先日、母上さまに呼び出され、「これの意味がサッパリ分からない」と質問を受けました。

 

差し向けられたパソコン画面を見てみると、そこには「水野氏」のwikipediaが開かれていて。

 

そこにある系図が、どこかどうなって繋がって、どういう意味があって、欲しい情報がどこにあるのか、サッパリ分からない…ということだったのです。

 

そうなんですよね…wikipediaの系図って、見るのにコツがいるんですよね…(-"-;

 

そこで、スクショを取って画像編集して見せ、いくつか解説してあげたら、「まぁまぁ分かる」という状態まで持って行くことが出来ました(ヤリマシター)

 

母上さま「これブログに上げたら?求めている人多いと思うよ」

ワタクシ「えっ、なんで…??」

 

話を聞いてみると、どうやら水谷豊さん主演のテレ朝時代劇で、水野氏が黒幕として登場した回があったようです。

 

『無用庵隠居修行』
https://www.bs-asahi.co.jp/muyouan06/

 

江戸の庶民から厳しい目を向けられていた定信だが、幕府でもかつて定信に失脚させられながら復権を狙う水野忠友(山下禎啓)が定信の危機にほくそ笑んでいた。

 

水野忠友…松平定信…なるほどw

 

 

というわけで、母上さまの御助言もありましたので、水野氏の系図を作り直しまして、今日はこれについて、いつものようにまったりと語りながら紹介していきたいと思います。

 

なお、『無用庵隠居修行』についての解説は、残念ながらワタクシ未視聴でありまして、何ともできず…。そこはご了承ください。

 

 

 

そもそも、水野氏って何者なのか?というと、徳川家康の母方の一族に当たります。

 

家康の母は「於大の方」という、水野忠政の娘なんですねー。

 

水野氏は、尾張国「緒川城」と三河国「刈谷城」を故地としていたようで、ここは「岡崎城」や「安祥城」を拠点とする松平氏のご近所さん。

 

この関係で頻繁に通婚が行われていたようで、「於大の方」が家康の父・広忠に輿入れとなったのも、その一環と言うことになりそうです。

 

忠政の子・信元は、それまで組んでいた今川家から離れて、織田家に接近。織田信秀・信長の親子に仕えて、信長が今川義元を討つことになった「桶狭間の戦い」にも参戦。

 

今川家が大きく傾き、家康が独立を目指すと、信長との同盟を結ぶ橋渡し役を担ったと言われています。

 

しかし信元は、天正3年(1575年)に武田勝頼への内通を疑われ、信長の命を受けた家康により誅殺。ここで水野氏は一旦滅亡となってしまいます。

 

天正8年(1580年)、信元の弟たちが、信長の許可のもと御家再興。忠守が「緒川城」、忠重が「刈谷城」の旧領に復しました。

 

以降、信長、秀吉、そして家康に従いながら戦国の世を生き抜き、神君の生母の一族として「徳川四天王」にも負けない存在感で、江戸時代を送ることになりました。

 

と、長々と前史をご紹介したところで、江戸時代をメインに系図で確認してみると、このようになっています。

 

 

 

それでは以下、各家の紹介語りと洒落込みますw

 

 

 

水野日向守家

 

1. 日向守勝成 三河刈谷藩主(3万石)
→大和郡山藩主(6万石)
→備後福山藩主(10万石)
2. 美作守勝俊 備後福山藩主
3. 日向守勝貞 備後福山藩主
4. 美作守勝種 備後福山藩主
5. 松之丞勝岑 備後福山藩主
→夭逝
6. 隠岐守勝長 能登西谷藩主(1万石)
→下総結城藩主(1万8千石)
7. 日向守勝政 下総結城藩主
8. 日向守勝庸 下総結城藩主
9. 日向守勝前 下総結城藩主
10. 日向守勝起 下総結城藩主
11. 日向守勝剛 下総結城藩主
12. 日向守勝愛 下総結城藩主
13. 日向守勝進 下総結城藩主
14. 日向守勝任 下総結城藩主
15. 日向守勝知 下総結城藩主
→強制隠居処分
16. 勝寛 下総結城藩主
→結城藩知事

 

水野家の本家筋(宗家筋)。家康母「於大の方」の同母弟・忠重の系統の1つ。

 

