「高松塚古墳」と「キトラ古墳」に葬られている人は、一体誰なのだろうか…?

 

「飛鳥」が世界遺産に登録されるこの機会に、調査・考察・妄想して探してみよう!という特集企画。

 

前回までに天武系皇子を4人ほど解説してみました。

 

「高松塚/キトラ古墳」被葬者列伝(「激動の皇子」編)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12969041385.html

 

「高松塚/キトラ古墳」被葬者列伝(「風流人皇子」編)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12969756758.html

 

その流れの中で、皇子ではない人も2人、リストアップしています。

 

リストアップしたのなら全部語ってしまうのが、責任を果たすということ、そして筋というものではなかろうか?

 

…そういうことにして、さらに古代史語りを続けてみたいと思いますw

 

 

今回は、「キトラ古墳」の被葬者としてピックアップした「阿倍御主人(あべのみうし)」をご紹介してみたいと思います。

 

前回までは「天武天皇の皇子」という共通点があったので、2人ずつまとめてみましたが、今回は個人なので(=長くなりそうなので)1人だけ個別に紹介することにしてみました。

 

では、さっそく行ってみましょう!

 

 


↑キトラ古墳の「青龍」を手直ししたもの

 

阿倍御主人(あべのみうし)

 

キトラ古墳の被葬者と考えられる阿倍御主人は、635年の生まれ。

 

亡くなったのは703年なので、「キトラ古墳」の造営推定の後期、「高松塚古墳」ならドンピシャの造営期間になります。

 

しかし、なんといっても「キトラ古墳」のある「阿部山」は、その名の通り阿倍氏の本拠地のあるところ。2つから選ぶなら「キトラ古墳」こそが御主人の墳墓と言いたくなりますよね。

 

「小ぶりな円墳」というのも、有力豪族・有力高官クラスだった御主人に相応しそうなサイズ。

 

68歳没なので、「50代~60代の男性」という遺骨の鑑定結果ともそれほど外れません…やや70代ですが、60代も70代も同じことよ(何)

 

というわけで、「古墳の造営期と没年」「所在地と所縁」「古墳の種類・サイズと身分の関係」「遺骨の年齢層」いずれも齟齬の生じない、素晴らしくバッチリな推定候補者となっています。

 

 

ただ気になるのは、内部の「豪華な大陸文化極彩色壁画」との釣り合い。

 

「時間の支配者」を表す「天文図」が天井に描かれ、「空間の支配者」を表す「四神図」に囲まれた石室を持つ、キトラ古墳。

 

つまりこの石室は、天(時間)と地(空間)のすべて、すなわち『宇宙そのものを支配する者』のシンボルが凝縮された空間なのです。

 

そこに、古代豪族のイチ氏族の首長に過ぎない阿倍御主人が眠っている…って、どうですか?

 

キトラ古墳の被葬者は、もっと偉大な人だったのでは…?と訝しく思うのが常識的なのではなかろうか。

 

でも実は、阿倍御主人と「大陸文化の結晶」とも言えるキトラ古墳の豪華壁画は、意外とガッチリ結びつく関係なのです。

 

それを求めるには、「古代豪族・阿倍氏とは何者だったのか?」について深掘りしてみると、分かりやすいかもしれません。

 

 

阿倍氏は古代豪族の有力な氏族の1つ。

 

  1. 大伴氏
  2. 物部氏
  3. 蘇我氏
  4. 阿倍氏

 

これを「古代四大豪族」と、ワタクシは勝手に呼んでいます(勝手に、ですよ…一般的には言われていません、たぶん)

 

阿倍氏は、第8代・孝元天皇(BC273年~BC158年…計算上は。ワタクシは支持してないですが、一応)から分かれた「皇別氏族」で、古株の名門中の名門。氏祖には、孝元天皇の第一皇子・大彦命(おおびこ)を挙げています。

 

大彦命は歴史上、第10代・崇神天皇の時代(BC150年~BC30年…計算上は。支持は以下略)に、各地を平定するために派遣された「四道将軍(しどうしょうぐん)」の一人として登場。

 

北陸方面(高志国)を担当して出発し、若狭→越前→加賀→能登→越中→越後と進んで、各地の勢力を服属させていったとされています。

 

