大河ドラマ『光る君へ』第25話「決意」見ましたー。

 

 

ね?

 

やっぱりギャグシーンだったでしょ?

 

先週の宣孝のプロポーズシーン。

 

 

歓迎会で飲めや歌えやの大騒ぎの中に恋人ムーブみたいな雰囲気つくって、弟くんに違和感炸裂な顔をさせたり。

 

道長に「為時娘と結婚しましたーっ」って報告して顔色をうかがったり。

 

「不実同士おあいこさま」と押し倒したら日食になったり(笑)

 

今週もギャグシーン満載。

 

 

やっぱり、先週のアレはネタシーンだったw

 

 

…………と思ったら、今週のSNSの反応は、

 

「全力でスケベじじいの表情できるのすごい」

「いやらしい」

「絶妙にキモい」

「時々スーパーかっこいい」

「佐々木蔵之介だから許される」

 

…なんていう絶賛から拒絶まで津々浦々。

 

 

そ、そーなんスか…。

 

…。

 

……。

 

マジでギャグではないシーン…なんです…??

 

なんだろう。

 

どうしてもギャグシーンにしか見えない、ワタクシにしか受容できないニオイが、どこかから発生している…のかな??

 

このニオイを無視できるようにならないと、メジャーな解釈と永遠に交わることが出来なさそうな気がする(-"-;

 

それは、この脚本家先生の恋愛描写との相性の悪さなのか…?

 

まぁ、そもそも恋愛ドラマが超絶的に理解できないタチなので、こっち方面の感想や分析は、ワタクシは止めておくのが無難かもしれない…(トホホ)

 

 

というわけで、ソコ以外で(笑)気になった所を、挙げていきたいと思いますw

 

 

 

◆越前和紙と光の為時

 

冒頭、越前和紙の紙漉き工場見学(?)からスタート。

 

この紙漉き職人…NHKの「北陸スペシャル×大河ドラマ「光る君へ」越前紀行」で出て来た、モノホンの職人さんだ…扮装ご苦労様でございます(笑)

 

(「出演者」ではなく「資料提供」でクレジット入りなんですね)

 

寒い冬に紙漉きをやっていたのは、きめ細かい和紙を作るには寒さと冷たい水が必要だったから。紙漉きも厳しい職人仕事ですね…。

 

こうして作られた越前和紙は、租税の一部として納められていたので、国府に積み荷として届けられることに。

 

全部で2000束。「高過ぎるなぁ」と言いながら数えてみると、2300束ある…。

 

「これは賄賂か」と、すぐに気が付いた為時は、即座に生産者に返却しようとするのですが、「それは困る」と言われてしまいます。

 

国司は任期が4年。為時は良くても、次の国司がそうとは限らない…。

 

「このままで」という願いに返す言葉がなく、為時は黙るしかないのでした。

 

「宣孝どのだったら…」そうですね。これを売り捌いて金銭にしてから民に還元する…という手も、ないではなかったかもしれないですね。

 

庶民の紙漉き職人では販売ルートが中々ないかもしれないけれど、これを意識して探すなら、国司ならいい値段で捌けたかもしれず。

 

「清濁併せ呑む政治家」というのは、こういう局面でも民のためになることをできる…のかもしれないですねぇ。

 

 

◆人生衝撃エピソードTOP3

 

越前から、はるばる帰って来たまひろ。

 

すると、惟規の乳母に「いいひと」ができておりましたw

 

「私の人生で三番目の驚き」と言ってましたけど、えっ…少な過ぎません?

 

トップ10くらいじゃなくて?

