ゴンブロ!(ゴンの徒然日記)

ゴンブロ!(ゴンの徒然日記)

陸海空、鉄道、SF、有職故実、ミリタリーから、書評まで。
硬派から軟派まで行ってみよう!

皆さんこんにちは!ゴンです。

拙ブログへようこそ!このブログはゴンブロ主宰者の研究成果をまとめています!

こおおおい(濃厚な)内容のブログですが、どうぞお楽しみください!


1.「デロイを探せ!」 (2011年10月から連載中)

 
$ゴンブロ!(ゴンの徒然日記)-デロイ33 $ゴンブロ!(ゴンの徒然日記)-1959切手

  朝鮮半島初の幹線電化の為に1943年から生産された「デロイ型」「デロニ型」電気機関車に
  ついて探ります。

   日本、日本統治下の朝鮮、戦後の韓国・北朝鮮を舞台に、戦中・戦後数奇な運命を経た

   「デロイ」「デロニ」から見えてくるものとは?


2.「三原車輛製作所」  (2012年7月から連載中)


$ゴンブロ!(ゴンの徒然日記)-1943_01 D51出車式

  かつて日本の機関車製作の雄と言われた三原車輛製作所の秘史について探ります!


Amebaでブログを始めよう!

忙しくて夢のように毎日が過ぎているうちに、ブログ未更新3か月、
「デロイを探せ!」に至っては半年のブランクです。

本当に久しぶりですが、「デロイを探せ!(その52)」のリリースです。

お題は幻の南朝鮮電化区間計画について。

 

まずはおさらいです。

 

旧鮮鉄時代、1944年に開通した京元線電化区間に加えて、旧京慶線
ついても堤川/丹陽/豊基の急峻区間の電化工事が進み、車輛も、
京元線用契約20両とは別枠で6両(三菱デロイ4両、日立デロニ2両)
発注が済んでいたが、19458月までには結局工事は完成せず、という
所が実態となっておりました。

電化工事自体は鮮交会の資料によると194510月の工事完工予定と
なっていたとも言われています。

1946京慶電化区間

 

デロイを探せ?(その36)からの抜粋・・・

「以下鉄道ピクトリアル19701月号(233号)の記事からの抜粋です。
「注記」部分はゴンブロ主宰者の補足です。

 「中央線(注記:戦前の京慶線)の電化については・・・(中略)・・・
旧鮮鉄末期既に計画されていたが、解放後電化計画の一部として、

丹陽-豊基間23km(最大勾配25パーミナル、ループ線あり)をDC 3KV
にて工事再開することとし、ECA(注記:米国経済協力局)援助資金により、
デロイ型EL5両のほか所要機器を日本から導入、既存の1両と合せ
6両にて電気運転の計画であった。
そして1950年動乱勃発時までには、
送電線・電線路工事共、すでに90%完成していたが、動乱中数次に亙る
激戦場となり、施設の大部分は破損の上、EL5両は北鮮軍により持ち
去られるに至り、休戦後は一般復旧が優先した為計画は頓挫するに
至った。

その後10年を経た第一次5か年計画作成の折、動力近代化方策の一環と
して、京釜・京仁線と共に再度電化計画が取り上げられたが、所要資金
調達や、当時の電力事情問題も絡み、実現を見なかった。」

 

今回ご紹介する文献は朝鮮通信社発行の「朝鮮年鑑1948年版」です
刊行は194712月のソウル。まだ軍政下のいわゆる南朝鮮にて発行
された年鑑ですが、都立図書館に原本が残るこの本の、運輸通信/国有
鉄道の項にその項はありました。

 

以下日本語に翻訳

政治的な影響を受けた用語がありますがそのまま翻訳します。
また漢字は現在のものに直しました。

 

丹陽電鉄工事

日帝が企図し建設途中で中止となった京慶線堤川豊基間 10.3粁の
電鐵化工事は運輸部にて継続実施され、八十八個所の隧道
(〇〇○三文字不明) 19477月に完成しているのだが、変電所施設
のみが未完成である。これにより(この工事が完成すれば)南朝鮮では
最初の電鐵が出現するものであり、この運転が開始されれば輸送力
80%アップが予定されている。この電鐵に使用する電気機関車
四台が既に(?)日本から到着している

 

【考察】

南部での電化計画について直接的な記述がある一級の史料です。

(但しキロ数の10.3キロは謎。元々の電化計画は50キロ、再開後の
工事区間は23キロ程でした)