最後は「会津」で、東海方面軍を率いていた武渟川別命(たけぬなかわわけ。ちなみに大彦命の息子)と合流。当地には大彦命と武渟川別命を祀る「伊佐須美(いさすみ)神社」が鎮座しています(現在は「岩代国一之宮」。かつては「陸奥国二之宮」)。なお、初期の会津国造だった丈部氏(はせつかべ)は阿倍氏の関連氏族です。

 

 

飛鳥時代に入ってくると、阿倍比羅夫(ひらふ)が越後を拠点に、東北から北海道まで異民族の平定に邁進しています。

 

大彦命のストーリーを下敷きにすれば、北方異民族討伐の足掛かりは「四道将軍」の時代に越後まで平定した際に築かれていた(あるいは、築かれたのをモデルに四道将軍の伝承に落とし込んだ)と理解することができそうですね。

 

663年に起きた、日本三大危機(とワタクシが勝手に言っている)の1つ「白村江の戦い」の時、比羅夫は勅命により、はるばる朝鮮半島まで遠征しています。

 

東北で活躍していたハズなのに…となるところですが、これは「日本海」の制海権を確保していたことの証左。阿倍氏は、大和朝廷の日本海の水運・水軍を担う、重要な氏族へと成長を遂げていたのでした。

 

 

こうして見て来ると、阿倍氏というのはタダの古代豪族というわけではなく、

 

  1. 海上を安全に航海する造船・航海技術
  2. 対外交渉術(言葉や文化の通じない異民族を手なづける)
  3. 交易品の知識(どこで何が手に入って誰が求めているか)

 

といったノウハウを持っていたことになり、これはもはや「広義の外交」そのもの。

 

中国から思想と文化アイテムを持ち帰る「遣隋使・遣唐使」の時代には、外交を担う重役に、阿倍氏の姿がチラホラと確認できます。


「遣隋使」といえば、小野妹子の名が真っ先に思いつきますが、彼が遣隋使のリーダーに選ばれたのは、外国の文化と言葉に明るく(小野氏が「渡来氏族の受け入れ先周辺」の豪族だった)、かつ当時の権力者・蘇我氏と関係が良好で(崇仏派)、身分も申し分なかったからでした。

その妹子が派遣された「日出づる処の天子…」で有名な「第2回遣隋使(607年)」の時、隋が返礼として使節団を派遣するのですが、その大使・裴世清(はいせいせい)を饗応した外交のキーマンが、阿倍氏(阿倍鳥子)でした。

 

そして、話は奈良時代になってしまいますが、あの百人一首にも取られている和歌。

 

 

あまの原 ふりさけ見ればかすがなる
三笠の山に いでし月かも


安倍仲麻呂/古今集 覊旅 406

 

遣唐使として渡っていた唐から「いよいよ帰れる…」となって開かれた送別会で詠まれた、故郷を懐かしむ和歌。

 

その詠み人は阿倍仲麻呂(698年~770年)ですが、彼は「日本代表」として扱われ、唐において朝廷の高官にまで登りつめています。「外交の阿倍氏」という背景から、遣唐使に選ばれ、さらに現地において「ああ、あの阿倍ね」とでも言われて、代表者扱いされることになったのかな…という読みができますね。

(実際には、本場の人でも合格率1~2%という鬼のような難関「科挙(かきょ)」に、一発合格するという仲麻呂の神がかった才能が唐をねじ伏せたのですが、でも遣唐使に選ばれた理由は、「阿倍氏だからOK」という面はきっとあったハズ)


哭晁卿衡(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11375406885.html

 

「乙巳の変」で蘇我入鹿が滅ぼされた後、天皇となった孝徳天皇は「飛鳥」から「難波宮(現・大阪)」に遷都するのですが、その地は阿倍氏の勢力圏でした。

 

 

難波が阿倍氏の勢力圏だったのは「港があったから」という事実と深く繋がっていることが想像がつきますね。

 

この地で、阿倍内麻呂(御主人の父)は人臣最高峰・左大臣に登りつめています。


大化の改新の黒幕(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11441484993.html

 

こうして考えると、「外交」というお家芸を持っていた「阿倍氏」を率いていた氏上の阿倍御主人が、「キトラ古墳」のような大陸文化の色濃い壁画の古墳の被葬者に推定されるというのは、「相応しい」とも言えそうな気もしてくるハズ。

 

…と思うのですが、如何でしょうかねー?

