がないことではありませぬ。とある大臣様は大嘗会の御禊の日に、とある中納言様は行幸の御供の最中に、とある中将様は賀茂祭の翌日に紫野で落とされました。まだまだ数え切れません」

「だから、一々これを笑っているようでは、皆さまが事情を知らない者だと笑われる羽目になりますぞ」

 

と散々理由を言い聞かせた後、大通りのど真ん中にドンと立ち、「冠を持ってまいれ!」と大声をあげ、持ってこさせた冠を厳かに被りました。

 

これを見ていた者たちは、一斉に大爆笑。

 

馬曳きの従者が「どうして冠を早くにお着けなさらず、こうも長々とお話しされていたのですか」と呟くと、「馬鹿なことを言うな。口さがない公達たちは、ああやって道理を言い聞かせなければ、いつまでも物笑いの種にするからな」と言って、行列に戻って行かれました。

 

…というお話。

 

クスクスしている見物人たちに、わざわざ禿げ頭をさらして注目を集め、「コケるのは仕方がない。何故ならば馬が~、それに道が~、また鞍が~」と列挙した後、「あの人は~でコケたし、この人は~でコケたし、また~」と指折り数えた後で、「冠を持て!」のクライマックス(オチ?)。見事な起承転結。一種のパフォーマンスショーになっていますw

 

そして、重要なのは結びの一文。

 

「此の元輔は 馴者の 物可咲く云て 人咲はするを役と為る翁にてなむ有ければ 此も面無く云ふ也けりとなむ語り伝へたるとや」

 

元輔は世の中に精通していたから、何でも面白おかしく言える人だった(だから、臆面もなくあんなことができたんだね)

 

これぞ、元輔の人柄・真骨頂を伝えている一文だと思います。

 

この話を初めて知った時、「これこそが清少納言の父親だわ」という感慨に浸ったのを思い出します。この話すごい好きだし、なんだか人生の教訓めいたものも感じるんですよね。

 

(そして、ワタクシはこのお話の捕捉で「平安時代は、烏帽子を取られるのが下着を脱がされるのに等しいほど恥辱なことだった」というのを初めて知りました)

 

 

というわけで、本日は清原元輔について、ご紹介してみました。

 

改めて、元輔の公開ビジュアルを見返してみると…。

 

 

ワタクシ的イメージは「ひょうきん爺さん」だったんですが、だいぶイケオジ度に振りきれてますな…。

この面構えで、あの性格振りやってくれると、ギャップ萌えも出て来るかな…?

 

そして、烏帽子から透けて見える頭頂がハゲ気味なのも、いいかんじですねw

 

 

 

 

以下、余談。

 

 

 

 

深養父・元輔・清少納言を挙げたことですし、せっかくなので清原氏についても語ってみようかなと。

 

 

清原氏は、飛鳥時代の天武天皇の第六皇子・舎人親王(とねり)の子孫が賜姓された皇別氏族。

 

その祖は何人かいるのですが、三原王の系統が清少納言に繋がっている…と言われていて…異説もあるのですが、当ブログではそれを採用してみました。

 

 

舎人親王は奈良時代の人で、日本正史『日本書紀』の編集長として著名です。末裔の清原氏が学者筋になる発端が、ここに見えているかのようですな。

 

『日本書紀』奏上から3ヶ月後の養老4年8月(720年)、朝廷最大の権力者だった右大臣・藤原不比等が薨去すると、舎人親王は知太政官事(ちだいじょうかんじ。左右大臣の次席でほぼ内大臣)に就任。甥の長屋王(兄・高市皇子の子)とともに皇親政権を担うことになりました。

 

しかし、長屋王とは違って、次第に藤原氏寄りの立場に舵を切っていったみたい。「長屋王の変」「安宿媛立后(=光明皇后)」などに拘わり、結果的に「藤原四子政権」の樹立に協力することになりました。

 