年鑑自体は194712月に発行されておりますが、原稿締切が1947
夏ですと日本からの出荷台数については辻褄があいます

(戦後出荷のデロイ6, 7、デロイ31,32のことを言っている?)
また現在に至るまで韓国側で言う電化区間のことを電鉄という
言い方は1947年当時からあったことが窺われ、興味深いものが
あります。
それにしても、1
945年当時から南のどこかで保管中であったはずの
もう一台のデロイ、
もしくはデロニの記載まではありません・・・

 

 

【おまけ】

この「朝鮮年鑑」は基本的に反日モードで書かれており
(巻頭特集がいきなり「日本の朝鮮侵略小史」)、そういう意味
でも記事の信憑性すら政治的バイアスがかかっているような
気もするのですが、一方で当時非合法化されつつあった南朝鮮
労働党に関する記載もそれなりにあり、更には人名録には朴憲永
(当時、南朝鮮労働党党首 後に越北して北で副首相。動乱の敗戦
責任を取らされ後に粛清)や、北の初代指導者の項目もあり、何より
随所に隠そうとしても隠しきれない日帝残滓があるのは興味深い
です。

以下は目次部分ですが、仁川にある株式会社福島組と言うのは、
明らかに1945年以前からあった会社の筈です。モロ日帝残滓。
企業広告には日本統治時代からの連続性を感じさせるものが多いの
ですが、清酒(樽酒)の広告も残っていました。

 


次回は、これも貴重な、南朝鮮電化区間の乗務員の訓練が実際に
日本で始まっていたことを示す資料
を御紹介します。
アップの間隔が空きすぎないようにしないといかんですね。

 

それではまた!

今回は、以前御紹介したソ連向けD-51とタイ国鉄向けミカドに関連する話です。時代は1949年、場所は三原。

同機の製作にあたって、1949年当時に三原車輛製作所で実際に検査官を受け入れた方が、その年の終わりの日本機械エンジニア学会で当時を振り返って記事を残しておりますので御紹介します。

 

まずおさらいです。


D51-29

ソ連向けD51の写真(D51-29)

 

三原機関車工場

タイ向け?蒸気1949-1950


194908_DX50

タイ国向けミカドの写真(DX50)

 

 

さてそれでは、記事の御紹介です。少々長文ですが当時の様子がリアルに伝わるので全文御紹介です。なお記事の旧かな、漢字は現代文に直しました。

 

*****************************************************

 

ソ連の検査官とアメリカ人による検査

 

                                大月武一

 

私の工場では本年の始めにソ連向のD51機関車5両と、 6月から9月にかけてタイ国向のミカド形機関車10両の製作をしたが、前者に対してはソ連の検査官、後者に対してはアメリカ人が検査をした。

 

優秀だったわが国の機関車製作技術も戦後の衰退はまぬかれ得なかったが、共に輸出機関車であり、かつその出来栄は今後の注文獲得に対する試余石となるので全工場を挙げてこれ等の製作に最大の努力を払った。そのために出来栄は戦後見たことのないほど上出来であったし、年配の従業員はやっと昔のような機関車が出来たと云い、若い従業員は本当の工作方法が分ったと云う様子で工場全体の工作方法は一段と前進した。われわれ指導者も努力が報いられて戦時形と格段の相違ある出来栄を見ては喜びを感ぜざるを得なかったがさて両国の人々に検査を受けると思わない色々の点が指摘された。しかしこれとてもわれわれの考えの.及ばないような点は少しもなくてわれわれ工場の従業員中経験者は直に考えられるような事のみであった。

 

ソ連の検査官は機関車の専門家で最初はソ連の検査は非常にやかましいということであったが実際のやり方を見る.と将来使用後において少しの不都合も生じてはならぬという点に重点を置き、細心の注意をもって検査に当っていた。就中ボイラの検査には最も力を入れ外火室の側面とか、前面がステーをかしめた後も平であるか杏か、各種弁類の収付部分の完否を入念に検査し、その他の部分に対しても少しでもきずのある部分に対しては徹底的に検査し、その良否を明確にした。そして注意を要するもので手直の出来るものは直に手配するし物によっては次後の製作の時一段と出来栄の向上を要求された。この検査官の全体的のやり方としては、『なんでもかんでも非常にやかましい』と云うような印象はなくて、われわれの将来の製品は是非共この程度にやらなくてはならぬという考えを強くした。

 