 

 

ところで、阿倍御主人は、実は『竹取物語』で"かぐや姫"に求婚する5人の貴公子(のモデル)として、登場しています。

 

その名も、なんと「右大臣阿倍御主人」。

 

本人の名前そのまんま…ふつーはぐらかして、聞いた人が「ああ、アイツね!」って気づく、ってのが面白さの1つなんでないの?(笑)

 

『竹取物語』のストーリーの中心は、"かぐや姫"の美しさにほだされた5人の求婚者が現れて、それを断りたい"かぐや姫"が無理難題の宝探しクエストを発動させて、プロポーズを片っ端からダメにしていく…というもの。

 

お話の中で、阿倍御主人が"かぐや姫"から持参するよう約束させられた宝物は「火鼠の皮衣」でした。

 

右大臣阿倍御主人には、「もろこしにある、火鼠の皮衣を給へ」とのたまふ。
大臣「我が国になき物なり。唐土もろこしにこそはあらめ。それもえ見つべきやうもなし。いづちとも知らぬ国にあるが中に、かやうの物、これらは皆なき物なり」とて、え、いなび給はで、心のなかに
「よし。いづちも天の下にある物ならば、えもて来じや」
と思ひて、出で給ひぬ。

 

(『竹取物語』より)

 

右大臣阿倍御主人には「中国にあるという『火鼠の皮衣』を私にください」とおっしゃる。 大臣は「我が国にはない物だ。唐にこそあるのだろうが、手に入れられそうな方法もない。どこにあるとも知れない遠い国にあるものの中でも、このような宝物は、みな実際には存在しない架空の物だ」と思ったが、きっぱりと断ることもおできにならず、心の中で、「よし、まあいい。どこであれ、この天下に実在する物であるならば、持ってきてみせよう」 と思って、退出なさった。

 

何かの解説本で読んだのですが、普通の衣服は汚れたら水で洗うのですが、この「火鼠の皮衣」は燃えることがないので、火にくべることで埃だけが燃えて綺麗になる…というシロモノだそうですw

 

(そのため、「火に入れると汚れが燃え尽き布自体は白く輝いた」ことから、元ネタは石綿=アスベストではないかと言われています)

 

ともあれ、難問クエストを与えられた阿倍御主人がどうしたのかというと、取った行動が「唐の商人に大枚をはたいて購入する」というもの。

 

ものすごく綺麗な毛皮は手に入ったのですが、結局「本物だったら燃えないハズよね」と"かぐや姫"が毛皮を火にくべたところ、あっけなく燃えて「偽物だ」と発覚する…というオチがつくお話になっています。

 

このお話が、当時の人たちにバカウケしたのは何故か…と考えると、「唐の商人」「大枚をはたいて(交渉して)」というのが、「外交に明るく中国文化に通じていた」「日本海貿易で潤っていた金持ち」という阿倍氏と絶妙にリンクして、リアリティを感じられた(本当の御主人が吠えづらかいたように感じた)からだと思わされますね。

 

(なんだか「そんなもんあるわけないでしょうが…!と断りたかったが、断り切れなかった」というキャラクター性が、現実の阿倍御主人の性格をうっすら表していたりするのかな…?なんてのも)

 

で、「火鼠の皮衣」をめぐる阿倍氏のプロファイルの他に、もう1つの注目点は「右大臣」というところ。現実の御主人も、実は右大臣の位にいたからです。

 

 

古代史上重要な出来事「壬申の乱(672年)」の時、阿倍御主人は37歳前後。19歳前後で総大将となった高市皇子の「監軍(総参謀長・最高幹部)」として、従軍していたと言われています。

 

そういえば、高市皇子は母の身分が低いために皇位継承者になれませんでしたが、その生母は九州の豪族・宗像氏の出自でした。

 

飛鳥の皇族・大海人皇子(天武天皇)が何故九州の豪族の娘と…?となるところですが、日本海を制圧していた阿倍氏が、そこに何か関係していて、だから高市皇子の右腕になったのかも…?という妄想もできてしまいますね。

 

実戦部隊には、かつて蘇我氏の私兵だった渡来系武力集団「東漢氏」が多く参加しています。彼らは、なんと元々は敵(大友皇子側)の警備隊でした。

 

しかし、飛鳥で高市皇子に合流する形で一斉に寝返っています。これは何故か…?

