長崎県にある「大浦天主堂」は、日本で唯一の「洋風建築」の「国宝」です。
 
そして、最も新しい「建造物」の「国宝」となっています。
 
最も新しいって、いつの時代なのか・・・・?
 
実は、江戸時代。

それも、今年の大河ドラマ「八重の桜」の題材でもある、あの幕末の動乱期に建てられたものなんです。
 

大浦天主堂

 


大浦天主堂というのは通称で、本来の名前は「日本二十六聖殉教者天主堂」といいます。
 
安土桃山時代の慶長元年(1597)
秀吉が発布した「キリスト教禁令」のために、日本で初めて26人の信徒が処刑されました。
 
その理不尽で無慈悲な殉教の物語は、世界中のキリスト教徒の間で有名となり、聖人として列せられます。
 
「大浦天主堂」は、その26人の信徒たちが信仰の末に果てた、殉教の地に建てられています。
 
 
安土桃山の世が去って、家康が開いた江戸時代。
 
豊臣家滅亡の前年、慶長18年(1613年)に出された「バテレン追放令」に代表されるように、この期間もずっと、キリスト教はご禁制でした。
 
隠れ切支丹を摘発し、処刑することを「崩れ」と呼びます。
 
寛永14年(1637)に鎮圧された「島原の乱」以降も、
 
万治元年(1658)「大村郡崩れ」
万治3年(1660)「豊後崩れ」
寛文元年(1661)「濃尾崩れ」
寛政2年(1790)「浦上一番崩れ」
文化三年(1806)「天草崩れ」
天保13年(1842)「浦上二番崩れ」
安政3年(1856)「浦上三番崩れ」
 
と、キリシタンの迫害は繰り返され続けてきました。
 
しかし幕末になると、「日仏修好通商条約」によって長崎が開港され、多数のフランス人が、この地に居留することになりました。
 
フランス人は、もちろんカトリック教徒なので、日常生活を営む上で教会が必要になります。
 
「大浦天主堂」は、こうしたフランス人居留者たちのために許可され、造られることになったのです。
 
 
「大浦天主堂」の建設に関わった人物が、ベルナール・プティジャン神父
 
彼が日本に来た当初は、鎖国政策のために入国が困難で、やむなく琉球(沖縄県)に寄り、ここで日本語を学んだといいます。
 
文久2年(1862)、ついに横浜に上陸。
翌年の文久3年には長崎に出向くと、「日仏修好通商条約」に基づいて教会を建設する許可をゲット
 
元治元年(1864)
先にも紹介したとおり、26人の信徒が殉教した地を見下ろせる丘に教会を築き、「天主堂」と名づけました。
 
 
フランス人のための教会のはずなのに、「天主堂」という日本語の名前を掲げたプティジャン神父。
 
それは、「もしかしたら、この殉教の地にはまだ日本人のキリスト教徒がいて、ずっと隠れ忍んでいるかもしれない」「天主堂の名を掲げれば、その人たちが姿を現すかもしれない」という、密かな期待の表れでした。
 
プティジャン神父は、教会を日本人たちにも開放。
「ドウゾ、ゴ自由ニ見学シテクダサーイ♪」
 
洋風建築「大浦天主堂」は評判となり、「南蛮寺」「仏蘭西寺」と呼ばれて、観光客が訪れるようになりました。
 
 
元治2年(1865)3月17日の昼下がり。
 
プティジャン神父が庭の手入れをしていると、15人ほどの男女が大浦天主堂に訪れました。
 
中に招き入れると、一行は見学して回ったのですが、そのうちの1人・ゆりと名乗る中年の女性が、おもむろにプティジャン神父に近づき、こう囁きました。
 
「我らのムネ(宗)、あなたのムネと同じ」
「聖母マリアさまは、どちらですか?」
 
信徒発見の、歴史的瞬間。
 
彼らこそが、300年もの長きに渡り、死の危険を冒してまでキリスト教の信仰を受け継いできた、隠れ切支丹と呼ばれる人々だったのです。
 
プティジャン神父は驚愕し、歓喜し、この詳細をヨーロッパへ書き送りました。
 
ヨーロッパでは、話題沸騰。一大ニュースとなります。
 
 
この一件が、隠れ切支丹たちのタガを外してしまったのか・・・・?
 
幕末も押し迫った慶応3年(1867)
浦上村の信徒たちが「仏式の葬儀を公然と拒否」したことで、隠れ切支丹の実態が明るみに出てしまいます
 
幕末であっても、キリスト教は外国人居留地に住む、居留者たちに認められたもの。
日本人にはキリスト教がご禁制であることに変わりはありません。
 
突然の隠れ切支丹の大量発見に、長崎奉行所も当初は困惑していたみたい。
ですが、気を取り直して68人の信徒を一斉に捕縛すると、激しい拷問にさらされます。
 
この弾圧は、幕府が倒れて明治政権になった後も続きます(禁教令が出され、キリスト教禁止が引き継がれた)
 
信徒たちは津和野、萩、福山などへ流刑となり、先々で拷問・私刑を加えられ続け、その残虐さは旧幕時代もメじゃないと言われるほどでした。

その犠牲は、大浦地区だけでも562人にのぼったそうです。
 
これを「浦上四番崩れ」と呼びます。

 

 
明治4年(1871)から2年かけて西欧を巡った岩倉使節団は、この弾圧事件が西欧列強の態度を硬化させていることを知り、条約改正を望む自分たちのネックになっていることに愕然としました。
 
明治6年(1873)禁教令が撤廃されると、日本はキリスト教を信仰しても良い時代が訪れます。
 
大浦天主堂の建設から続く、信徒発見浦上四番崩れそして禁教令の撤廃・・・・。
 
大浦天主堂は、日本におけるキリスト教の受難の歴史の象徴と、言えるのかもしれないですねー。
 
 
 
とまぁ、「大浦天主堂」を軸に幕末に至るまでのキリスト教の受難の歴史を書いてきましたが。
 
この「大浦天主堂」を建てたベルナール・プティジャン神父は、6月14日、つまり今日が誕生日なんです。
 
そして、今日はワタクシ権中納言の誕生日でもありましてー・・・・。
 
つまり、自分と同じ誕生日の歴史上の人物を紹介したと。
そういう主旨の日記なのでした(笑)

それにしても、自分の誕生日と同じ歴史上の人物をブログネタにするって、結構楽しいw


ちなみに、6月14日は「フォークランド紛争」が終結した日でもあります。

今日のブログネタとは全然関係ないけど(笑)、以前触れたのでついでにアーカイブとして取りあげますねw

★20世紀を先導した女史
http://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11508308554.html