大河ドラマ『光る君へ』第4話「五節の舞姫」見ましたー。

 

 

11月中旬卯日に行われる神事「新嘗会」(天皇即位の時は「大嘗会」)

 

その翌日の「豊明節会」で舞う「五節の舞」をクライマックスに物語を展開していく…という本筋。

 

「紫式部が舞姫に任ぜられるのは結構無理筋」と、「まひろの舞姫姿」がネット上に出てからSNSではしきりに聞いていたのですが、「出るのを嫌がった左大臣家の姫(倫子)の代わり」とは、巧みな手を使ったかな…と、この辺の事情に疎いワタクシは素直に感心しましたw

 

まひろに躊躇がなかったのが、ちと不自然な感じはありましたけどね…「お目に留まらない自信があります」はいいとして、「え、人前で踊るの…?」ってならないかなぁって。まぁ、顔を晒して辻で散楽見物するような子なので、そこら辺は無頓着でもいいのかな。

 

「舞姫らは3日前に宮中に入り身を清めてから本番に臨んだ」とナレーションで言ってましたが、実際には本番の前に2回のリハーサルがありました。

 

「新嘗会」は4日間のスケジュールで行われるのですが、初日に常寧殿で「帳台の試」、2日目に清涼殿で「御前の試」という「お試し」の披露があったのです。

 

3日目は「新嘗会」が行われて舞姫は出番なし。そして4日目が「豊明節会」で、ここが舞姫にとって本番の神事となります(大河ドラマで舞っていたのは、たぶんこの4日目)

 

 

リハーサルと言っても、2回とも天皇も御覧になるので、まるで本番。

 

3回とも衣裳を変えたそうで、初日は赤色系、2日目は青色系、本番は青摺と、テーマカラーが決まっていたそうな(SNS情報)

 

1着でも相当お高いだろうに、3回も衣裳を変えるって随分おカネかかるな…と思ったら、なんと舞姫だけでなく、傅き(かしずき。御伴の女房。4~6人?)たちも毎回衣裳を変えていたそうな(!)

 

いくらかかるんだそれ…。本当、これは金持ちじゃないと無理ですね。

 

なお、左大臣や倫子が言っていたように、「五節の舞姫」は御前で顔を晒して舞うので「天皇の目に留まる」可能性があり、平安時代の初期頃はそれを期待する「天皇に入内させる娘のお披露目」の意義もあったみたい。

 

たとえば、清和天皇即位の翌年、貞観元年(859年)に行われた「大嘗会」に、藤原良房が養女の高子を舞姫として送り出しています。

 

をとこありけり(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12782096856.html

 

しかし、道長たちの頃には「天皇に入内させる娘」は藤原氏や源氏の一部に限定されてしまっていたので「お披露目」の意味合いは相当薄くなり、「五節の舞姫」は労多くして功少ない、名誉ながらも厄介事のようになっていたと言われます。

 

そうなんですねぇ。天皇のおメガネに適わなくても、美しい衣裳を着れるし、みんなの注目の的となるし、女性として栄誉なことのような気もするんですが…。

 

顔を晒さなければならない舞姫たちのストレスも相当だったようで、当の紫式部も彼女たちを哀れんだ記事を『紫式部日記』に書き残したりしています。

 

ところで、「新嘗会」での「五節の舞姫」は4人ですが、天皇即位の「大嘗会」では舞姫は5人が舞台に立ちます。

 

ドラマでは花山天皇即位の年で「大嘗会」なのに、舞姫は4人。これは一体…?

 

即位が8月27日と遅かったので、11月中旬までに準備が間に合わず、「大嘗会」は翌年に繰り越された…ってことなんですかね?

 

 

………大河ドラマの感想のはずが、単なる歴史語りになってしまっている…いかんいかん(焦)

 

 

お話は前回の続き、2回連続で散楽がいる広場での再会からスタート。

 

とうとう、まひろが「六位無官・藤原為時の娘」と、自分の身分を三郎に明かしました。

 

それを知って覚悟を決めた三郎が、自分のことを明かそうとした時…親戚のおじさん・宣孝が通りかかります。

 

「大胆なことをやっておるなぁ」

 

三郎から引き離すように連れ去った宣孝は、「父には内緒にするが、今後はもう会うな」と心配する発言。

 

「身分とは、とかく難しいものでございますね。貴族と民という身分があり、貴族の中に格の差がある」

 

「しかし、その身分があるから、争いも起こらずに済むんだ。もしもそれが無くなれば、万民は競い合い、世は乱れるばかりとなる」

 

という2人の会話も興味深いですが、この時に宣孝は三郎の正体を知っていたかどうか?で、SNSでは見解が割れていたのが面白かったです(議論にはなってないのですが。それぞれで思い込んでいる風な)

 

確かに、宣孝の表情や台詞からは、このあたりは察しにくい…。

はたしてどちらなんだろう。

 