 

もしかすると、阿倍御主人が得意の「対外交渉術」を活かして、裏で東漢氏に「大海人側に付きませんか?」という、凄まじい調略を仕掛けていたのかもしれません。

 

とすると、阿部御主人は若き「壬申の乱の英雄」高市皇子を影で支えて勝たせた功労者…ということにもなりますね。

 

乱後、大海人皇子は「天武天皇」として即位。初期の天武朝で阿倍御主人がどんな身分についたのかは分かっていません。

 

ただし、『日本書紀』のとある大事件の記録に名前が出てきて、幹部クラスの高位についていることが伝わってきます。

 

三年秋八月 対馬国司献銀 始出銀於此国 故授国司守忍海造大国等位各差 庚寅 遣小紫大夫等 於諸寺 分置新貢銀於仏前 亦賜国司使者等禄各差

 

(『日本書紀』天武天皇3年8月条)

 

天武天皇3年8月(674年)、対馬から日本で初めて「銀」が産出され、朝廷に献上される…という歴史的ニュースなのですが、「小紫大夫」たちが「これは神の恵み、仏の加護だ」として各名刹に派遣されていて、その「小紫大夫」が「=阿倍御主人」とされています。

 

「小紫」とは、天智天皇が定めた身分制度「冠位二十六階」の上から4番目というかなりの高位。「大夫」は五位以上の高級官僚、もしくは朝廷の重要な政務を議する「議政官の最高幹部」を指す敬称。

 

つまり、阿倍御主人は天武天皇の御世の時点で、閣僚クラスの最高幹部だったことになります。

 

天武天皇が崩御し、さらに皇太子の草壁皇子が若くして薨御すると、高市皇子は「知太政官事」という、「政府No.1」の地位に任ぜられるのですが、この時に「納言」となっていたのが、阿倍御主人でした。

 

「納言」は後の「大納言」のことですが、690年当時は左右の大臣がいないので、政府No.2~No.3というポジションにあたりました。

 

(なお、天武天皇は「天皇親政=皇親政治を執った」と日本史の授業で習いますが、その一環として「左大臣・右大臣をわざと空席にする」という手法を取っていたと言われます。だから持統天皇は、わざわざ「知太政官事」というポストを創設したと言えます)

 

持統天皇(女帝)や、次の文武天皇(まだ幼い)に代わり、実質的に「ヤマト王権の事実上のトップ(最高権力者)」として君臨したのが高市皇子で、その右腕だったのが阿倍御主人だったことになりますねー。

 

701年に「大宝律令」が完成して律令国家の本格始動が始まると、左右の大臣が復活。左大臣は多治比嶋、そして右大臣に阿倍御主人が就任しています。

 

この時は、高市皇子はすでに故人…長生きしていたら、太政大臣の地位にあったのは、高市皇子だったかも…とは、古代史好きが夢見てしまうロマンの1つでもあります。

 

 

もしも「キトラ古墳」の被葬者が、阿倍御主人だとしたら。

 

そこから、都の方へ進んだところにある高松塚古墳は、かつて支え、常に上位に君臨していた高市皇子を、阿倍御主人が墳墓を築いて改葬させた…というストーリーも、あってもいいような気がします。

 

2人は、「壬申の乱」で命がけの勝負をしていた時、その戦友として体を張っていた東漢氏が守る地で、抱かれるように眠っているのかもしれないですね。

 

 

(阿倍御主人の遠い子孫である陰陽師の安倍晴明と、天文図を天井に描かれたキトラ古墳を関係づけてみようかなとも思ったのですが、やや無理矢理過ぎる気がするのでやめました…でも運命めいたものが見え隠れして、面白いですよね…もしも御主人がキトラ古墳の被葬者だとしたら、ね)

 

 

 

ということで、本日はこれまで。

 

キトラ古墳の被葬者に推定されている、阿倍御主人について語ってみました。

 

なんだか「キトラ古墳の被葬者」にかこつけて「古代阿倍氏」を語りたかっただけ…というような気もしてしまいますが(笑)、まぁいいじゃないw

 

動機って言うのは不純なほど、力強いものになることもあるものなんだから…な。