寿永2年(1183年)秋。
「水島の合戦」という戦いがありました。

 

時は平安時代末期。いわゆる「源平合戦」のうちの一戦です。

 

平清盛が亡くなったのは1181年ですから、彼の死後のこと。

戦ったのは息子の知盛・重衡の平家屈指の名将コンビと、教盛の子・通盛という、清盛の子供世代たちでした。

 

 

1183年7月

源義仲(木曾義仲)に攻め立てられた平家は、都を守り切ることが難しくなって、西国へ落ち伸びます(=平家の都落ち

 

義仲は京都を占領。

専横を快く思っていなかった平家を追っ払ってくれたことで、公家たちに喜んで迎えられました。

 

・・・・が、あまりの作法を知らない粗暴さのために、あっという間に嫌われます(笑)

 

そして、都をゲットしたからといって、義仲も喜んではいられませんでした。。

 

後白河院は確保できましたが、安徳天皇「三種の神器」を平家に持ち去られてしまったからです。。

 

そして、平家は何といっても船を使った海戦が得意

「治天の君(後白河院のことね)を首尾よく奪い取れたとしても、水軍基地を叩いておかなければ、平家は何度だって蘇ってくるのです。

 

近畿をにらむ平家水軍の最前線基地は、讃岐(現・香川県)の屋島(やしま)にありました。

 

「よし、水軍基地・屋島を落として、平家に引導を渡してくれるわっ!」

 

義仲の号令で、準備が進められました・・・・が、水島で準備中に平家が襲来。

義仲軍はコテンパンにやられてしまい、平家に久しぶりな勝利をプレゼントするハメになってしまうのでした。

 

ちなみに、「水島」というのは現在の岡山県倉敷市のあたりです。

 

★源平合戦地図★

 

 

 

この「水島の戦い」があった日
備前~備中あたりでは95%の部分日食」が観測されたと言われます。

 

「昼間なのに、にわかに暗くなった!(ガクブル)と軍記物に記述されており。

 

この天変地異に、木曾義仲の軍はあわてふためいてしまい、その隙を狙った平家軍に襲われた・・・・それが敗因だったと伝わります。

 

一方の平家は、陰陽師などからの情報で、日食があることはあらかじめ分かっていました

だから、冷静に行動することができ、見事に義仲の軍を成敗した・・・・というわけです。

 

 

これ・・・・本当かなぁ?(笑)

 

 

今日、一大天体ショーの「金環日食」がありました。

 

ワタクシ、遮光ゴーグルなしの肉眼でチャレンジ。
したんですけど・・・・まぶし過ぎる!

 

それでも、どうにか頑張ってみましたが、「これ欠けてる??」というような状態でした。。

 

そして、東京での様子をメディアの映像で見ましたけど、ほとんど明るさは変わったように見えませんでした。。

 

変わったとしても、「ちょっと雲が差したのかな?」程度。。

 

意外と暗くなかった日食・・・・。。

 

金環日食と部分日食では、どっちがどの程度暗くなるのかは分かりませんが、合戦中の義仲軍は、その変化に気がつけたのだろうか?。

 

まぁ、気がついたのかもしれないですけど(笑)、思うに「木曾義仲が日食で狼狽して敗退した」って、本当は公家たちが作った話なのではなかろうか。。

 

陰陽師からの報告で日食があることをあらかじめ知っていたというのは、公家たちだって同じ。いや、むしろこっちが本職です。。

 

日食は「穢れ」ですから、あらあかじめ知っておかないと対策ができません。。

 

この対策を講じるのが当時の「政事」であり、公家たちの仕事なのです。。

 

だから、「木曾義仲、敗退」の知らせを受けた時、「これ日食があった日ではないか!」と分かっていたわけです。。

 

そこで、公家たちはどう思ったのだろうか・・・・?。

2つのパターンが考えられると思います。。

 

ひとつ目は、木曾義仲を文明から遠い野蛮人だからとバカにするパターン。。

 

「木曾の山猿は無学でっしゃろ?せやから、日食を見て泡食ったんですわw」

「ほっほっほっほw」

 

なんせ、「水島の合戦」の時点で、木曾義仲はすでに「礼儀知らずで厚顔無恥で横柄で都の秩序を乱す乱暴者」として、公家たちから大いに嫌われていました。。

 

負けたのを同情される要素なんて、まったくないのです(笑)。

 

もうひとつは、平家の勝因を侮るパターン。。

 

「天の徳が尽きているはずの平家が、なんで勝てたんでっしゃろのう?」

「何かがあったに違いありまへんやろ」

「そういえば、日食があった日ではあらしゃいませんか?」

「そうか・・・・平家が勝ったんではなく、木曾が天から見放されたんでおじゃるな」

「都でのあの狼藉ぶり、当然ですわなぁ」

「ほっほっほっほw」。

 

・・・・あんまりパターン1と変わらない?(笑)。

 

でも、当時の公家は「戦略」といえば「占い」という面が強かったので、「天の運で平家が勝って木曾が負けた」と考えても、なんの不思議もありません。。

 

こうして、「日食」という事実と、「木曾義仲、敗れる」という事実が、オカルトマニアで皮肉屋の公家たちの手を介して、面白おかしく結びついてしまった

 

ワタクシはそう思うのですが、どうでしょうかねー。。

 

 

ちなみに、もうひとつ。。

 

平家があらかじめ「日食」を知っていたとするなら、それをわざと義仲軍に流布して、動揺を誘って勝利を収めた・・・・というパターン。。

 

これはどうだろう?。

 

合戦の最中に偶然「日食」を見つけるのは無理がありそうだな~と思うけれども、あらかじめ知っていたから、気になって空を見上げて「見つけてしまった」なら、考えられそうじゃない?。

 

・・・・と思っていたんですけど、今日の日食を体験したら、「遮光グラスもなしに日食を発見するのは難しそうだなー」と、そんな暫定的結論になったのでした。。

 

ともあれ、この「水島の戦い」の敗戦を機に、木曽義仲は真っ逆さま。。

浮き上がることができないまま、歴史の舞台から消えてしまうことになります。。

 

旭日のごとく颯爽と登場し、「旭将軍」と呼ばれた木曽義仲が、日食の日を境に落ちぶれていく・・・・とはねぇ。。

 

「史実は小説よりも奇なり」とは、よく言ったものですなぁ(^^;。