大河ドラマ「平清盛」は第三部に入り。

 

清盛が人臣の最高位「太政大臣」となって、いよいよ平家が全盛期を極める時代になってまいりました。

 

前回の放送がおわってから、何人かのリアル友人や職場の視聴仲間と感想を交わし合ったんですけど、その全員に言われたのがコレでした

 

「藤原摂関家が多過ぎる上に見分けがつかない」

 

自分「え・・・・藤原摂関家が多過ぎる?基実と基通と基房と兼実と、あと誰か出てきたっけ?」
友人「それだけいるじゃあねぇか!(おでこペン)」

 

分からんといわれては仕方がない(^^;
一応、納得してくれるまで教えて差し上げることになりました。

 

というわけで、リアル友人に教えるだけで終わるというのもシャクなので(笑)、ブログでも取り挙げてみようかと。リアル友人よりも、より丁寧に解説してみようかと。

 

今日は、そういう日記にしてみようと思います。

 

ご紹介する藤原摂関家というのは、この三兄弟。

 

摂関家の三兄弟

 

藤原摂関家の三兄弟
左:藤原基実(近衛)@村杉蝉之介サン
中:藤原基房(松殿)@細川茂樹サン
右:藤原兼実(九条)@相島一之サン

 

いずれも、藤原忠通さまの息子たちでございます。

 

藤原忠通  ←この人が父親の藤原忠通w

 

彼らの紹介に入る前に、「五摂家(ごせっけ)って知ってます?

 

五摂家とは、「摂政・関白になることができる5つの家」を指す言葉です。

 

官職の最高位は、もちろん「関白」

 

この上におわすのは、主上たる「天皇」のみ。 

「関白」の下には「大臣」があって、さらに下には「納言」があります。 

 

「大臣」には武士でもなることができます。

平清盛は「太政大臣」になっておりますし、後世の話ですが織田信長も「右大臣」まで登りつめてます。

 

でも、「関白」だけはダメ。 

「関白」は「特別な一族」だけが就任できる、「大臣」以下とは別格の位なのです。 

 

そんな「関白」になれるのは、鎌倉時代以降は5つの家で独占されるようになっていきました。

 

それが「近衛」「鷹司」「一条」「二条」「九条」の5つのことで、ぜんぶ藤原氏。

 

そして、「五摂家」の先祖を辿ると、藤原忠通の息子たちに行き着くのです。

系図にしてみると、こんなかんじ。

 

系図(五摂家)

 

藤原忠通が関白を辞した後、後を継いだのは嫡男の基実(もとざね)でした。

 

基実は、ある意味で「保元の乱」の元凶となってしまった人。

 

彼が生まれたからこそ、彼に摂関家を継いで欲しかったからこそ、父・忠通は弟の「悪左府」頼長に家督を譲るのを拒否し、その確執が摂関家の分裂→「保元の乱」と繋がったわけですからね。

 

まだ幼かった基実を忠通が連れて昇殿した時に、頼長は「初めて兄の息子に会った」そうです。

 

この時、頼長は動揺したのでしょうか・・・・と、また頼長さまの話になってしまう!いかんいかん(笑)

 

保元の乱のとき、基実は13歳。

 

父とともに、近衛天皇のもとに参じていたそうです。

 

保元3年、16歳で関白に就任。

 

清盛を娘を娶り(盛子)、また息子・基通も清盛の娘を嫁にしているところからも分かるように、基実の家は「親平家」の一族でした

 

後に、清盛が後白河法皇を「めっ!」と幽閉したとき(=治承三年の政変)、平家によって関白に引っ張り上げられたのは、息子の基通でした。

 

この忠通→基実→基通とつながるラインが「近衛家」

 

のちに分家筋として「鷹司家」が派生します。

 

基実が早くに亡くなってしまうのは、大河ドラマでも取りあげられたとおり。

(二十代半ばの若死に。なので、11歳で未亡人になった盛子とは、そんなに釣り合わない年でもありません)

 

この時、基通は6歳だったため、基実の次弟・基房(もとふさ)が関白を継ぐことになります。

 

「殿上乗り合い事件」平家の被害者として有名になっているのが、この基房。

 

基房は、摂関家の所領を兄嫁の平盛子に相続されてしまったのを恨んだのか清盛が「基通が成長するまでの中継ぎ」としか考えてなかったことが気に入らなかったのか、反平家に傾いていきます。

 

ただ、早死にした平重盛の所領を自分のものにしてしまうという、「やり過ぎ」に激怒した清盛によって、後白河法皇とともに失脚(ただし、やがて復職)

 

平家が「都落ち」すると、代わって入京した木曽義仲に接近。

 

娘を嫁にやるなどして工作しますが、義仲に息子・師家を傀儡とする政権にしようと目論まれるなど、うまくいかなかったみたい。

 

結局、義仲が京から駆逐されてしまうと、基房も政治生命を断たれてしまいました

 

以後、有職故実を伝える「藤原氏の長老」として重宝はされたものの、彼の一族(松殿家)は歴史の表舞台に立つことなく、衰退してしまうのでした。

 

最後の兼実(かねざね)は、九条家の祖。

 

彼の子孫からは一条家二条家が派生します。

 

兼実は、細かい上に意地が悪い性格

そのためか後白河法皇とは相性が良くなかったみたい(笑)

 

同時に平家とも仲が良くなかったようで、「源平合戦」の最中は傍観者のような立場を取っておりました。

 

兼実の息子・良経(よしつね)の妻は、頼朝の同母妹坊門姫の娘でした。

 

よって、後白河とも平家とも近づかなかった彼は、後に勝ち組となった頼朝(鎌倉幕府)に接近することになります。

 

それについては、時代も違うのでまた別の機会に・・・・ということで。

 

ちなみに、兼実の息子・良経は、別名を「京極どの」
五代前の師実(もろざね。系図の一番上・忠実の祖父)も「京極どの」と呼ばれていたため、区別して「後京極どの」と称されます。

 

「後京極」と聞いて、「おや?」とばかりに、ピンとくる方もおられるのではなかろうかw

 

 

きりぎりす 鳴くや霜夜のさむしろに
衣かたしき ひとりかも寝む

 

百人一首の91番歌の詠み人、後京極摂政前太政大臣とは、彼のことだったのですねー。

 

 

なんだか、だらだらと長くなってしまった・・・・。

 

リアル友達にしたよりも、きっと丁寧になっているはずですが、しかしかえって伝わりにくくなっているような気が・・・・(笑)

 

ともあれ、今日はこのあたりにしておこうと思います。ではではー