アメリカ人の検査担当の方は元々鉄道に関係のあった人であるが、検査の方針と云うよりも、その気持ちは各部分が作用上十分であることを確認することはもちろんであるが、それと同時に今回の出来栄が、次の新しい注文の際、日本品が欧米の機関車よりも、良いと云うことの証明如何になるので今回の出来栄が是非共良くなくてはならないということの考えが非常に強いように思われた。検査にはこれまた細心の注意をもって当っておられた。たとえば組立た機関車の軸箱の内部は眼では見えないので二、三のものに手を差しこんでジャーナル面にきずがあるか否か、軸箱の内面はどんなふうであるか、油の中には油を入れる前の掃除が十分でないため鋳物砂の残りとか、切りくずが入っていないかなど入念に調べている。外観上の出来栄も非常に重視されているのでスタッドの長さがそろっているか否か、ガス切断面の手当がどうか、塗粧がどうか等の細部についても十分の検討をした。このためにタイ向の機関車の外観は近来経験した事のないまでに上達した。そして検査後の講評の席では不良部品の防止はもちろんだが、出来栄の向上は一にかかつて工員の指導如何によるもので、工場長が組長に対して、細心の注意をもって指導すれば、組長の工員に対する指導が良くなり、製品の向上が期せられる。この点が特に必要であると力説していた。打寛いだ席でも特に私に対してこれを繰り返している。そしてわが図の車両工場の管理方式はいろいろであるが、この検査担当の方はこの管理方式と出来栄が一つの重要なる関連性を有していることを確信していた。

 

要するにこの両国の機関車の製作によって職時中の気分が連続していたようなわれわれの頭が、明るくなり晴々した気持になったばかりでなく、輸出車両に対しても先々合格したという喜びを感じた。なおこれ等の機関車の製作に当って運輸省の関係者並びに監督官の熱心なる御指導は感謝に耐えないところであった。

 

〔正員、三菱重工業会社三原車輛製作所〕

 

(引用終わり)

 

著者の大月武一氏は三原の回顧録「千載有韻」(1976年)にも回顧録を投稿されておられます。三原には工場建設段階の1942年から1950年まで勤務していたようです。

 

また、ソ連向けD51の検査官の名前はチュレコフ氏と名前だけ伝わっています。三原には1949221日に政治委員?と二人で一緒に来訪し
尾道の百貨店での歓迎会席上、乾杯地獄で日本側接待要員を殆ど撃沈した豪の方だったようです。
タイ向けミカドの立会をした米国の技師の方の名前は記録に残っていません・・・

 

 当時の記録をつなぎあわせると点と線がつながる気がして大変興味深いですね。

それではまた!

 

 

 

前回ほんのサワリだけでしたので、今回写真主体で駆け足で御紹介です。


5月22日(木)-5月25日(日)にかけて、奇跡的に中標津空港アウトのマイレージが取れましたので、道東に行って参りました。
一番の目的はサハリン向けD51-27(三菱重工三原製)の実車が保管されている旧西春別駅前の別海鉄道記念館ですが、その他貪欲に札幌グルメ、釧路湿原、釧路グルメ、旧中標津駅、根室、花咲港、根室グルメ、納沙布岬、トドワラ、旧根室標津駅と回ってきました。

回ったエリアを以下図示。

新千歳や札幌にも行っていますが、以下の地図の外にあります。


5月22日(木)

新千歳⇒札幌⇒市内散策⇒釧路行高速バスで移動

札幌駅には711系が居ました。来年には運用から外れるとの噂。
ゴンブロ主宰者幼少のみぎり、北海道に特急より早い急行電車、しかも全行程途中駅通過というスゴイ
列車があると聞き、胸を熱くしたものでした。(急行「さちかぜ」)



夕食はジンギスカン「だるまや」で。
実は東京生活満二年ですっかり二郎ファンになってしまった、ゴンブロ主宰者ですので
ネタとして、ラーメン二郎札幌店に行くか、地元の王道だるまやに行くか迷いに迷い、
結局、コペルニクス的転回で、両方に行くことに(笑)
写真はすでに二郎を食べた後、訪問したダルマ屋の写真ですが、さすがにジンギス
カンは辛かったです。
食いが芳しくなかったのか店のおばちゃんに叱られもしましたが、いい思い出になりました。





二郎やらジンギスカンやらで、スゴイことになっているので、駅前温泉で体を清めてから夜2330頃出発の釧路行夜行バスに乗車。
バスは非常に快適でした。


5月23日(金)