 

  • 母が目の前でミチカネにコロされた(第1話)
  • 三郎は日本有数の家柄の子(第4話)
  • 三郎はミチカネの弟(第4話)
  • 倫子の頼みで五節の舞姫をやらさせた(第4話)
  • 倫子が道長の北の方になった(第12話)
  • 直秀が盗賊だった(第9話)
  • 直秀が鳥辺野であっさりコロされた(第9話)
  • 石山寺で『蜻蛉日記』の作者に会った(第15話)
  • 一条天皇と面会(第19話)
  • 為時が兼家の雇われスパイだった(第3話)
  • 為時の教え子が帝になった(第4話)
  • 花山天皇が突然退位・出家。父が無職に(第10話)
  • 為時に妾がいた(第10話)
  • 為時が従五位下を賜った(第19話)
  • 為時が淡路守となった(第20話)
  • 為時が越前守に国替えとなった(第20話)

 

…ぱっと思いつくだけでこれだけあるけど、「いとにいい人が出来ていた」より上にあるのは、本当に2つなんです?感覚がマヒしてません?(笑)

 

「歌が上手い男がよいとか、見目麗しい男がよいとか、富がある男がよいとか、話の面白い男がよいとか言いますが、私は何も要りません」

 

「私の言うことを聞くこの人が尊い」

 

そんな価値観を耳にして、まひろの表情がざわつきます。

 

男は才能でも外見でも財産でもセンスでもなく、関係性。

 

これだ…!!とは思わなかったのは、このあと宣孝と一緒になることからもお察し…?

 

あるいは、あの時に交わした約束を果たすべく頑張っている道長くんこそが「私の言うことを聞くこの人が尊い」だったなぁと、気づいた顔だったんでしょうか…?

 

 

◆長徳4年…赤い悪魔

 

紫式部が宣孝と結婚したという、長徳4年(998年)が到来。

 

一条天皇の御前で正月慶賀の挨拶を終えた安倍晴明が、道長の諮問を受けます。

 

奇しくも、勝手に「元カノ貰った宣言」をしていった宣孝と、同じ赤い服を着ています(笑)

 

 

「これから暫くは凶事が続きましょう」
「地震か疫病か火事か日食か嵐か、はたまた大水か」
「すべてにございます」

 

ガーン…という顔になる道長。


「お宝をお使いなされませ」

「よいものをお持ちではございませぬか」

 

「何のことだ?」となる道長に、「よく…よくお考えなされませ」あえて直言は避ける晴明。

 

「はやく娘(彰子)を入内させて(中宮に夢中で帰ってこない)帝の心を取り戻しなさいませ」

 

素直に解釈すれば↑こういうことなんでしょうけど、この直後くらいに隆家がやって来て「また来ますんで~」ムーブかましてくれたので、使えるお宝ってコイツのことなのかな?とも一瞬思ったりして(笑)

 

あと、まひろも「使えるお宝」かな…とか思ったけど、『源氏物語』書いてないし、まだ「使えない原石」ですかね…。

 

歴史書『日本紀略』でも、長徳4年は疫病が流行ったことが記されています。

 

長徳四年 天下自夏至冬 疫瘡遍発 六七月間京師男女死者甚多 下人不死 四位己下人妻最甚 謂之赤斑瘡 始自主上 至于庶人 上下老少 無免此厄

 

疫病は「赤斑瘡(あかもがさ)」だったようですね。

 

「赤斑瘡=麻疹(はしか)」は、実は「疱瘡(天然痘)」より死亡率が高い感染症。

 

「疱瘡」はアバタができるので「器量定め」と呼ばれたのに対し、「赤斑瘡」は「命定め」と呼ばれたとかなんとか…。

 

今回は疫病の描写はなかったですが、大水…まひろの家が水浸しになった様子は描かれておりました。

 

まひろの家、鴨川のすぐ近くですもんね…。

とんだタイミングで帰京したものです(^^;

 

 

◆『枕草子』講座(笑)「二月のつごもりころに」

 

定子・伊周が同席する中、一条天皇に対して笛の音を献上する公任。

 

すると一条天皇から、清少納言に無茶振りした公任…という話を蒸し返されます。

 

公任が「すこし春ある ここちこそすれ」と詠んだ下の句に対し、清少納言が「空寒み 花にまがへて 散る雪に」と上の句を返した…というエピソード。

 

これは『枕草子』の「二月のつごもりころに」の章段ですねw

 

