三原車輛製作所(その40) 三原におけるソ連検査官と米国検査官 | ゴンブロ!(ゴンの徒然日記)

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今回は、以前御紹介したソ連向けD-51とタイ国鉄向けミカドに関連する話です。時代は1949年、場所は三原。

同機の製作にあたって、1949年当時に三原車輛製作所で実際に検査官を受け入れた方が、その年の終わりの日本機械エンジニア学会で当時を振り返って記事を残しておりますので御紹介します。

 

まずおさらいです。


D51-29

ソ連向けD51の写真(D51-29)

 

三原機関車工場

タイ向け?蒸気1949-1950


194908_DX50

タイ国向けミカドの写真(DX50)

 

 

さてそれでは、記事の御紹介です。少々長文ですが当時の様子がリアルに伝わるので全文御紹介です。なお記事の旧かな、漢字は現代文に直しました。

 

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ソ連の検査官とアメリカ人による検査

 

                                大月武一

 

私の工場では本年の始めにソ連向のD51機関車5両と、 6月から9月にかけてタイ国向のミカド形機関車10両の製作をしたが、前者に対してはソ連の検査官、後者に対してはアメリカ人が検査をした。

 

優秀だったわが国の機関車製作技術も戦後の衰退はまぬかれ得なかったが、共に輸出機関車であり、かつその出来栄は今後の注文獲得に対する試余石となるので全工場を挙げてこれ等の製作に最大の努力を払った。そのために出来栄は戦後見たことのないほど上出来であったし、年配の従業員はやっと昔のような機関車が出来たと云い、若い従業員は本当の工作方法が分ったと云う様子で工場全体の工作方法は一段と前進した。われわれ指導者も努力が報いられて戦時形と格段の相違ある出来栄を見ては喜びを感ぜざるを得なかったがさて両国の人々に検査を受けると思わない色々の点が指摘された。しかしこれとてもわれわれの考えの.及ばないような点は少しもなくてわれわれ工場の従業員中経験者は直に考えられるような事のみであった。

 

ソ連の検査官は機関車の専門家で最初はソ連の検査は非常にやかましいということであったが実際のやり方を見る.と将来使用後において少しの不都合も生じてはならぬという点に重点を置き、細心の注意をもって検査に当っていた。就中ボイラの検査には最も力を入れ外火室の側面とか、前面がステーをかしめた後も平であるか杏か、各種弁類の収付部分の完否を入念に検査し、その他の部分に対しても少しでもきずのある部分に対しては徹底的に検査し、その良否を明確にした。そして注意を要するもので手直の出来るものは直に手配するし物によっては次後の製作の時一段と出来栄の向上を要求された。この検査官の全体的のやり方としては、『なんでもかんでも非常にやかましい』と云うような印象はなくて、われわれの将来の製品は是非共この程度にやらなくてはならぬという考えを強くした。

 

アメリカ人の検査担当の方は元々鉄道に関係のあった人であるが、検査の方針と云うよりも、その気持ちは各部分が作用上十分であることを確認することはもちろんであるが、それと同時に今回の出来栄が、次の新しい注文の際、日本品が欧米の機関車よりも、良いと云うことの証明如何になるので今回の出来栄が是非共良くなくてはならないということの考えが非常に強いように思われた。検査にはこれまた細心の注意をもって当っておられた。たとえば組立た機関車の軸箱の内部は眼では見えないので二、三のものに手を差しこんでジャーナル面にきずがあるか否か、軸箱の内面はどんなふうであるか、油の中には油を入れる前の掃除が十分でないため鋳物砂の残りとか、切りくずが入っていないかなど入念に調べている。外観上の出来栄も非常に重視されているのでスタッドの長さがそろっているか否か、ガス切断面の手当がどうか、塗粧がどうか等の細部についても十分の検討をした。このためにタイ向の機関車の外観は近来経験した事のないまでに上達した。そして検査後の講評の席では不良部品の防止はもちろんだが、出来栄の向上は一にかかつて工員の指導如何によるもので、工場長が組長に対して、細心の注意をもって指導すれば、組長の工員に対する指導が良くなり、製品の向上が期せられる。この点が特に必要であると力説していた。打寛いだ席でも特に私に対してこれを繰り返している。そしてわが図の車両工場の管理方式はいろいろであるが、この検査担当の方はこの管理方式と出来栄が一つの重要なる関連性を有していることを確信していた。

 

要するにこの両国の機関車の製作によって職時中の気分が連続していたようなわれわれの頭が、明るくなり晴々した気持になったばかりでなく、輸出車両に対しても先々合格したという喜びを感じた。なおこれ等の機関車の製作に当って運輸省の関係者並びに監督官の熱心なる御指導は感謝に耐えないところであった。

 

〔正員、三菱重工業会社三原車輛製作所〕

 

(引用終わり)

 

著者の大月武一氏は三原の回顧録「千載有韻」(1976年)にも回顧録を投稿されておられます。三原には工場建設段階の1942年から1950年まで勤務していたようです。

 

また、ソ連向けD51の検査官の名前はチュレコフ氏と名前だけ伝わっています。三原には1949221日に政治委員?と二人で一緒に来訪し
尾道の百貨店での歓迎会席上、乾杯地獄で日本側接待要員を殆ど撃沈した豪の方だったようです。
タイ向けミカドの立会をした米国の技師の方の名前は記録に残っていません・・・

 

 当時の記録をつなぎあわせると点と線がつながる気がして大変興味深いですね。

それではまた!