先日、藤原四兄弟の話題をやりました。
それに関連して・・・・みたいなカタチで、ちょいとこのコラムをつっつきます。
★仏像ブーム到来!大仏から興味を持って日本史を楽しく学ぶ方法
読んでみましたが・・・・・これはいけませんね~(by中島誠之助)
「天武天皇の没後、蘇我氏がうまく後継を育てられなかった」
「だから、女帝が中継ぎのために次々に登場することになった」
「その隙に藤原氏が勢力を伸ばした」
ですか・・・・。
すげー暴論だ。
「投げる球 ぜんぶ明後日の方向」 なワタクシでさえ顔面蒼白になるような暴投だ(笑)
まぁ、「間違い」とは言い切れないレベルではあるし、本題からズレている部分なので今はスルーしておくとして。
ワタクシが一番「これはいけませんね~」と思ったのは、ココの部分。
天武天皇の孫に当たる長屋王(ながやのおおきみ)を謀反の疑いを掛けて一家全滅にした後、しばらくして藤原四兄弟は急に次々と亡くなります。
当時は天然痘が大流行していて、兄弟は皆これに罹って亡くなったわけですが巷では「長屋王の呪い」の噂が飛び交い始めます。
(中略)
大仏は聖武天皇の「仏に帰依して国を良くしたい」という心から造られた物です。しかし、裏ではこんな事情もあったのです。東大寺の大仏は藤原氏に掛けられた蘇我氏の呪いを解く目的も大きかったと言われています。
奈良時代、朝堂のナンバー1だった左大臣・長屋王(ながやのおおきみ)の勢いに危機感を抱いた藤原四兄弟は、長屋王の排除を決意。
「長屋王は、けしからん術を学んでいる!」という密告をでっち上げて、六衛府兵を動員して王の邸宅を包囲。自害に追い込みました(=長屋王の変。729年)
「長屋王の変」の後、藤原四兄弟は天然痘で全滅してしまうわけですが(737年)、「伝染病の概念がなかった」時代であり、そしてあまりのタイミングの悪さが重なって、これが「殺された長屋王の祟りだ」と信じられたわけです。
で、このコラムは「蘇我氏や長屋王の祟り」を鎮めるために、天皇は東大寺の大仏を建立した・・・・という主張なわけですが。
仏教で怨霊を鎮めるってのは否定しませんけど・・・・そんなことに、あの行基が協力しますかね?
行基(ぎょうき)というのは、東大寺の大仏を造る際に、聖武天皇自らが協力を仰いだ僧侶。
近鉄奈良駅前に銅像が立っているのを、知っている方もおられるのではなかろうか。
大仏建立より前、行基は弟子たちと徒党を組んで説教し、物を乞い、人々を惑わしていた・・・・と、正史「続日本紀」に記述されています。
これだけ見ると問題人物ですが(笑)、実際には橋をかけたり、「布施屋(ふせや)」と呼ばれる救護所を立ち上げて貧民を助けたり、慈善事業に携わる人でもありました。
何故に「続日本紀」は、このようなえらい人物をボロクソに書いているのかといえば、行基が布教すればするほど、土地から離れて漂泊する農民たちが増え、それが納税の減少に繋がるから。納税の減少は、国家の危機。由々しきことです。
そして、貧民に広く門戸を解放して救済していたというのは、国家の失政を非難している行為とも取れます。
「お前らがちゃんと政治をしないから(徳がないから)、農民は困窮するんだ」
「お前らがちゃんとセーフティネットを張らないから、俺たちが助けてやってるんだ」
「政府のやつらは政治家失格だ!」
こう言っているに等しいわけです。
行基は反権力の立場であり、また非納税者層を作り上げるのに一役買っていた・・・・。
つまり「無政府主義・反国家勢力の指導者」と見做されたわけです。
そして、おそらくそれは「事実」でした。
そんなアナルコ・キャピタリストの走りのような行基が、国家権力をいいように使っていた権力者の、まるで自業自得な「祟りを鎮めたい」なんて主張に賛同するか・・・・?