第19話「放たれた矢」の感想ブログで「一条天皇が昼間っから定子と"いたしていた"ことがあり、『枕草子』にも書かれている」として紹介したことがあるのですが、まさか本編にブチ込んでくるとは思わず…先行してしまいました(笑)

 

前回は、あんまり関係なかったのでさらっと触れるだけでしたが、今回はちと丁寧に講義してみますw


「二月のつごもりころに」は、二月の終わり頃の、ある風がとても強くて暗い曇天の雪が少し降っている日、参議(宰相)だった頃の公任が突然、清少納言に「下の句」を送ってくるところからお話が始まります。

 

二月のつごもりころに 風いたう吹きて 空いみじう黒きに 雪すこしうち散りたるほど 黒戸に主殿司とのもづかさ来て かうてさぶらふ と言へば 寄りたるに これ 公任の宰相殿の とてあるを見れば 懐紙ふところがみ

 

すこし春ある ここちこそすれ

 

とあるは げに 今日のけしきにいとようあひたるを これが本は いかでか付くべからむと 思ひ煩ひぬ  誰々か と問へば それそれ と言ふ 皆いと恥づかしき中に 宰相の御答へを いかでかことなしびに言ひ出でむと 心一つに苦しきを 御前に御覧ぜさせむとすれど 上のおはしまして御殿籠りおほとのごもりたり 主殿司は とく とく と言ふ げに 遅うさへあらむは いと取り所なければ さはれとて

 

空寒み 花にまがへて 散る雪に

 

と わななくわななく書きて取らせて いかに思ふらむと わびし これがことを聞かばや と思ふに そしられたらば聞かじとおぼゆるを 俊賢の宰相など なほ内侍に奏してなさむ となむ定めたまひし とばかりぞ 左兵衛のかみの中将にておはせし語りたまひし

 

「黒戸に」というので、場所は黒戸御所…「清涼殿」のすぐ近くでの出来事。

 

定子が内裏から退出したのは長徳2年3月4日(996年)なので、それより前かな…といった印象。

 

文中に「俊賢の宰相」も登場しますが、源俊賢が参議に任ぜられたのは、長徳元年8月(995年)

 

なので、単純に計算すると時期は長徳2年2月末…ちょうど「草の庵」のお話の後ぐらい…ということになりそうです。

 

草の庵を誰かたづねむ(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12854942872.html

 

ということは、「草の庵」の話を斉信から聞いた公任が、清少納言の才覚に興味を持って、「下の句」を送って来た…と解釈することもできますね。

 

(リンク先でも述べてますが「草の庵」には公任が重要に関わっています)

 

ともあれ、公任が送って来た「下の句」は、これに「上の句を返してね」という挑戦。

 

「草の庵」は「上の句」を送って「これの続き(下の句)は何でしょう?」というクイズだったので、その反対をやっていることになりそうですね。

 

その送られてきた公任の「下の句」が、これ。

 

「すこし春ある ここちこそすれ」

 

ドラマの中で一条天皇が「白楽天の南秦の雪か」と感心していた通り、白楽天の『南秦雪』が元ネタになっています。

 

 

『南秦雪』白居易

往歳曾為西邑吏

慣従駱口到南秦

三時雲冷多飛雪

二月山寒少有春

我思旧事猶惆悵

君作初行定苦辛

仍頼愁猿寒不叫

若聞猿叫更愁人

往歳おうさいかつ西邑せいゆうと為り(先年に私は西邑の役人となり)

駱口らくこうより南秦なんしんに到るに(駱口から南秦へ出かけたことがしばしばあった)

三時さんじ雲冷やかにして多く雪を飛ばし(春夏秋にも雲は冷え冷えとして雪を多く降らし)

二月山寒うして少しく春あり(2月の山は寒そうで春の気配は少ない)

我は旧事きゅうじを思うて惆悵ちゅうちょう(私は先年の恨み悲しみをまだ忘れられないが)

君は初行しょこうして定めて苦辛くしんすらん(君は初めてその地を旅して苦しくつらい思いをしているだろう)

さいわい愁猿しゅうえん寒うして叫ばず(しかし寒くても猿が憂いて悲しい叫びを上げないのは幸いで)