宣孝は「六位蔵人・左衛門尉」として宮仕えしていたそうで、左衛門尉は「建春門」のあたりに事務所があったそうです。

 

一方の道長は「右兵衛権佐」。言葉通りに受け止めて「右兵衛府」がお勤め先ならば、「殷富門」の近くにありました。

 

 

大内裏の、宣孝は東寄りで、道長は西の端っこ。顔合わせるには職場の距離は遠い…かな。

 

「五節の舞姫」に宣孝も出席していた描写があったので、見知っていた可能性はなくないと思いつつ。

 

ただ、宣孝は飄々として真意が不明ですが、道長の方には明らかに「知り合いと会ったような反応」がないので、「知らなかった」とするのが妥当…なのかなぁ。

 

まひろを家に送った後、身の上話や愚痴の相談にも乗る宣孝おじさま。

 

「悩みがあったらわしに吐き出せ助けにはならんかもしれんが荷は軽くなるだろう」とか、人間だから迷うんだよとか(これは まひろが弟くんに言っていたから、響いたんだろうね)、「まひろのソウルメイトって宣孝だったっけ?」な展開になっていましたね(^^;

 

 

朝廷では、花山天皇が即位。

 

「関白も左大臣も右大臣も信用しておらぬ」と、実資を蔵人頭で再任する旨を通達しておりました。

 

「蔵人頭は一代限り」とお断りする実資。

 

何故…?実際には再任されて、義懐とともに蔵人頭をやっています。このシーン必要…?と思ったら、花山天皇が「なぜだー」と暴れ、泣きつくフリして義懐と惟成の烏帽子を奪い取る行為に及んでいて、このためにあったのかなw

 

(「叔父上~」と義懐に抱きつく花山天皇の絵面が歴史妄想民としては眼福でございました←そんなところがって?ほっとけw)

 

そこに「烏帽子を取られるのは今で言うなら下着を脱がされたと同じ感覚の恥辱であった」みたいなナレが入って、おお…ってなりました。大河でこの解説が聞けるとは。本で読んだのは本当だったんだなぁ。

 

義懐と惟成は、花山天皇の威を借りて、干され気味の関白・頼忠を横目に得意満面。

 

「関白殿ちゃんとやって!」と怒っている兼家に「言ってもムダなんよ…」と、弱った様子。

交わらないかなと思っていた兼家と頼忠が会話を交わしていて、これまた歴史妄想民(以下略)…陣定には関白は出席しないはずなんですが(関白は「公卿」よりも「天皇」寄りな職務なので)、それももう許しちゃうくらい(何)

 

そして、譲位となった円融天皇に挨拶に行った詮子が、「朕に毒を盛ったな!」と疑っている帝に完全にソデにされて、その怒りを父・兼家にぶつけていました。

 

袿姿で大立ち回りする詮子も見所でしたが(動きにくいだろうに)、何も知らない道隆と道長、そして分かっている兼家と道兼…それぞれの驚愕と狼狽が見えて、中々のシリアスシーン。

 

しかし、道隆が即座に父が何をしたのかを理解し、この場が分裂しないよう「我ら三兄弟の結束は強まりました」と宣言して場をまとめた(道隆は、薬を持ったのが道兼とは気づいていない=道兼が父に爆発しないように先手を打ったつもり、と思います)のが、サロンの雰囲気を制する倫子と共通して、「リーダー格だなぁ」というかんじ。

 

また、道隆は「ちまたに『花山天皇は女好き』を膨らませた悪評を流して花山天皇のモチベーションを下げる」という策を提示し、しかも「もう手筈は整っている」と手際の良さを見せ、しかも左大臣にその一端が伝わっているという詰めの良さまで感じさせて、詮子が退室した後の座を制したのと相まって有能なかんじがビシビシw

 

「寛和の変」では父に非協力的だった…という説があるので、どういう親子関係で描かれるのか気になってはいたのですが、とりあえずは「共闘路線」で行くみたいですねー(この一件で詮子とは不仲になる…?)

 

(それにしても、毒を盛られたのってどうやってバレたんだろうか…実資の捜査が実った??)

 

 

倫子のサロンでは、『竹取物語』の講釈がされていました。

 

『竹取物語』は散楽と同じく「藤原氏の悪口」とも言われていて、これが源氏である倫子のサロンで教材になっていたのが、なんだか面白味がありました。

 

でも、まひろが「かぐや姫」の心境を分析レポートをした結果、左大臣家への悪口に転身…何回転もする悪口の連鎖。

 

「わたしが左大臣の娘なのお忘れ…?」と抗議したあと、「戯れ言よwみなさんもお黙りにならないでw」と空気をなごませる、中々にしたたかな釘の刺し方をしておりました。

 

この娘、タダモンじゃない(笑)

地雷を踏まないように訓練するのはできるけど、踏んだ地雷を消し飛ばすフォローは中々できるもんじゃない…。

90過ぎまで生きるメンタル、もう出来上がってるわね。

 