釧路⇒茶内⇒釧路⇒釧路湿原⇒塘路⇒標茶⇒(旧)西春別駅⇒(旧)中標津駅⇒根室


道東は朝が早い。5時台ですが既に日が高いです。
市場で朝ごはんを食べる所、朝早すぎるので、根室本線下り一番の快速はなさきで行ける所まで行って折り返してくることにしました。


茶内駅のキハ54

同じく茶内駅。道東の澄んだ青空にキハ54が映えます。


交換で到着した根室発上り一番の5624D(茶内駅)
ご覧の通り、線路状態はあまりよくありません。

5624D 茶内駅入場。
この列車でいったん釧路まで戻ります。



根室本線の典型的な姿。
枕木はPCは殆どなく、文字通りの枕木。
湿原地帯が多いので、敷設ケーブルは電柱形式になっており、何となくかつての日本の鉄道の原風景のような光景です。
根室本線で釧路に戻り、駅前の和商市場で「勝手丼」を速攻で食べて、今度は釧網本線で釧路湿原に向かいます。




釧路湿原駅
無人駅ですが駅は綺麗に整備されています。

駅近くの展望台から見た釧路湿原と阿寒岳


列車の本数が少ないので、列車・バス移動ですと、一本乗り逃すと大変なことになります。
「くしろ湿原ノロッコ2号」で塘路まで向かいます。



観光の拠点(乗継駅?)になっている塘路駅。ここも無人駅ですが駅舎は新しくポーランドあたりにありそうな感じです。




塘路駅のDE10


ノロッコ号はここ塘路で折り返して釧路に戻りますが、西春別へ行くには更に釧網本線を北上する必要があります。
更に下りに乗り換え。




塘路駅に到着した下り4730D
湿原地帯を抜けると牧畜地帯が広がっていました。


標茶駅到着12:37


標茶駅には「SLのふるさと」の看板が・・・
ここから旧標津線代替バスが1989年の標津線廃止以降25年を経過した今も走っており、バスに乗車して旧西春別駅に向かいます。乗客は自分ひとり!


バスに揺られること約1時間で旧西春別駅にある、別海町鉄道記念館に着きました。
既報の通り、地元の方の鉄道への愛着が深く感じられる素晴らしい施設です。
屋外展示のD51-27等は以前御紹介しましたので、今回は館内の展示から少し御紹介。



転轍機



西春別駅のプレート


実車の銘板。この三菱重工の銘版はDD51のものでしょうか?
幹線用のDD51が標津線には入線していたかちょっと怪しい所ですが、三原工場のものに間違いありません。
日車昭和17年の銘版も気になります。



1989年当時の運賃表
きちんと大阪市内の料金も記載されているのが素晴らしい所です。
1989年というとつい昨日のような気がするのですが、もう四半世紀も前なのか・・・


1989年当時の時刻表と思われます。
標茶方面6本、中標津/根室標津方面7本のダイヤ。


これは現在の代替バスのダイヤ
土日減便はあるものの、やはり標茶方面6本、標津(昔の根室標津駅)方面7本のダイヤ。



旧西春別駅のあたりはいまだに地名としての西春別駅前が残っていました。
付近の道路標示もこの通り

旧西春別駅前近くの電気屋さんの看板
東芝提供の光速エスパーの看板!
光速エスパー放映は1967-1968年ですから、下手すると40年以上この看板ということか。
大変なレアものと思われます。


旧西春別駅前から乗継地 中標津まで再び代替バスで移動。
このあたり、田んぼなく畑なく、牧畜地帯が広がっているので日本離れしています。




夕方中標津に到着
中標津の町立図書館の児童書コーナ(読み聞かせブース)には旧標津線を図示するタペストリーが飾ってありました。地元の方の変わらぬ愛着を感じました。


中標津バスターミナルがあるところは旧標津線 中標津駅の跡地です。
建物の裏には映画「家族」の碑が立っていました。
1970年の鉄道映画の名作です。
ゴンブロ主宰者は残念ながら未見ですが、1970年頃の「暮しの手帖」に何故かシナリオが載っており、1970年代後半、暮しの手帖バックナンバーを自宅で見て、あの何とも言えない展開には愕然とした記憶があります。
山田監督が寅さんと前後して、失われつつある日本の原風景を残そうとして、鉄道風景を意図的に織り込んでいるので、今改めて見ると発見が多いかも知れません。