し猿の叫ぶを聞かば更に人をうれへしめん(もしあの猿が叫ぶのを聞いたら、さらに君を悲しませるだろう)

 

 

第4句「二月山寒少有春(二月山寒うして少しく春あり)」=「すこし春ある ここちこそすれ」

 

ならば、その上の句である第3句「三時雲冷多飛雪(三時雲冷やかにして多く雪を飛ばす)」を和歌風に翻訳して返すのが、このクイズの模範解答。

 

ただし、公任は「春の気配は少ない(少有春)」を「春の気配が少しある(少し春あるここち)」と、微妙に意味を変えて寄越してます。

 

そこで「少し春あるここち」を踏まえるために「花」を添えるセンスを発揮して、「空寒み 花にまがへて 散る雪に(寒い空、花びらが舞うように雪が散って)」と返したのでした。

 

踏まえている漢詩の知識だけでなく、該当部分を和歌に翻訳するだけでなく、微妙に変えて来た箇所までを理解して、添えて返す技術までも求める高等クイズ。

 

それに応える中々の上等テクニック。さすが清少納言w

 

「これを使って、定子のサロンの華やかさをアピールしよう」と言い出す伊周。

 

中々のプロデュース力。清少納言もまんざらでもなさそうw

 

『枕草子』エピで盛り上がっている所に、「左大臣様がお見えです」と、急な来訪者が告げられます。

 

途端に暗い顔になる一条天皇。

表情が硬くなる公任。

ああ、ついに…という顔をする定子。

さっと席を立って、上位者の出迎えスタイルを取る清少納言。

 

雰囲気ががらりと一転したところで、道長が登場し、辞意を表明…。

 

凍り付く一同。

 

「おやおや」という顔をする伊周。

 

(中関白家兄弟、揃いも揃って流罪喰らってから感情がおかしいw)

 

引き留める一条天皇を振り切って、道長は退去。

 

だんだん帝と道長の間に溝が出来てきていますねぇ…。

 

 

◆君よ君よ

 

鴨川の治水が急務だというのに、帝が「職御曹司」の中宮のもとに籠って政治を疎かにしている!

 

しかし会って頂けません…というのを、なんとか繋げ!と無茶苦茶な命令を受けて奔走する「頭の弁」行成。

 

詮子を頼っては…病で動けない身であることを知り。

「職御曹司」を訪ねては…「こんな所まで追いかけて来るな!」と帝に譴責され。

 

やめて!行成のHPはもう少ないわ!このままだと死んじゃう!

 

でも、忙しいのが嬉しそうでもあり…やっぱ頭の弁は行成よな。

 

6年もやらせた道長の気持ち、よく分かるよく分かる(笑)

 

 

一方、まひろが軒端で、「白楽天」を読書。

 

「君の門は九重閉ず。君の耳はただ聞こゆ堂上の言。君の眼は見えず、門前の事」

 

これ、白楽天の『采詩官』なんだそうです。

 

 

『采詩官』白居易

采詩聽歌導人言

言者無罪聽者誡

下流上通上下泰

周滅秦興至隋氏

十代采詩官不置

郊廟登歌讃君美

樂府豔詞悦君意

若求興諭規刺言

萬句千章無一字

不是章句無規刺

漸及朝廷絶諷議

諍臣杜口爲冗員

諫鼓高懸作虚器

一人負扆常端默

百辟入門兩自媚

夕郎所賀皆徳音

春官每奏唯祥瑞

君之堂兮千里遠

君之門兮九重閟

君耳唯聞堂上言

君眼不見門前事

貪吏害民無所忌

奸臣蔽君無所畏

君不見厲王胡亥之末年

群臣有利君無利

君兮君兮願聽此

欲開壅蔽逹人情

先向歌詩求諷刺

詩をり歌を聽きて人の言を導く(それは詩を集めて歌を聴き人々の本音を届ける者たち)

言う者は罪無く聞く者はいまし(言うものに罪はなく聞く者は戒めとしていた)