家祖・勝成(忠重の子)は「倫魁不羈(りんかいふき。飼いならし不可の暴れ馬)」と称された猛将。何故そう呼ばれたのか…?それは、仕えた主君を紹介すれば分かるだろう。

 

徳川家康→織田信長→織田信雄→仙石秀久→豊臣秀吉→佐々成政→黒田孝高→小西行長→加藤清正→立花宗茂→三村親成→徳川家康→徳川秀忠→徳川家光

 

88歳の生涯で、実に14回の主君替え。しかも問題を起こしては出奔すると言う、暴れ馬もドン引きするような経緯を辿っています(笑)

 

仲が悪かった朋輩の富永半兵衛を袈裟斬りに討ってしまい、父・忠重から「奉公構(ほうこうがまえ。他家に「取り立てないでくれ」と釘を刺す)」の処置をされるという徹底ぶりで追放されてしまった勝成。

 

やがて、家康と対立していた秀吉に召し抱えられるのですが、いつしか指名手配されるほどの悪事を働いて出奔(詳細不明)。その後は仕官してはトラブルを起こして出奔し…を繰り返します。

 

家康の元に帰参し、父の忠重と和解を果たしたのは、「関ヶ原の戦い」直前となっていた慶長4年(1599年)。

 

15年ぶりに、ようやく古巣に返って来た勝成でしたが、そのわずか2ヶ月後、忠重が三河国池鯉鮒において暗殺されるという悲劇が発生。

 

思ってもみない出来事で、勝成は水野家の当主となり、三河刈谷藩を相続することになりました。

 

「関ヶ原の戦い」では「大垣城」方面に参戦。その戦功で出世すると、明智光秀が名乗っていた「日向守」をあえて所望し、その勇猛さから「鬼日向」とも呼ばれています。

 

「大坂の陣」では、徳川本隊に迫る真田軍を撃退。「前に出過ぎるなよ」という家康の諫言を清々しいほどに無視して(笑)一番駆けを繰り返し、あの伊達政宗が直接やって来て宥めるなど、衰えを知らぬ猛将ぶりを発揮したのでした。

 

61歳、中々元気なお人です(笑)。しかし、家康の命令を無視した代償は大きく、「大和郡山6万石」に留まってしまいます。

 

これに激怒した勝成は、直談判に出向こうとするのですが、将軍・秀忠が直々に呼び止めて「大御所が隠居したら加増するゆえ、ここは堪えよ」と約束。

 

元和5年(1619年)、福島正則の改易に伴い、約束通りに「備後福山10万石」の領主となったのでした。

 

以後、代々枢要の地を任されるのですが、第5代・勝岑が2歳で夭折したことで断絶。

 

勝成以来の名門の家柄が惜しまれ、勝成の孫・勝長が跡目を継ぐことで「能登西谷1万石」の藩主として家名の存続が許されます。

 

勝長は5代将軍・綱吉の小姓だったこともあり、幕府の覚えめでたく「下総結城1万8千石」に転封。以後幕末まで、下総結城藩の藩主として続くことになりました。

 

幕末の文久2年(1862年)、14代・勝任が子のないまま23歳で亡くなったので、二本松藩丹羽氏から末期養子が迎えられ、勝知が15代(結城藩としては10代)の当主となりました(形式上では勝任の養子ですが、実は勝知のほうが2歳年上だったりします)

 

二本松藩丹羽氏は、日光東照宮や増上寺の造営に精を出した徳川家の忠臣だった家柄。幕末が「佐幕派」と「新政府派」に別れて争う局面となっていくと、勝知は当然のように佐幕派に属するのですが、藩は新政府寄りの立場を取って、真っ二つになってしまいました。

 

終いには、勝知は「彰義隊」を率いて結城城を奪還(!)。以後、戊辰戦争では旧幕府側として各地を転戦するのですが、実家の二本松で敗北してしまい、当主の座は13代勝進の次男・勝寛に転がり込みました。

 

勝寛は「版籍奉還(1869年)」を経て「廃藩置県(1871年)」まで結城藩知事を務めています。

 

 

水野市正家

 

1. 市正忠胤 三河水野藩主(1万石)
→廃藩

 

忠胤は、勝成の同母弟。織田信長の娘・於振を正室に迎えていたそうな。

 

生年や生い立ちなどは不明なのですが、「関ヶ原の戦い」で兄とともに大垣城攻略を担当して功績を挙げたみたい。

 