しないわなぁ(笑)
大体、主張の根本からしてヘン。
「蘇我氏の呪いを解く目的も大きかったと言われています」って言うけど、蘇我氏が一番恨みを抱いたのは宗家の当主・入鹿が殺された「乙巳の変(645年)」でしょう。
大仏建立の始まった年(747年)までに、もう100年ほど経っています。「大仏=蘇我氏の怨霊鎮魂」は、あまりにも遅過ぎです(笑)
(まぁ、「長屋王の祟りで思い出した」と、解釈もできますが)
それに、女帝が乱立したもの、草壁皇子の子・軽皇子(かるのみこ。後の文武天皇)が大人になるまでの中継ぎであって、後継者を育てるのに失敗したからではないでしょう。
そもそも「後継者を育てるのに失敗した」って、誰のことを言ってるのかしら。
草壁皇子のこと?大津皇子のこと?高市皇子のこと?長屋王のこと?よく分からん理屈です。
どうもこのコラムは、「大仏」と「日本史を楽しく学ぶ」を結び付けたいあまりに、無理なこじつけをして失敗してしまったような印象があります。
そんなヘンにリキ入れて頑張らなくでも、普通に大仏が造られた経緯を書けば、普通に面白く、普通に興味深く、普通に楽しく学べると思うんだけどなぁ・・・・。
「東大寺の大仏で日本史が楽しく学べる!」としたいならば、次の3つの疑問を挙げた上で、その答えに繋がるように紹介するのがいいと、ワタクシは思います。
1、なぜ反権力のカリスマである行基が、国家事業である「大仏造営」に協力したのか?
2、なぜ「大仏造営」という国家事業に、聖武天皇は浮浪者代表のような行基を協力者として求めたのか?
3、大仏造営が後世の歴史に与えた影響はどのようなものか?
これだけで、十分興味をそそられませんかね?(え、無理?w)
大仏建立を行ったのは、奈良時代中期。
第45代・聖武天皇(しょうむてんのう)の時代。
藤原四兄弟が頑張っていた頃、そして全滅した頃の天皇です。
天平12年(740年)、聖武天皇は難波(現・大阪府南部)への行幸に際して、河内國(現・大阪府の東半分)の「智識寺(ちしきじ)」に立ち寄り、その本尊の盧舎那仏像(びるしゃなぶつ)に礼拝しました。
智識寺の「智識」というのは、「善智識」の略。
布教して人々を仏道に導く人のことを意味する言葉で、転じて功徳を受けようと、自ら進んで寺の建立や維持のために財産や労力を寄進する人のことも指すようになりました。
つまり、智識寺の「盧舎那仏像」というのは、強制ではなく、みんなで自主的に財産や労力を寄進した人たちによって建てられ、維持されていた仏像だったわけです。
国家や豪族が己や一門の利益を求めて管理・運営していた従来の仏像とは一線を画した、民衆たちの意思によって自主的に建立・維持している仏像・・・・。
聖武天皇は、これに感動しました。
「自分も、このような仏像を造ってみたい!(則ち朕も造り奉らむと思へども)」
これが東大寺大仏が造られるきっかけとなった出来事だったと、「続日本紀」には書かれています。
実際、大仏建立に際し、聖武天皇は「一枝の草、ひとつかみの土を持って、協力して欲しい」と、国民に広く呼びかけていました。
行基に大仏建立の協力を仰いだのは、こうした「善智識の力で造りたい」という聖武天皇の意思が発端なのでしょう。
貧民を助ける「布施屋」を開いたり、物乞いを統率したりしていた行基は、底辺の人たちに大いに支持された僧侶。ある意味で「善智識」の中心にいた人物なわけですからね。
行基は、おそらく「智識寺のようなことをしたい」という聖武天皇の志に動かされたのではなかろうか。
彼が大仏建立のために仏教界のトップ・大僧正(だいそうじょう)になったのを、「民衆を裏切った」「朝廷に寝返った」と評する本があるらしいのですが(ワタクシは見たことないですが)、どちらかというと奈良王朝が「利用した」のであり、また行基は「利用されてやった」というのが、本当のところなのではないでしょうか・・・・。
このような志と思惑の結晶として、あの東大寺の高さ15メートルほどの大仏さまが造られたのだと、ワタクシは考えています。
というわけで、このような「本当にあった大仏建立までの流れ」でも十分に面白いと思うのですが、どうでしょうか。
以上、コラム記事では、踏み込みも文章量も全く足りない!とツッコミしたいがための日記なのでした。
まぁ、これは歴史好きなドSが、乱暴に斬り捨てただけ・・・・なのかもしれませんけどもね(^^;
「3、大仏造営が後世の歴史に与えた影響はどのようなものか?」については、長くなったので後日に改めます。
もしかしたら、オタノシミニ。
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