天平7年(735年)、59歳で薨去。

亡くなってから23年後の天平宝字2年(758年)、様々な要因が重なり合って、なんと子息の大炊王(おおいおう)が孝謙天皇から譲位され、即位(淳仁天皇)。舎人親王は「天皇の父」となり、崇道尽敬皇帝(すどうじんきょうこうてい)の諡号を贈られました。

 

しかし、淳仁天皇は藤原仲麻呂の操り人形だった…。

さらに、孝謙上皇は怪僧・道鏡を寵愛するようになり、これに猛反発した仲麻呂と関係が悪化。

 

天平宝字8年(764年)、「藤原仲麻呂の乱」が勃発してしまい、仲麻呂が敗死すると、淳仁天皇は乱に関与こそしなかったものの、廃位された上で淡路国に配流されることになってしまったのでした(淡路廃帝

 

清原氏の祖・三原王は、この淳仁天皇の同母兄。もしこんな悲劇が起きなかったら、清原氏の未来もまた違ったものになったはずでしたが…。

 

ともあれ、平安時代に移って桓武天皇の時代。三原王の孫にあたる繁野王が、「清原氏」を賜姓されたのが、清原氏の始まりの1つ。この時、「夏野」に名を改めました。

 

遠祖である天武天皇は「飛鳥浄御原宮(あすか きよみはらぐう)」を拠点としており、「清原」は「浄御原」が名前の由来になっていると言われています。

 

清原夏野は、大伴親王に「春宮亮」として仕えており、彼が「淳和天皇」として即位すると、異例の出世街道を邁進。外戚である藤原式家の天下のもと、天長9年(832年)には右大臣まで登り詰め、清原氏の名を轟かせることになりました。

 

平安京右京の双岡に山荘を営んだことから「双岡大臣」と呼ばれたそう。ここは、現在の「法金剛院」のあたり。『徒然草』著者の兼好法師ゆかりの地にもなっています。

 

 

この先は系譜の混乱が見られるのですが、清原房則(ふさのり)が清原海雄の家に養子に入ったとも、海雄が夏野の養子となり、その子が房則だったとも言われています(夏野には何人も子がいるのに養子取る…?と思って、系図では前者説を採りました)

 

ともあれ、この房則が清少納言の高祖父。このページでも触れた深養父の父にあたります。

 

房則には、深養父以外にも業桓という子がいて、これが実子だったのか、凡海氏(おおあま)から養子に来た者なのかで、これまた説が分かれているみたい。

 

凡海氏というのは、古代豪族の1つ。清原氏の遠祖・天武天皇の名前は「大海人皇子(おおあまのみこ)」なんですが、これは幼少期に凡海氏の元で養育を受けたことから、この名で呼ばれていたとされています。

ということは、もしも業桓が凡海氏出身だったら、天武天皇繋がりという縁が結んだのかもしれないですね。

 

清原氏の本流は、業桓の子・広澄の系統が続いて行きました。

 

広澄の6世孫の頼業は、『平清盛』の頃の人。"悪左府"頼長の信任を得て清原氏中興を果たしました。

その才は九条兼実が「国之大器、道之棟梁」と、日記『玉葉』で絶賛するほどで、死後になると「学問の神様」として京都嵯峨「車折神社(くるまざきじんじゃ)」の祭神にまでなっています。

 

一方、深養父の子(とされる)重文の系統は、「出羽清原氏」になっていった…という説があります。

 

奥州で安倍氏が大暴れした「前九年の役」は、朝廷軍は上手いこと合戦を運ぶことができず、出羽の清原氏に協力を頼み込んで、ようやく鎮圧することができました。

 

奥州安倍氏を打ち負かしたことで、奥州に覇を唱えた清原氏でしたが、やがて「後三年の役」が再燃すると、困難な立場に追い込まれてしまうことになります。

 

まぁ、このへんは余談でやることじゃないので(笑)、もしかしたら日を改めて…ということで。

 

 

 

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大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
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