戦後、従五位下・市正(いちのかみ)に叙せられると、三河国内に1万石を与えられて「三河水野藩」を立藩するに至りました(詳しい居所は不明)。

 

慶長14年(1609年)9月29日。遠州浜松藩主・松平忠頼を開いて茶会を開いたのですが、この席で家臣同士が口論になり、巡り巡って忠頼が殺害されてしまう刃傷沙汰に発展。

 

管理責任問題となってしまった忠胤は切腹。三河水野藩は廃藩となってしまったそうです。

 

 

水野隼人正家

 

1. 隼人正忠清 上野小幡藩主(1万石)
→三河刈谷藩主(2万石)
→三河吉田藩主(4万石)
→信濃松本藩主(7万石)、書院番頭、奏者番
2. 出羽守忠職 信濃松本藩主、大坂城代
3. 隼人正忠直 信濃松本藩主
4. 出羽守忠周 信濃松本藩主
5. 日向守忠幹 信濃松本藩主
6. 隼人正忠恒 信濃松本藩主
→改易
7. 出羽守忠穀 大身旗本(信濃国佐久郡7千石)、大番頭
8. 出羽守忠友 三河大浜藩主(1万4千石)
→駿河沼津藩主(3万石)、老中
9. 出羽守忠成 駿河沼津藩主(3万石)、老中
10. 出羽守忠義 駿河沼津藩主
11. 出羽守忠武 駿河沼津藩主
12. 出羽守忠良 駿河沼津藩主
13. 出羽守忠寛 駿河沼津藩主、側用人
14. 出羽守忠誠 駿河沼津藩主、老中
15. 出羽守忠敬 駿河沼津藩主
→上総菊間藩主(5万石)
→菊間藩知事

 

家祖の忠清は、忠重の四男。勝成の異母弟。

「本能寺の変」があった天正10年(1582年)の生まれ。

 

慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」の時。勝成が会津征伐に従軍すると、忠重は三河国に留まるのですが、堀尾吉晴を歓待して酒宴を催した際、石田三成の意を受けていたと言われる加賀井重望によって暗殺されてしまいます。

 

思いも寄らぬ父の死を迎え、旧領の三河刈谷藩は兄の勝成が相続。

一方の忠清は、徳川秀忠に家臣として仕えることになりました。

 

慶長7年(1602年)、従五位下・隼人正(はやとのかみ)に叙せられ、上野国小幡に1万石の所領を与えられて、大名に昇格。「大坂冬の陣(1614年)」では秀忠本陣の警衛にあたり、「大坂夏の陣(1615年)」では大野治房を撃破。

 

これらの功績もあって、「大和郡山」へ栄転となった兄の勝成に代わり、旧領の「三河刈谷藩2万石」へ転封(後に加増して三河吉田4万石)

 

寛永19年(1642年)、「信濃松本7万石」に加増移封され、ここを代々受け継ぐことになります。

 

5代当主の忠幹は、才智に優れた英邁として期待された人物でしたが、在任5年の享保8年(1723年)に25歳の若さで死去。弟の忠恒が6代当主となりました。

 

まさか自分が当主になるなんて考えてもみなかった、酒色に溺れて奇行も多かったという忠恒は、大事件を起こしてしまいます。

 

享保10年7月28日(1725年)、8代将軍・吉宗に婚儀報告をするため、江戸城に登城して報告を済ませた帰り道。

 

「松の廊下」ですれ違った毛利師就(長府藩の世子)を、いきなり抜刀・攻撃。

 

後に語ったことによると、将軍が自分の領地を召し上げて師就に与えられると思ったので、殺害しようとした…と供述しています。狂気乱心だったわけですな。

 

師就は即座に応戦し、2人はそれぞれ取り抑えられて死者は出なかったのですが、忠恒は罰せられて蟄居を命じられ、そのまま没してしまいました。

 

信濃松本藩主の水野家は改易。しかし、若年寄の水野忠定(水野周防守家)の取り成しにより、叔父の忠穀(ただよし)が7000石を与えられ、大身旗本として家名は存続。

 

忠穀の子・忠友が10代将軍・家治の側近だったこともあって、覚えめでたく「三河大浜藩1万4千石」を与えられて大名に返り咲き。最終的には「駿河沼津3万石」に転封となっています。