下より流れ上に通じ上下やす(下者から上者へと伝わり治世は安泰となった)

しゅう滅びしん興りて隋氏に至る(周が滅亡し秦が新興して隋へと至った)

十代采詩官さいしかんを置かず(この十代の間、采詩官が置かれることはなかった)

郊廟こうびょうの登歌は君の美をさん(堂上の歌は天子を褒め称えるものばかり)

樂府がふ豔詞えんしは君の意をよろこばしむ(楽府で歌われる艶詞は天子を喜ばせるものばかり)

興論きょうゆ規刺きしの言を求めば(諷喩批判の言句をこの中から探そうとしても)

萬句ばんく千章せんしょうに一字も無し(万句・千篇の歌詞たちのどこにも1文字さえ見つけることはできない)

れ章句に規刺きし無きにあらざるも(もともと諷刺を持った歌詞はあったのだ)

ようやく朝廷の諷議を絶つに及ぶ(いつの間にか朝廷が閉ざさせてしまったのだ)

諍臣そうしん口をふさぎて冗員じょういんとなり(諌めるべき臣は口を閉ざして名ばかりの官となり)

諫鼓かんこ高く懸けて虚器きょきとなる(諌めるべき太鼓は高い所に掛けられて放置されたまま)

を負いて常に端默たんもく一人いちにん(天子は豪華な屏風を背にして、ただ1人ぼっち)

百辟ひゃくへき門に入りてふたつながら自ら(百官は朝廷の中では媚びへつらうだけの存在)

夕郎せきろうする所皆徳音みなとくいん(黄門郎が言葉を発するのは天子が恩赦を施す勅命のみ)

春官しゅんかんつねそうするは唯祥瑞しょうずい(礼部尚書が上奏するのは吉報ばかり)

君の堂は千里遠く(天子の御堂は人民から千里も遠く)

君の門は九重きゅうちょう(天子の御堂は九重に門が閉ざされて固く開かず)

君の耳は唯だ堂上の言を聞き(天子の耳に入るのは朝廷の中の話だけ)

君の眼は門前の事を見ず(天子の目に宮門の外の様子が届くことはない)

貪吏どんり民を害して忌む所なく(貪欲な官吏は何に憚ることなく人民を痛めつけ)

奸臣君をおおいておそるる所なし(ずる賢い家臣は平気で天子を世間知らずにする)

君見ずや厲王れいおう胡亥こがい末年(周の厲王と秦の胡亥の最期を天子はご存じないのですか)

群臣に利有り君に利無し(特権階級なら利があるでしょうが、責任ある天子には利がないではないですか)

君や君や願わくは此れを聽け(天子よ天子よ、どうかこの歌に耳を傾けてください)

壅蔽ようへいを開きて人情に逹せんと欲すれば(その耳をふさぐものを取り去り、人民の本当の思いを知るべきです)

ず歌詞に向かひて諷刺を求めよ(そのためにはまず人民の詩歌の中に諷刺の言葉を探して頂きたいのです)

 

 

ちなみに厲王というのは春秋時代の西周の10代皇帝(紀元前9世紀頃?)で、暴政と恐怖政治で民が批判を言わなくなったのを「何も言わなくなったw」と喜んだという王様。

 

「言わなくなったのではありません。言えなくなっているのです。民の口をふさぐのは、水を塞いでせき止めるくらい危険です」と臣下が諌めるのを聞かず、暴動が起きて首都から逃亡するハメになっています。

 

胡亥は、秦の始皇帝の子で、二代皇帝。奸臣・趙高の操り人形。

 

「鹿を馬と呼び、これを批判した者は難癖をつけて全員処刑したら、誰も逆らわなくなった」という「馬鹿」の語源を演じた主従。「諷刺できる社会を作る」善政からは最も遠いところにいる王様の1人です(-"-;

 

一条天皇が定子のもとに入りびたり、道長が辞表をチラつかせてまで「政治を顧みて頂きたい!」と諌めた、まさにそれを指している文言を、読んでいたことになりますね。

 

 

ところで、この場面。まひろが読んでいるページをよくよく見てみると、「厲王」「胡亥」に続いて「煬帝」の字が見えるんですよね…。

 

 

ワタクシが探した限りだと、「君不見厲王胡亥之末年」に「煬帝」が入っているものは見つけられなかったんですが…当時の文章には「煬帝」って字も入っていたと、判明でもしたんでしょうか?