見えづらいですが、5月23日という時期にも関わらず、気温3度。
結構冷え込みました。

中標津バスターミナルの一室は小さな鉄道博物館となっており、バスの窓口にお願いすると中を見せていただけます。
館内にあった旧中標津駅の駅名標

通票閉塞機

中標津バスターミナルは中標津空港も近く、中標津空港/根室行き空港バスが立ち寄ります。
夕暮れ、根室交通のバスに乗車。

根室駅には19時30分ごろ到着。
空港バスというのに乗客は4人程度でした。

早速駅に行ってみることとします。


すでに有人窓口は閉鎖されており、ホームへの立ち入りもできない状態に。
根室本線といっても、優等列車はなく、輸送単位が少ないのでは仕方がない処置でしょうか。
しかし、何となくこの時刻表表示と言い、改札の時間制運用といい、一昔前の韓国の鉄道をほうふつとさせます。最近韓国に行っていませんが、1980年代の慶州駅あたりはこんな感じでした。

5月24日(土)

根室市内⇒花咲港⇒根室市内→(車)→納沙布岬→根室市内





今回、根室から北方領土をこの目で見るということを目標としていたのですが、滞在中、あいにくの天気で、せっかく島が見える宿の上層階を確保していたのですが残念でした。
ただ、日本最後の桜を見られたのには感激。
根室市内の桜です(チシマザクラ)



根室市内の道路標識は英露併記です。
かの佐藤大輔先生の名著「征途」における日本民主主義人民共和国の雰囲気が少しばかりは追体験可能か・・・x
インフォメーションセンターもここでは「インフォルマーツィオニュイ・ツェーントル(Информационный центр)」と呼びたい所です


根室市役所も英露併記




あいにくの天気ですが、根室から少し西に行った花咲港エリアに観光に行くこととし、あえてバスではなく、列車と徒歩で移動開始です。
根室駅には日本最東端有人の駅との看板が・・・


558発の5624D(朝一番列車)
客は十名程度。


根室から二駅目の花咲駅で下車。
非常に寂しい所でした。



東に向かって走り去る5624D



花咲の灯台や天然記念物の車石など見た後、花咲港へ。
街にはロシア語の看板があふれていますが実物のロシア人は見かけず、地元の方に聞きましたが、まあ色々あって、現在ロシア人の入港は激減したとのこと。
かつては花咲カニを持ち寄るロシア人が多かったそうですが。


付近の看板
日本の法律を守りましょう、やってはいけないことはやってはいけません、として禁止行為を列挙していますが、無許可上陸、無許可漁獲物(カニ)持ち込み、無許可自動車運転・自動車持ち出し、銃器・麻薬持ち込み等々 リアルな裏打ちがないとこれだけ書けないであろう、という内容です。

付近散策、食事の後、根室市内にバスで戻りました。
バス停の表記は日露。


帰路東根室駅によりました。

ここは日本最東端の駅です。
根室は有人日本最東端。こちらは無人駅ですが本当の最東端ということ・・・

13:52分の釧路行列車



何せ本数が少ないので、タイミングをあわせるのに一苦労です。
一旦市内に戻り、レンタカー屋で車を借りた後、納沙布岬へ移動。

納沙布の灯台と奪還祈念碑

岬からは水晶島沖に浮かぶ灯台やロシアの巡視船が見えました。
天気が良い日は歯舞諸島が見える筈ですが、あいにく視界が悪くこの程度しか見えず。



北方領土返還を祈念して建設された四島(しま)のかけはし。
灯っている炎は沖縄から(沖縄返還時の)1972年に取り寄せた炎で、これを24時間燃やすという構想でしたが、経費節減の為、今では日中のみの点灯に変更された由。
それにしても、観光シーズンからは外れているとはいえ、一応土曜日でしたが、駐車場もガラガラで、人が少なかったです。夏には混むのか?


付近の北方館に飾ってあった政治家来訪の写真の中に、中川一郎氏の姿がありました。
悲劇の最期を遂げる1983年の前、1981年夏の撮影です。
中川一郎氏に続き、子息の中川昭一氏も非業の最期を迎えることになるとは。

今回旅行の目的の一つ、フラリ バス停の訪問。
幹事で書くと婦羅理。かつての根室拓殖鉄道の駅が近くにあった筈です。




かつての日本最東端の郵便局だった珸瑤瑁(ごようまい)郵便局跡では道路をキタキツネが横切っていました。

5月25日(日)

根室市内→厚床駅→(旧)西春別駅→トドワラ→付近観光→中標津空港→羽田

最終日天気が良ければ日本一早い日の出(3時半頃)を納沙布岬に見に行くつもりでいましたが、やはり天気が悪いので、断念。
丁度旅先で、西春別駅のD51-27の再チェックが必要と判明したので、早朝アタックすることとしました。
写真は根室郊外の道路。
こんな感じでシカ注意の看板や警告がやたらと出ていますが、本当にシカが道路に飛び出してきて、大変驚きました。