 

家治といえば、田沼意次を重用した将軍。側近だった忠友も、意次の四男・意正を養子に迎えるなど(=水野忠徳)、意次にべったり(笑)。

 

おかげで幕府の常設ナンバー2集団「老中」にまで昇進することができました。

 

しかし、天明6年(1786年)に家治が49歳で亡くなると、11代将軍・家斉によって、意次が失脚。忠友は慌てて意正との養子縁組を廃するのですが、田沼一派だったイメージは解消できず、老中・松平定信によって老中を免ぜられてしまいました。

 

田沼意正との養子は解消したので、忠成を婿養子に迎えて、9代当主に。通称「出羽どん」。

 

ちょうど「寛政の遺老」(定信後継の老中)たちを煙たく思っていた家斉が、田沼派の流れを汲む側近を欲していたこともあり、忠成を大抜擢。老中となって幕政を主導したのですが、賄賂が横行するヒドい有様になったようです…「田沼恋し」も大概ですな(笑)

 

幕末の13代当主・忠寛は、井伊直弼に接近。「南紀派」として、慶福の将軍就任工作を担い、14代将軍・家茂が誕生すると、側用人として権勢を奮いました。

 

しかし、安政7年(1860年)に直弼が「桜田門外の変」で暗殺されたことで、忠寛も失脚。三河岡崎藩の本多家(忠勝の家)から忠誠を養子に迎え、隠居することになってしまいました。

 

幕末の困難期、忠誠は老中にまで進み、慶応2年(1866年)の「第二次長州征討」では総大将に任命されるのですが、その準備中に沼津城中で急死。

 

後を継いだ15代・忠敬の時代に明治を迎え、徳川宗家16代・家達が静岡藩を立藩するために、駿河沼津を明け渡して上総菊間藩に移封となっています。

 

 

水野周防守家

 

1. 周防守忠増 旗本(信濃国・丹波国7千石)
2. 肥前守忠位 大坂定番(1万2千石)
3. 壱岐守忠定 安房北条藩主(1万5千石)、若年寄
4. 壱岐守忠見 安房北条藩主(1万5千石)、若年寄
5. 壱岐守忠韶 安房北条藩主(1万5千石)
→上総鶴牧藩主(1万千5石)、若年寄
6. 壱岐守忠実 上総鶴牧藩主(1万千5石)、若年寄
7. 肥前守忠順 →上総鶴牧藩主(1万千5石)
→鶴牧藩知事

 

家祖の忠増(ただます)は信濃松本の初代藩主・忠清の四男。4代将軍・家綱の小姓として出仕。

 

忠増は信濃に5千石、丹波に2千石を知行した「大身旗本」となり、息子の忠位(ただたか)が摂津に5千石を加増され、1万2千石となったので大名の仲間入りを果たします(ただし城無し)。

 

3代当主・忠定は、久松松平家(桑名藩)から迎えられた婿養子。ちなみに久松松平家は、家康の異父弟の家系…つまり家康の母・於大の方(水野家の娘)と久松氏の子孫なので、水野氏の血筋繋がりでもあったりします。

 

享保10年(1725年)、信濃松本藩主(水野隼人正家)の忠恒が、「松の廊下」で毛利師就に斬りかかる刃傷沙汰を起こし、改易される事件が勃発。これに合わせるように「安房北条藩1万5千石」に封じられ、水野周防守家は晴れて「城持ち大名」となりました。

 

5代忠韶(ただてる)は、徳川四天王の1人・酒井忠次の子孫(山形庄内藩主家)。どうして養子に迎えられたのかは、よく分からず…。

 

忠韶の時代にあたる文政10年(1827年)、上総鶴牧に移封(これも理由はよく分からず)。そのまま幕末・明治を迎えています。

 

 

水野弾正忠家

 

1. 弾正忠分長 尾張緒川藩主(9820石)
→三河新城藩主(1万石)、大番頭
2. 備後守元綱 三河新城藩主(1万4千石)
→上野安中藩主(2万石)、大番頭 兼 奏者番
3. 信濃守元知 上野安中藩主(2万石)
→改易
4. 元朝 旗本(2千石)

 

家祖の忠分は、水野忠重の同母兄。詳しい生涯については不明なのですが、天正6年(1579年)に織田信長方として「有岡城の戦い」(荒木村重攻め)に参加し、戦死してしまったみたい。

