2022年も、残りあと1ヶ月。

 

『鎌倉殿の13人』の放送も、残りわずかとなりました。

 

録画組(というかオンデマンド組)のワタクシは、ようやく「畠山重忠の乱」まで追いつきました。

 

次はオンベレブンビンバ。その次が時政の失脚で…リアル放送では今日が実朝暗殺?まだまだ追いつかぬ…1人で追いかけるのって大変ね(笑)

 

 

今作については、最後まで楽しんでみる所存です。

 

内容や歴史の流れ、人物の掘り下げについて、思う所がないではない(むしろ多い)ですが、それならそれで、後々ブログネタにすればいいだけの話…むしろネタになっていいじゃないの…というスタンス(笑)

 

だいたい、鎌倉大河なんて次に来るのはいつになるやら分からんので(それこそ下手したら『北条時宗』から今作までと同じ20年スパン?生きてるかな…←何)、これを喜んで見ずしてどうするん?なんです。

 

まぁ、本音を言うと、あんまりダークサイド落ち義時は、ご所望ではないんですけどね…。

しかし、解釈違いなんて歴史創作では避けては通れない道よな。

 

 

ところで、

 

『鎌倉時代の始まりは「いい国」ではなく「いい箱」になります』

 

と、歴史の教科書が変わったのは、かーなーり前の話。

 

源頼朝の征夷大将軍へ就任(1192年)をもって鎌倉時代の始まりとする。

 

この語呂合わせが「いい国(1192)作ろう」でした。

 

いやいや、「鎌倉時代=武家政権」は、頼朝が諸国に守護・地頭を設置することを朝廷に認められた「文治勅許(1185年)」が嚆矢ではないか?

 

と提唱されて、アカデミアの定説が変わったことから(?)、「いい箱(1185)作ろう」になったわけです。

 

 

先にぶっちゃけておくと、ワタクシは「鎌倉時代は1192年から」派です。

 

確かに、守護・地頭の任命が行えたのは、幕府としての「権力」が認められる出来事。

 

でも、1185年では、武家政権ができるのを頑なに拒んでいた後白河法皇が、まだ健在

 

建久3年3月(1192年)の法皇崩御の後、同年7月に頼朝が征夷大将軍に任ぜられ、「公武ともに武家政権の成立」をもって鎌倉時代の始まり。

 

…というのが、ワタクシはすっきりしていて好きなんです。

 

 

で、1192年と1185年の是非については、ちょっと後回しにして…。

 

最初に歴史教科書を作った人たちは、本当は鎌倉時代の始まりは「1190年」にしたかったのではなかろうか。

 

「幕府」というのは、律令における武官の最高位「近衛大将」の唐名とされています。

 

頼朝が右近衛大将に就任したのは1190年。なので、この年こそが「鎌倉幕府の始まり」というわけ。

 

この定義は鎌倉時代だけだったらOK

ところが、続く室町時代を考えると、そうはいかないんです。

 

というのも、室町幕府を開いた足利尊氏は、近衛大将になっていないから

(ちなみに、江戸時代の始祖・徳川家康は「近衛大将」に叙任されています=1588年)

 

「1190年」説を取ると、「室町幕府が開いたから室町時代の始まり」は定義できない…。

 

でも、征夷大将軍なら3人ともなっています。

 

「源頼朝が征夷大将軍になったから1192年が鎌倉時代の始まり」

「足利尊氏が征夷大将軍になったから1338年が室町時代の始まり」

「徳川家康が征夷大将軍になったから1603年が江戸時代の始まり」

 

こうやって、綺麗に説明できるわけなんです。

 

ちなみに、今日の放送で暗殺された鎌倉3代・実朝は、兄の頼家が「比企能員の変」により失脚(1203年9月2日)した直後(同年9月7日)に、いきなり征夷大将軍の宣下を受けています。

 

「2代将軍が危篤だと?すぐに次の後継者を征夷大将軍にしないと!」という意図が感じられます。ちなみに、近衛大将になったのは、暗殺された年(1218年)の始めのこと。

 

こうなると、「幕府(=近衛大将)関係ないじゃん…」となってしまいそうですが、頼朝は「幕府を開きたい」なんて言ってないし、「鎌倉幕府」という言葉を意識してはいないそうです。

 

「幕府で時代の区切り」っていうのは、利便性を求めて後世に持ち出された「歴史を見るための補助線」なのです。

 

だからこそ、「鎌倉」「室町」「江戸」この3つを同時に捕えられる定義を考えなければいけない…という暗黙のルールを、初期の教科書では考慮したのかなぁ…と思います。

 

 

さらに、1185年説に反論するなら、「権力基盤の成立を画期」とするのなら、「衰退して権力基盤が成り立たなくなった画期で時代の終わり」としなければならないんでは?というのがあります。

 

鎌倉時代は、将軍は実朝の死後、摂家将軍宮将軍も名ばかりに成り果てて「権力基盤…?」という状態。執権も、やがて御内人によって御神輿になってしまった感があったりして。

 

室町時代で見ても、後半の「戦国時代」の頃は足利将軍が中心地「京都」すら保てなくて、何度も京外へ逃亡する羽目になっています。

 

つーか、むしろ前半でさえ京都を維持するのがアヤシイような存在(笑)

 

どうも権力基盤で時代を区分する」って、日本の政界の在り方を見ると無理筋じゃね?と思ってしまうんですねー。

 

 

もう1つ、注目してもらいたいのは、幕末から明治にかけて起きた「王政復古の大号令」(1868年)

 

この宣言は「慶喜が征夷大将軍を辞するのを許す」で始まっています。

 

先程も言いましたけど、時代の区切りを定義するっていうのは利便性も大事

 

江戸時代の終わり=武家政権の終焉は、征夷大将軍の消滅によって定義される。

ならば、鎌倉時代の始まり=武家政権の始まりは、征夷大将軍の誕生によって定義したほうが、日本史全体が分かりやすくなっていいのでは。

 

「征夷大将軍」。これこそが時代を区切るための目印であり、だから鎌倉時代は1192年からだよ!とワタクシは思います。

 

いくら頼朝が「征夷大将軍任命なんて、武家政権を樹立するための手段に過ぎんよ」と考えていたとしても…ねぇ?

 

(あ、日本史のエライ学者サンたちに逆らうつもりは毛頭ありません。念のため)