根室から西に車で約45分の厚床駅。


ここから中標津まで標津線が走っていたのですが、当時の設備は確認できませんでした。
(駅中に標津線についての記念プレートは残っていました)



厚床から別海町を抜けて、西春別駅跡へ。
道路はこんな感じで、ひたすら直線が続きます。
朝早いせいか対向車も殆どありません。

付近の海岸ではこんな看板も立っていました。

少々迷いながら約2時間で(旧)西春別駅に到着。
上の方でも触れましたが、廃止から25年がたった今でも道路標識にもはっきりと「駅前」の表記が残っているのは嬉しい所です。

第二回目となった同日の訪問で、車体下部を含めたD51-27の徹底再調査を行ったことは既報の通りです。
ようく見ると鉄道記念館の正面にはD51の姿も。

(既報)D51-27




再び海岸線に戻り国後島が右手に見えるエリアを車で北上。

海に面した尾岱沼(おだいとう)の道の駅。

彫刻「叫び」は四島を向いています

リアルな造形です。

鉄道とは関係ありませんが、トドワラを訪問。


野付半島トドワラから見た国後島の風景


だんだん時間がなくなってきたので、旧根室標津駅近くの標津羊羹(名物)の本店で早々にお土産を購入し、中標津空港に移動します。
時間なく、転車台が残るという旧駅舎跡に行けなかったのが心残りでした。


根室中標津駅の次にあった川北駅跡地にはキハ22の展示がされていました。


レンタカーを返却して中標津空港着は2時間前。
ちょっと余裕がありましたが、これ位が初見の場所ではいいくらいです。
帰りのフライトは緊張が解けたのか熟睡しました。
駆け足でしたがぎゅうぎゅうにスケジュールを入れたおかげでミッションCompleteです。

もう本当に羅列の記録となりましたが、以上です。

それではまた!





もう一か月たってしまいましたが、先月の道東旅行で回った地点。

肝心の写真ですが、写真のリサイズに手こずっており、今回は一枚だけアップです。


5月23日朝 根室本線 茶内駅撮影
早朝の高速バスで釧路下車。間合い運用で釧路駅から快速「はなさき」で茶内までやってきました。ここで折り返し、釧路に戻ります。

いちいち写真のリサイズをするのも面倒なので、いっそアメブロの写真容量アップに申し込むか・・・
何かそういうソフトがあるような気もするのですが。

アメブロの有料サービスに乗ると何となく術中に陥っているような気もしますが。

それではまた!


前回に引き続き、旧標津線 西春別駅跡にある別海町鉄道記念公園のD51-27です。
今回も写真中心で。

D51-27のサイドビュー

D51-29

(従来御紹介の写真)
三菱三原でロールアウトしたD51-29(別海町のD51-27と同一ロット)のサイドビュー
1949年撮影

D51-29アップ

同じくD51-29の運転席付近のサイドビュー(三菱三原)

カメラを思い切り伸ばして運転席付近を窓から撮影

同じく運転席から炭水車側を撮影


前照灯はソ連型に大型化されています

車体下部にはD51-27の刻印がありました

動輪には意味ありげな数字が・・・

写真を上下逆にしてみますと・・・

8 III 67 II 6177 38949の文字が!
IIIやIIはローマ数字なのか、仕切り記号なのか不明です。




鉄道記念公園の建物の中に飾ってあった写真。



元々の西春別駅の駅名札がそのまま飾ってありました。
1989年の廃止までに一度は訪れたかった場所でした。


保存されているキハ22 239
今にも動きそうな雰囲気です。


当時の駅がまるまる再現されている訳ではないのでしょうが、ホームや線路を使った展示はいい感じです。
周囲には無数のタンポポが咲いています。



D51-27の前に掲示されていた案内。
1991年当時大変しっかりした考察の元、展示が行われたことが判ります。

それではまた!