 

長男の分長(わけなが)は、叔父の忠重に従属。「小牧長久手の戦い」「小田原征伐」「九戸政実の乱」などに徳川方として戦功をあげていきます。

 

慶長6年(1601年)、水野氏の所縁の地である「尾張緒川1万石」を与えられた後、慶長11年(1606年)には「三河新城1万石」に移封。

 

元和6年(1620年)、家康の11男・頼房が水戸藩に移ることになると、これに付けられて同行することになり、三河新城は長男の元綱が受け継ぐことになりました。

 

元綱は慶安元年(1648年)に「上野安中2万石」に移封となります。

 

3代当主・元知は、親戚の「水野監物家」から正室を迎えていたのですが、格式では正室の家が上位。元知は頭が上がらず、正室も見下すような態度を取っていたと言われてます。

 

一方、領国の安中城には、奥女中出身の八重という側室がおりました。彼女は全てを包み込んでくれる癒し系。正室とは正反対の女性でした。

 

元知が側室の八重を寵愛している…それは正室の知る所となり、正室は嫉妬とプライドを傷つけられた怒りで、なんと八重の始末を決意。

 

藩医と共謀して「八重が藩主を殺傷しようとしている」と濡れ衣を着せた上、生きたまま九十九川に沈めてしまったのでした。
 

元知は、もう激怒。寛文7年(1667年)5月23日、正室に斬りかかる夫婦喧嘩をおっ始めるのですが、正室が応戦したために、両者ともに負傷したまま引き離されて終了。全てが嫌になった元知は自害を図るのですが、失敗して生き残ってしまいます。

 

武士たるものが女に斬りかかった挙句に仕留めることすら出来ず、さらに自害に失敗し果てる。なんたる不祥事。

 

安中の家臣たちは、この不評を何とかするべく、元知を「乱心した」として幕府に届け出。元知は改易され、水野弾正忠家は元知と正室の子・元朝を祖とする旗本として存続していくことになったのでした。

 

 

水野新宮家

 

1. 出雲守重央 新宮城主(3万5千石)、付家老
2. 淡路守重良 新宮城主、付家老
3. 土佐守重上 新宮城主、付家老
4. 淡路守重期 新宮城主、付家老
5. 大炊頭忠昭 新宮城主、付家老
6. 筑後守忠興 新宮城主、付家老
7. 飛騨守忠実 新宮城主、付家老
8. 対馬守忠啓 新宮城主、付家老
9. 土佐守忠央 新宮城主、付家老
10. 大炊頭忠幹 紀伊新宮藩主
→新宮藩知事

 

重央(しげなか)は、忠分の三男。

 

兄の分長が、家康の11男・頼房(御三家・水戸藩祖)に仕えたのに対し、10男・頼宣(御三家・尾張藩祖)に仕えることになりました。

 

慶長8年(1603年)、佐竹氏に代わって常陸国に入っていた信吉(家康の五男…頼宣の異母兄)が亡くなると、頼宣が「常陸水戸藩」に入封。傅役である重央も水戸藩に入り、藩政を司っています。

 

慶長14年(1609年)、頼宣が「駿河国駿府藩」に転封。この時、遠江浜松藩主・松平忠頼が水野忠胤(水野市正家)に殺害される事件が起き、改易となった忠頼に代わって、重央が浜松を統治することになりました。

 

元和2年(1616年)、4月17日に家康が亡くなると、頼宣は秀忠によって「紀州」に転封。一説には「私(秀忠)は父(家康)が直々に配した頼宣さえも異動させることができるほど権威がある」ことを知らしめるため、転封になったと言われています。

 

重央は「附家老」として「紀伊新宮藩3万5千石」を与えられます。附家老という身分上、大名としての資格を失うことになり、幕府からは「陪臣」として見られることになりました。

 

重央の子・重良は「将軍家の直臣として扱ってほしい…」と運動したのですが、秀忠や家光の説得もあって、以降「水野新宮家」は、大名並みの3万5千石を領しながら「紀州徳川家の付家老」の地位に甘んじる立場で続くことになります。

 

幕末に差し迫った時代の9代当主・忠央(ただなか)は、才覚も野心もひとかどの人物。

 