 

 

ともあれ、「天子の堂の門は九重に扉が締められ、天子の耳に民の声は届かず、天子の目に民の姿は映らない」は、まさに今の一条天皇そのものですな。

 

あんなに「玄宗にならない」と誓っていたのに、いつの間にか「楊貴妃を追う玄宗」になっていることの…。

 

そして『南秦雪』は見抜いたけど『采詩官』には辿りつかなかった…。

 

『長恨歌』が出てくる前に正気に戻れるのでしょうか…?

 

 

◆おかえり道長!

 

道長と倫子の子たちが、帰って来た道長を出迎える形で登場。

 

わーいw子役がいっぱいw子役大好きw

 

子役のうちに姿が見れると、年齢差みたいなもの感じられてすごくいいですねw

 

というわけで、さっそく確認して、それぞれ名前を振ってみると、こんなかんじ。

 


長男:藤原頼通(田鶴)@小林篤弘さん
次女:藤原妍子@原 春奈さん
五男:藤原教通(せ君)@加藤侑大さん


2024年大河ドラマ『光る君へ』より

 

この3人は配役が発表されていたので、どれが誰なのか分かりやすくて良かったですw

 

そうでなかったら、彰子を探して迷宮入りしていたかも…(彰子はもう大人バージョンの設定かな?)

 

人生の晩年にかけて関係が微妙になっていってしまう頼通と教通が、一緒に道長に抱っこされているという図。まさにサービスカットですね、これは。

 

凜としたかんじの頼通と、愛嬌たっぷりの教通。このまま大きくなって欲しい…。

 

そして、彰子おねーちゃんの代わりに、次女の妍子が顔を見せておりますw

 

帰ってくる道長を見るなり、ぱっと笑顔が咲いて、全力で駆けよって、抱っこ一番乗りをゲットw

 

明るくて派手好きだったという、妍子のイメージが幼少期から表れているかのようですなw

 

 

この図と、以前(22話)に映った明子所生の子供たちを合わせると、現在は7人のお子様の姿が確認できますねw

 


『光る君へ』第22話「越前の出会い」より

 

御覧の通り能信(四男)は赤ん坊でしたが、弟の教通(五男)があの通りの大きさになってますからね。

 

今は上図の頼宗くらいの成長ぶりになっていますかね(その御姿、放送で見せてくれてもいいのよ)

 

 

◆長徳4年…伏線の無駄遣い

 

お話は長徳4年(998年)に移ろい…ここでは、劇中には出てこなかった出来事を、いくつか。

 

 

長徳4年2月11日、尊子が一条天皇の元に入内しています。

 

尊子って誰…?というと、あの道兼の娘。

 

 

 

初めてこの家族が出た時は、もしや尊子入内の伏線かな…?とワクテカしたんですが、全くやらないという…(涙)

 

尊子は永観2年(984年)生まれなので、御年15歳。

 

ともあれ、入内情報が出なかったので今後も出ないでしょうから(泣)、先のこともご紹介すると、一条天皇との間に子はなかったもよう。一条天皇の崩御後は、藤原通任のもとに再嫁しています。

 

通任は、前回に登場した、三条天皇が愛する娍子の、同母弟。

 

 

三条天皇の側近となる人物なので、これから出て来る…と思いたい、小一条流藤原氏の人です。

 

系図で見てみよう(藤原氏/小一条流)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12855963457.html

 

残念ながら、尊子との間には、こちらも子は産まれなかったので、その意味でも通任頼りでも尊子は登場するかどうか微妙なん…。

 

 

長徳4年に子どもに恵まれた人物には、具体的な日付は不明なのですが、藤原綏子(やすこ)がおりました。

 

綏子は『光る君へ』には姿も名前さえも、まーーーったく出てきていませんが、実は兼家の娘。

 

道長の8歳年下の異母妹(ということは伊周と同い年)

 

居貞親王(のちの三条天皇)の「最初の御息所」様であらせられます(ということは、2歳年上の姉さん女房)

 

綏子に子が出来たということは、居貞親王の新たな子、敦明親王の弟か妹ができたわけで、これはめでたい…と思いきや。

 

なんとこれが、居貞親王には心当たりがないご懐妊(!)

