大河ドラマ「平清盛」、昨夜放送の「嵐の中の一門」見ました。
清盛の弟であり、忠盛の正室の子・家盛の突然の死による、一門の波乱。
もう弟クンの出番はないのか・・・・家盛がここまで丁寧に描かれたのって、初めてなんじゃなかろうか。
役者サンもハマり役だったので、とても残念。
頼盛との微妙な距離の取り方が、すごく上手かったと思うし、母との和解・結束の強化も「良かったなぁ」と思わせてくれました。
来週は忠盛も・・・・かぁ。平家が心安らかに休まる日は、まだまだ来ないようですね。
そして、佐藤義清が西行法師となって登場!それにしても、鳥羽法皇といい、西行といい、なんでハゲになると色気が増すんでしょうか・・・・(^^;
母との和解の小道具として、高野山の「血曼荼羅」の話もありましたが、それよりも気になったのは「秦公春(はたのきみはる)」がチラっと登場したこと。
男色家・藤原頼長の最愛の人として知られる人物ですが、もうひとつ。
彼は頼長の「懐刀」でもあった人物です。
彼は頼長の「懐刀」でもあった人物です。
藤原頼長は、ドラマでもたびたび「粛清」を口にしているほどの、情け容赦ない厳罰主義者。
ある日、公卿が行事に遅刻してきたら、「お前が遅刻するのは、帰る家があるからだ!」と言わんばかりに、その公卿の屋敷を破壊したうえに焼き払ってしまった・・・・なんていう、ひどい話が伝わっています(汗)
そんな一方で、彼は「自分は藤原摂関家の人間だ。公卿の中で一番エライんだ」という自負も強かったみたい。困ったことに、これは事実でもありました(笑)
この2つの思想は「他人の不正は法によって厳罰に処する。しかし、藤原摂関家は何をやっても構わない」というダブルスタンダードとなって、彼の行動原理となっていました。
ちなみに、おそらく本人は「ダブルスタンダード」だなんて、これっぽっちも思ってなかったでしょう。
自分の学才を「あの菅原道真にも負けない」と自負し、「日本一の大学生(だいがくしょう=学者・博士)」と呼ばれたほどの、自他共に認める知識人であり、朝廷の大学寮にあった漢籍を全て読破するという、おそろしい勉強家としても知られる彼は、それが「学問的に間違っていない」と知っているからです。
しかし、周囲からは「ダブルスタンダード」にしか見えません。これが、彼の命運を決してしまったと、ワタクシは考えています。
秦公春は、藤原頼長の「正義の執行人」という役割を果たす人物でした。
朝廷のトップの左大臣である頼長が「不正である」と判断しても、最高権力者・鳥羽法皇が「無罪」と裁決したら、その人は無罪。
しかし、苛烈で厳罰主義者な頼長は、どーーーしても見過ごすことができません。
そこで登場するのが、秦公春らの随身です。
「頼長にとっての『許し難き不逞の輩』を排除する」のが、彼の裏家業だったのでした。
「頼長にとっての『許し難き不逞の輩』を排除する」のが、彼の裏家業だったのでした。
その裏家業の最大のものは、ズバリ暗殺。
これは、藤原頼長の日記「台記」にも書き残されている事実です。そんなもん日記に書き残すなよ・・・・と思いますが(笑)、「自分は間違っていないんだ」という確たる自信の表れとも取れます(まさしく、正しい意味での「確信犯」です)
ところで、「藤原頼長は法治主義者としてダブルスタンダードだ」と書きましたが、もうひとつ相反する二律規範を持っています。
それは、「武士を心底軽蔑している」クセに、「武士を利用するのは積極的」だったことです。
秦公春を懐刀として使うほかにも、たとえば源義朝の弟にあたる源義賢(木曽義仲の父)を、「義朝を牽制する駒」として使ったりしています(失敗して、義賢は討たれてしまうのですが・・・・)
ドラマのラストで、源為義が藤原忠通邸に討ち入っていましたが、これも彼の差し金。
なんで、頼長は軽蔑する武士を積極的に活用したんだろうか・・・・?
これは根拠のない憶測ですが、それは彼が「漢籍を熟知していたから」ではなかろうか。
ありていに言えば「中国かぶれ」。
中国は当時の先進国ですから、これを幕末に例えるなら「蘭学狂い」、ひとむかし前にするなら「アメリカかぶれ」となるでしょうか(現代だと何だろう?思いつかないなぁ・・・・)
漢籍には、きっと兵法書なんかもあったでしょうし、先進国の文化や、軍事力を行使して政局を動かす様子も描かれていただろうと思います。
他国の事情に明るく、軍事事情に通じていたからこそ、「気に入らないヤツは軍事力で処断」を抵抗感なく繰り出せたんじゃないのかな・・・・。
「このような場合、宋では、このようにいたしまする」とでも微笑みながら・・・・。
法学に精通するあまり「自分が法」という気持ちでいた頼長は、「気に入らなかったら、それは不正」→「不正は軍事力で処断」という流れを「何の問題もない」と考えて、執行し続けました。
「正しい」と思っているのですから、何の躊躇もありません。
ためらいのない冷酷で独善的な刑の執行(人、これを「リンチ」と呼ぶ)によって、頼長は公卿から嫌われ、法皇からも疎まれ、どんどん孤立していき、それがやがて「保元の乱」へと繋がっていくことになるのでした。
ちなみに、1152年、秦公春が糖尿病で亡くなると、頼長は悲嘆のあまり3ヶ月も公務を休み、評判を落とすハメになっています。
それは、「保元の乱」まであと4年という時の出来事でした。