熊野産の良質な木炭を廻して、莫大な利益が懐に流れ込む仕組みを構築し、潤沢な資金源を元に政治工作を展開する豪腕ぶりを発揮。

 

手始めに「大奥に子女を入れることができるのは1万石以下の旗本の娘に限る」というしきたりを無視して、妹のお琴を「大奥」に送り込み、12代将軍・家慶の寵愛を得ることに成功。

 

こうして切り開いた「大奥」の影響力を利用して、自分の歌道の弟子でもあった彦根藩主・井伊直弼を「大老」に就任させると、紀州藩主だった慶福を14代将軍に推戴することに成功(=家茂)

 

吉田松陰は「関東に二奸あり 曰く閣老堀田備中守 曰く紀伊付家老水野土佐守なり」と名指しして警戒しており、一説には忠央の暗殺計画を練っていたとも言われています。

 

順風満帆に進んでいた忠央の野望は、安政7年(1860年)「桜田門外の変」で直弼が暗殺されたことで頓挫。「一橋派」「反井伊派」が勢力を盛り返す中、忠央は隠居させられた上で、領地の新宮に幽閉されるハメになってしまったのでした。

 

跡を継いだ10代当主・忠幹(ただもと)は「御三家」紀州殿として、幕末の動乱期に存在感を発揮。「第二次長州征伐」では幕府軍の先鋒を務めて抜きんでた進軍を見せ、撤退戦ではしんがりを務めて長州軍の進撃を阻止。「鬼水野」と呼ばれ武名を轟かせました。

 

明治を迎えると「紀伊新宮藩」を立藩することを許され、数年間だけですが、「水野新宮家」は紀州藩から独立を果たし、一国の主となりました。

 

忠幹の息子・忠宜(ただよし)は陸軍に属し、明治35年(1902年)の「八甲田雪中行軍遭難事件」で遭難死しています。

 

 

水野監物家

 

1. 監物忠元 下総山川藩主(3万5千石)、西丸書院番頭
2. 監物忠善 下総山川藩主
→駿河田中藩主(4万5千石)
→三河吉田藩主
→三河岡崎藩主(5万石)、西丸書院番頭
3. 右衛門大夫忠春 三河岡崎藩主、奏者番兼寺社奉行
4. 豊前守忠盈 三河岡崎藩主
5. 和泉守忠之 三河岡崎藩主(5万石→6万石)、老中
6. 監物忠輝 三河岡崎藩主
7. 監物忠辰 三河岡崎藩主
8. 和泉守忠任 三河岡崎藩主
→肥前唐津藩主(6万石)、老中
9. 左近将監忠鼎 肥前唐津藩主、奏者番
10. 和泉守忠光 肥前唐津藩主
11. 越前守忠邦 肥前唐津藩主
→遠江浜松藩主(6万石→7万石)、老中
→羽前山形藩主(5万石)
12. 和泉守忠精 羽前山形藩主、老中
13. 和泉守忠弘 羽前山形藩主
→近江朝日山藩主

 

忠守の三男・忠元(ただもと)を祖とする系統。江戸三大改革の3番目「天保の改革」を手掛けた、水野忠邦の実家。それ以外にも、3人の老中を輩出しています。

 

忠元は、幼少時より徳川秀忠に側近として仕えておりました。ちなみに秀忠の方が3歳年下。

 

「大坂冬の陣(1614年)」「大坂夏の陣(1615年)」に参戦し、元和2年(1616年)に「下総山川3万石」の領主となり、大名の仲間入り。

 

秀忠の日光社参の饗応を担当し、近江国蒲生郡5千石を加増されて3万5千石となっています。

 

寛永12年(1635年)、2代当主・忠善(ただよし)の代に1万石加増され「駿河田中藩4万千石」に転封。その後「三河吉田藩」を経て「三河岡崎藩5万石」に移されます。

 

岡崎藩は「御三家」の1つ「尾張徳川家」のお隣。ここを仮想敵国として軍備増強に励んだと言われています。

 

5代当主・忠之(ただゆき)の時代となった、元禄15年12月15日未明(1702年)、「赤穂浪士討入事件」が勃発。

 

浪士たちをどう処分するか、相当に紛糾する事態となり、身柄を預ける四家のうちの1つに、水野監物家が選ばれています(他は熊本藩細川越中守家、長門長府藩毛利甲斐守家、伊予松山藩松平隠岐守家)

