昨日の「歴史秘話ヒストリア」は、熊野三山だったみたいですね。

 

ワタクシは、いつものように「ホンマでっか!?TV」を見たので、見逃してしまいました・・・・(家族がこっち優先するので^^;)

 

聞いた話では、白河院藤原定家(百人一首の撰者)の話が出ていたようで。

 

それは面白そうだな・・・・w

 

定家は「旅が嫌い」っていうイメージが一部であるみたい。

日記に「熊野詣の行幸に出るのはもうイヤだ」みたいなことが書いてあるらしいです。

 

でもそれは、熊野詣でパシリした時の過酷な労働環境に懲りていたからであって、旅そのものを嫌ったわけではないのでは?ってくらい、酷使されているんですよねぇ・・・・(笑)

 

幸いヒストリアは再放送があるので(だよね?)、そちらで要チェックですなー。

 

 

「平清盛」の時代で熊野といえば、「平治の乱」「壇ノ浦の戦い」が思い浮かびます。

 

「平治の乱」は、清盛が熊野詣のために京を留守にした隙を狙って、藤原信頼が源義朝を巻き込んで起こしたクーデター。

 

この急報を知った清盛が、急ぎ京へ戻ることを決めた時。
熊野別当(熊野三山の一番エライ人)だった湛快(たんかい)が、武器の提供などをして協力してくれたのだそうな。

 

この時、なんで清盛は単身熊野にいたのか?というと、熊野と平氏の繋がりは強いものだったから

 

彼の弟・忠度(ただのり)は母が熊野の人で、父・忠盛が白河院の熊野行幸に同行した際、現地の娘との間に「できた」のが彼だ・・・・と言われています

 

ほかにも忠度が湛増(たんぞう)の妹を嫁に迎えていたり、弟・頼盛が熊野を知行地としていたりと繋がりがあり、清盛自身も何度も熊野へ足を運んでいるので、「平治の乱」の時も「いつものこと」だったのでしょう。

 

 

そして、源平合戦は「壇ノ浦の戦い」と呼ばれる水上戦が最終決戦となりました。

 

ここで、源氏勝利・平家滅亡の命運を分けた大きな要因のひとつが、「熊野水軍の源氏側への加担」

 

なんせ、源氏は騎馬戦は得意なものの水上戦はからっきし、というかロクな水軍を持ってなかった(!)のですから。

 

ある時(「平治の乱」)は平氏の味方♪
ある時(「壇ノ浦の戦い」)は源氏の手先♪

(by鉄人28号←古いな・・・・)

 

なんで熊野は、寄り添う相手をコロッと変えたんだろうか?

 

 

・・・・というと、実は熊野は源氏とも繋がりがあったから。何の不思議もないのです(たぶん)

 

系図で見ると、こんなかんじになっています。

 

熊野別当

(熊野別当の系図は、色々な説があるみたい。これはその中のひとつです)

 

源義朝の父・為義は、熊野別当・長快の娘(立田御前)とむすばれ、行家(初めの名は義盛。行家は十男なので、新宮十郎とも呼ばれます。長男・義朝から見ると異母弟)と娘(鳥居禅尼)を生んでいます。

 

そして、鳥居禅尼の娘は湛増(たんぞう)のもとに嫁いでいます(源平合戦時の熊野別当)

 

源平合戦は後白河帝の息子・以仁王(もちひとおう)の挙兵によって火蓋が切って落とされるのですが、以仁王の「平家を追討せよ!」の令旨を全国各地に運んだのが、この行家でした。

 

このあたりの話は、実は美福門院も関わってきてフクザツなので今日は語りませんが、熊野水軍が源氏に向背したのは、熊野と密接な関係を持つ行家の働きかけもあったのだろうと考えられるわけです。

 

ちなみに、熊野別当・湛増の息子に、武蔵坊弁慶がいるという説があります。

 

大河ドラマでも、すでに「鬼若」と言う名で出ていますね。

 

大河ドラマが「弁慶=熊野別当家出身」の説を採るかどうかは分かりませんが、源平合戦の天才戦術家にしてチート武将・源義経を追いかけるときは、このあたりの背景も覚えておくと楽しいかもしれませんねw

 

というわけで、たぶん昨日のヒストリアでやったんだろうな・・・・というあたりを予想して、取り上げてみましたw

 

やっていなかったら(予想がはずれていたら)・・・・お恥ずかしい、となるのかも?(^^;