事前予告の通り、マイレージを取って、5/22夜-25にかけて北海道に行って参りました。
一大目標は旧標津線 西春別駅跡地にある別海町鉄道記念公園のD51-27調査です。

実は上記の事前予告を受けて、LC33100様からは、以下の通りアドバイスを頂いていたのですが、出発でゴタツイテ発見が遅れ、何と旅先の根室の宿舎で気付く羽目に・・・


1. 是非確認したい部分が
おお、ついに現物を見にいかれますか!!
つきましては是非確認して頂きたい箇所が
ございます。主台枠前端が国鉄D51のような
缶支え棒を装備して煙室と丸棒で締結されいるか、あるいは例の組立途中写真のように
C57,C61のような三角形のトラス形状なのか
是非見て頂きたいのです。
LC33100 2014-05-24 02:01:09

リカバーの為、別海町の記念公園には本来の訪問日の5月23日昼と、書き込みを確認した後の、5月25日早朝の二回参りましたが、誠に残念ながら、25日の再訪時も、このレポートをするに十分な準備なく、周辺写真を撮影するに留まりましたので、考えた末、とにかく多数撮影してきた写真をUpすることにします。

写真単位の細かい説明は今回極力省きますが、従来細部の写真をアップされた方はいらっしゃらなかったと思うので、気付き事項があれば、是非コメントをお願い致します。

なお二回訪問の関係で、写真は極力パーツごとに纏めていますが、5月23日撮影と25日撮影が混在しています。

今回気付きの概要は以下の通り

①三菱銘板はおろか部品に至るまで日本製の痕跡は殆ど確認できず。
 ただ一か所Water Pumpに日本製の銘板が確認できた。
②動輪部分にも刻印があったが、何かしら意味があるものか判別できず。
 運用上、車輪部分をまるまる取り換えるということが無ければ製造時の
 何らかの刻印か?
③エアタンクの銘板はロシア製に変わっている(キリル文字) 
 1977年の年号らしきものあり、実機最終運用段階における圧力試験の合格証か?













連結器はロシア規格のものに取り換えられていた。





本来このD51-27のプレートがもっと上部にあり、現在プレートがある部分に三菱三原の銘板があった筈















台枠前面部分?
































Water Pumpに唯一残っていた日本製銘板
塗りつぶされているがGENDOUKI SEIZO CO., LTD.らしき文字が見える。
ただ製造年号がApr. 40とあるのが謎。(1940年製?)





エアタンクのキリル文字銘板 下部の数値刻印は30.5.77とある為、1977年5月30日という意味か?



今回はとりあえずここまでです。

何とも忙しく、ブログの更新が全然出来ておらず、失礼しております。
ということで、速報!

マイレージが奇跡的に取れましたので、この週末北海道に行ってきます。
一般観光地は二の次に、
サハリンから日本に里帰りしたD51-27(三原車輛製作所製。ソ連向け輸出D51)の現地検証に行ってまいります。

出発まで不測の事態がないことを祈るばかりです。

それにしても、デロイにせよ、三原ネタにせよ、ネタは山ほどあるのですが、全然時間が取れません・・・。

今回のD51-27も現地検証結果を実際にアップするのは先になるかなあ・・・


それではまた!

桜の季節、先週の週末にはじめて大井川鉄道に行ってきました。
伊豆に実家のあるゴンブロ主宰者にも関わらず、今まで大井川鉄道を訪問した
ことなく、今回が初回です。
今回は写真主体でアップします。それでも写真は全てi Phone撮影ですので見苦しい点があればご容赦ください。訪問は4/5-6の二日間。




金谷駅

新金谷駅まで一駅は旧近鉄特急で、写真では判りにくいですがかなり車体の傷みがあります。

今日の蒸機の編成

新金谷駅構内から。
3月下旬のダイヤ改正(改悪)で、大井川鉄道の本線はSLを除くと僅か8往復に減便されてしまいました。

新金谷10:00発の急行牽引はC10 8

客車は素晴らしい旧型客車です。
デッキ部も昔と同じ完全手動

車輛内部

ボックス席

洗面所

国鉄の地図が1976年のものであり、清水港線がきちんと記載あるのが嬉しいところです。

途中駅、家山の桜とC10 

千頭駅転車台のC10

30分ほどたつと千頭駅に急行の第二便が来ました。牽引はC56 44 後部補機はE10

E10の運転手は女性でした。萩原愛さんと言い、大いなる夢をもって車掌から運転手になったという素晴らしい方。

千頭駅から奥地に行くこととし、井川線で井川まで。
途中駅の川根両国の桜。

アプトいちしろ駅
アプト区間の風景

途中の尾盛駅は有名な秘境駅
周辺民家なし、アクセス道路なし、という絶境。ホームがあるのみ。
一時、クマが出没して途中下車禁止となったという曰くつきの場所です。

終点井川駅の風景

長島ダムの偉容

再び本線に戻って(ここから4/6の撮影)
家山駅

家山駅付近の鉄橋

家山駅のC11

下泉駅のC10

千頭駅終点のC10とE10、昭和30年代をほうふつとさせる風景

帰路の急行はC5644が本務、E10が補機という三菱コンビ
C5644は三菱重工神戸造船所製(1936年)