 

ちなみに預かった浪士は、間重治郎、奥田貞右衛門、矢頭右衛門七、村松三太夫、間瀬孫九郎、茅野和助、横川甚平、三村次郎左衛門、神崎與五郎の9人。

 

余談過ぎるので、それぞれについて語るのはやめておきますが(別の機会にねw)、水野家による赤穂浪士の取り扱いは丁重で、世評もよかったと言われています。

 

「細川の 水の流れは清けれど ただ大海の沖ぞ濁れる」

 

「細川」と「水野」は清かった(=厚遇した)けれど、「毛利(大海=甲斐守)」と「松平(沖=隠岐守)」は濁っていた(=冷遇した)というわけですね。

 

享保元年(1716年)、「家康-秀忠-家光」から続く徳川宗家が、7代将軍・家継が8歳で夭折したことにより断絶。

 

御三家の1つ・紀州徳川家から8代将軍・吉宗が招かれると、忠之は老中となって、吉宗の「享保の改革」を支えることになりました。

 

7代当主・忠辰(ただとき)は、逼迫する藩財政を立て直すために大改革を実施。しかし保守派の家臣たちに妨害されて、武力衝突寸前にまで溝が深まってしまいます。

 

結局、忠辰が折れる形で事態を収め、改革は頓挫。やる気をなくした忠辰は遊興に耽るようになり、母が諌死を遂げたり、財産を溶かして遊女を身請けするなど、散々な事件が連発するようになります。

 

宝暦2年(1752年)、重臣たちは「乱心した」として「主君押込」に踏み切り、婿養子の忠任に家督を継がせたうえで、忠辰は幽閉されてしまいました(「水野騒動」)

 

こうして8代当主となった忠任は、宝暦12年(1762年)に土井家(肥前唐津藩)、松井松平家(下総国古河藩)との「三方領地替え」によって「肥前唐津藩6万石」へ転封となっています。

 

ところで、唐津藩には「長崎見廻役(長崎警備)」の役目があるため、藩主は幕閣に就くことができないという不文律がありました。

 

11代当主・忠邦は「唐津にいると自分の出世に響く」ことがガマンできなかったみたい。

 

さっそく、自分が幕閣になれる藩主になれるよう、巨費を投じて政治工作を開始。文化14年(1817年)、家臣の諫言を押し切って浜松藩への転封を実現。

 

実封25万3千石の唐津から、実封15万3千石の浜松へという、減封になってでも幕閣に就きたかったと言うのは、忠邦の執念を見る思いがありますな。

 

忠邦は親戚筋の老中・水野忠成(水野隼人正家)に取り入って、11代将軍・家斉のもとで頭角を現し、「大坂城代」「京都所司代」を歴任。文政11年(1828年)念願の「西の丸老中」の仲間入りとなりました。

 

天保10年(1839年)に老中首座となると、「天保の改革」へと着手。

 

しかし、娯楽の禁止や農村への人返しなど、過激で一方的な政策は庶民や各藩の恨みを買うだけ。財政の立て直しもままならず、大失敗。

 

忠邦は2万石を減封されて「出羽山形藩5万石」に懲罰転封。息子の忠精(ただきよ)に家督を譲らせられ隠居に追い込まれてしまいました。

 

12代当主・忠精は、幕末も押し迫った文久2年(1862年)に老中に就任。横須賀造船所の建設を推進したとも言われています(小栗上野介と何を語ったのか、聞いてみたいw)

 

慶応4年(1868年)、家督を譲っていた息子の忠弘と共に上洛している最中、「戊辰戦争」が勃発。2人が不在の国元は「奥羽越列藩同盟」に加盟し、新政府軍と対立してしまいます。

 

「山形に戻って新政府に従うよう説得したい」と願い出るのですが、許可されることなく、結局は藩主・前藩主ともに不在のまま、山形藩は明治新政府に降伏。

 

一時謹慎処分を受けた後、明治3年(1870年)に「近江朝日山藩」に移封となり、忠弘は朝日山県知事も務めています。

 

 

 

というわけで、今回は以上。

 

いつも古代史ばっかりやってるブログですが、たまに近代史もやってみると、新鮮で面白いですなw

 

しかし、関連とはいえ、7家を一気に紹介するのはさすがに無茶だったかな…(^^;

 

長文御容赦くださいませー。