 

本当のお父さんは、源頼定(よりさだ)。

「安和の変」のきっかけとなった、為平親王の息子でした。

 

コウメイの罠(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12836162032.html

 

実は頼定と綏子、長徳元年(995年)頃から密通を重ねていたのです。

 

居貞親王に調査を依頼された道長が確かめてみると、懐妊が事実であることが判明。

(出会うなり、いきなり脱がせて乳首をつまみ、母乳が出るのを確認…綏子は泣いてしまったという…)

 

居貞親王は側近に「頼定を蹴り殺してやりたいと思ったが、祖父が悲しむと思い留まった」と語った…と伝えられています(居貞親王も頼定も、村上天皇の孫)

 

こうして里居へ下がった綏子は男子をもうけ、異母兄姉の道長や詮子たちの庇護下で暮らすことになり(おそらくは寵愛を受けられない内裏よりは楽しく・笑)、生まれた子は後に出家して比叡山の僧侶になった…と推定されています。

 

ともあれ、この密通相手だった頼定は、実は『光る君へ』に名前だけ登場しています。

 

それは第19話「放たれた矢」で、名スパイ行成(笑)が持ってきた「公家たちの弱み情報」のうちの1人です。

 



源頼定
有密通斎宮之疑

 

「頼定は斎宮と密通している疑いがある」。

 

「斎宮との密通の疑い」というアバンチュールなドラマ的ネタの元ネタは、この歴史的出来事だったのではなかろうか。

 

また、頼定は一条天皇の崩御後、今度は一条女御だった元子とねんごろになっています。

 

元子って誰?というと、顕光の娘。大河でも、倫子が開いた「管弦の会」に招かれて、でも天皇の寵愛は得られなかった…という下りがありましたね。

 

頼定、そっちでは登場するでしょうか?あやしいな…ナレで終わりが精々か?

 

ここで登場しないと、もう登場しないよ…?伏線張っておきながら登場はせず…ということになったら悲しいので、この情報を置いておきます…。

 

このパターン、多すぎない??

 

 

あと、関連にもなりますが、頼定の5歳年上の同母姉が、婉子女王。

ご存知、実資の2人目の「北の方」様。

 

実資の黒いおなかをグニュグニュさせるのが趣味(笑)

 


彼女、この長徳4年の9月17日にご逝去。

 

出番は何度かありましたが、知らぬ間にクランクアップされていたんですね…。

 

27歳没。彼女と実資の間には子はいなかったようです。

 

 

 

というわけで、今回は以上。

 

 

平安時代は「婿取り妻問い婚」ということは、まひろは結婚してもあの家から離れずに暮らすんですよね。

 

ということは、宣孝はあの家に通うのか…。

 

家族も増えてしまっているし、色々な意味で大変そうだ(笑)

 

ワタクシ平安時代の結婚事情はよく分からないのですが、これって道長も「通える」ということも意味するのかな?それとも、結婚していると「披露」「認知」されたからには、通うことはできないのかな。できないとしたら、それはマナーで?それともルールで?

 

なんだかSNSで「まひろの娘は道長の子にされるのではないか」みたいな予想を、ここんとこ頻繁に見かけて…

 

もしそうなっていくのなら、宣孝が「わざわざ道長に報告に行った」こと、そしてあの表情。

 

「忘れ得ぬ人がいても良い」「不実はお互いさま」、そして次回予告の夫婦喧嘩らしき場面…これらのカオスが、行先の一点を照らしていることになる…んですかね。

 

 

 

【関連】

 

大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12837757226.html