まひろも「申し訳ありませんでした」と頭を下げ。

まひろの社会的未熟さは、こうして公家の娘としての薫陶を受けて成長していくのですね。大河ドラマはRPGですなー。

 

 

倫子パートと言えば、気になったのは「舞姫を出すことが決まった」のあとに左大臣が言っていた「他には公卿では『権大納言家』と『藤宰相家』が命じられた」の部分。

 

倫子が「まぁ、茅子さまと肇子さまではありませんか!?」と驚いていたので、

 

茅子(@渡辺早織さん)=『権大納言家』の娘

肇子(@横田美紀さん)=『藤宰相家』の娘

 

ということになります。

 

 

これ、具体的には誰の娘ってことになるの…?

 

 

第4話では、色々な人の正体が見られました。

 

道長にとっての まひろ。

まひろにとっての道兼と道長。

円融天皇を弱めていた原因。

詮子が見ていたようで見ていなかった兼家の姿。

花山天皇の権臣と性癖(?)。

娘に甘ちゃんな左大臣・雅信。

猫かぶってるのかと思ったら猫は飼っていた倫子さま。

宣孝が驚いた土御門第に潜入調査していた まひろと、

侍読として王道を行くふりして娘を間者に使っていた為時。

風来坊みたいに見えて実は宮仕えしていた宣孝(笑)

藤原行成の声(前回は登場したけど喋りませんでしたしねw)

散楽一座の裏の顔。

 

これだけ正体の見せ合いっこしておいて、この2人は『権大納言家の娘』『藤宰相家の娘』と匂わせたまま正体を明かさないなんて、なんか諦めきれない(何)

 

というわけで、心当たりをwikipediaでしらみつぶしに調べてみた結果。

 

永観2年当時、「権大納言」だったのは、藤原朝光と藤原済時が見つかりました。

 

朝光は、兼家の宿敵だった兄・兼通の四男(道長の従兄弟)。道隆の酒呑み仲間。

 

済時は、小一条流藤原氏(道長の大叔父・師尹の子孫)の人。こちらも道隆の酒呑み仲間。『百人一首』の詠み人でもある実方の養父(間柄は叔父)で、『枕草子』にも登場しています。

 

朝光には、この後すぐ花山天皇の女御となる姚子(とうこ)がいて、天禄2年(971年)生まれなので御年13歳。

 

済時には、後に三条天皇の中宮となる娍子(すけこ)がいて、天禄3年(972年)生まれなので12歳。

 

だとしたら、茅子さんは、姚子と娍子のいずれかということになる…のか…?

 

どちらかといえば、ワタクシ的には娍子を推したい。

小一条流の人、まだ誰もキャスティングされていないから…。

 

後から「実はね、すでに登場していたんですよ」ってなったら、ドラマチックじゃないですか(笑)

 

実際に花山帝に入内となった姚子が「舞姫でお目に留まった」にしてもいいのだけど、そうすると以降の倫子サロンには参加できなくなるから、これは避けたいところですからねー。

 

そして。「宰相(参議)」だった藤原さんは、為輔、佐理、時光、公季が見つけられました。

(抜けがあるかもしれないけれど、これしか見つけられませんでした…一応、参議の定員は8人らしいので、まだ探せば居るかも)

 

為輔は未婚の娘がいないので除外(宣孝おじさんの父ですからね…まひろの2世代も上)

公季は道長の叔父(後の閑院流藤原氏の祖)ですが、娘の義子は10歳なので、たぶん除外。

時光は、先程の権大納言・朝光の弟。こちらは娘がいた記録がないので除外。

 

とすると、『藤宰相家』は、おそらくは藤原佐理の家のこと。

 

佐理は小野宮流藤原氏(道長の大伯父・実頼の子孫)の人(実資や公任の従兄弟)。能書家として知られる「三跡」の1人です(他の2人は小野道風と、あの藤原行成)

 

後に懐平(実資の実兄)の妻になる娘がいて、康保2年(965年)頃の生まれというので、御年19歳前後。この娘も父に似て能書家だったそうです。

 

この子が未婚か既婚かは詳細不明ですが、所生の息子は長保2年(1000年)生まれなので未婚の可能性はあり。

さらに年齢が康保元年(964年)生まれの倫子と1歳違いなので、サロンに参加していたのも適切。

 

というわけでワタクシの予想は、

 

茅子=『権大納言家』の娘=藤原済時の娘・娍子(小一条流)

肇子=『藤宰相家』の娘=藤原佐理の娘(小野宮流)

 

もし当たったら、その時は褒めてやっててくださいw

 

(しをり@佐々木史帆さん と やよい@菊川陽子さん は今後の情報追加に期待ですかね?)

 

(っていうか、結局またドラマの感想から脱線して歴史語りになってる…感想文がヘタクソって、学生時代ずっと言われてたんです…)

 

 

 

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大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
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