E10は三菱重工三原/三菱電機製(1949年)
E10は同年代製作のデロイと似ています。

転車台のC56


オハニ36
1984年当時唯一残った?白熱灯使用車として山陰で現役で走っており、1984年3月頃、高校の休みを使って、わざわざ乗車しに行ったのも思い出です。この場で再会できるとは感慨無量。

今回淡々とした御紹介となってしまいましたが、大井川鉄道の方々の情熱を随所に感じることが出来ました。また、若い社員がきびきびと動いていた様子も印象的でした。駅の方の話では「伝統と若い社員の力に期待する」とのことでしたが、昨今施設の老朽化と旅客数の減少は相当深刻な問題のようです。なかでも、関越道バス事故による、日帰りバスの距離制限の問題で首都圏からの日帰りが出来なくなったのは、大きな影響を与えているようでした。

一般列車の大減便が何をもたらすのか、影響は未知数ですが、今後も硬派な観光路線としての
大井川鉄道の健やかな発展と存続を心よりお祈り申し上げます。

それではまた!





本日の御紹介は1940年代の講談社発行の絵本からEF55量産型の図です。

キャプションは「日本で一番新式の流線型電気機関車」


EF55
は周知の通り、1936年の生産開始以降、1930年代から1940年代にかけて八次にわたる量産が行われ、総数で48両という大量産がなされました。
特に、対英米戦講和後、平時回復による旺盛な旅客輸送伸長と軍部の電化忌避解消(本土攻撃されるような事態になれば、電化鉄道の被爆云々の前に戦争継続不可との認識が共有された)による急激な電化区間の拡大により量産された後半型は、航空産業からのスピンオフとしてのころ軸受の採用、軽合金の採用、
高速主電動機の装備に加え、歯車比も高速寄り (25:77 = 1:3.08) となった高速専用機となり、大陸ルートとして益々重要性を増した東海道、山陽本線の電化区間で特急、急行列車の牽引に活躍しました。


図は後半量産型の一両 EF55 84です。(八次車は80番台の形式を付番。)

丸屋根の三等客車は鮮鉄局「あかつき」型軽客車の意匠を汲んだ軽量客車です。上り第三櫻と思われます。


高速専用機の判り易い特徴としては、塗装を満鉄の影響を受け、葡萄色から薄紫色に変更していることで、高速性能の発揮を追及したタイプには前頭の流線型部分を拡張し、側面スカート部分を大きくしたものもありました。

同機種では1948年に東海道本線の島田~藤枝間で行われた高速度試験で電機としては当時の内地では最速の145km/を記録したことでも有名です。

当機はその素直な素質から重量型旅客列車の高速牽引用のEH50から、更には東海道広軌新線(弾丸列車)のHEH50にも発展し、鮮鉄局のデロコ、デロロ、満鉄のデハイ、デハニにも強い影響を与えましたが、傑作なるがゆえに、1950年代を通じて、鉄道省で続いた動力集中式か動力分散式かの論争を膠着化させる結果を招いたともいわれています。

 

 

・・・と、妄想はこの辺にしておきましょう。

今日は41日です。

 

さて、本絵ですが、絵本自体は戦前の大日本雄弁会講談社発行の「乗物づくし」(1937年発行)という実在する本物です。美しいイラストの本なのですが、今回のEF55の車番が84となっていたり、塗色が何か見慣れぬ色彩となっていたりするように、作者の意図が入ったとしか思えない微妙なズラシがあります。また機会を設けて御紹介します。

これはホンモノのEF55 1(出典 Wikipediaから)

それではまた!

ソ連向けデロイ出荷に関するGHQ向け輸出許可申請書の件の続きです。またまた日が空いてしまいましたが、前回ゴンブロ(デロイを探せ!その50)の続きです。

まずは発掘資料の続きです。輸出許可申請書、工程、仕掛進捗状況の他に何の資料が付いていたかという点です。

 

【車輛図面】(以前御紹介済)

以前から御紹介している、1948229日付けの東芝車輛図面の添付がありました。

現物はまず間違いなく青焼き図面でしょう。

なお、LC33100様から以前ご指摘がありました通り、このデロイは空気溜の位置が日立デロニ同様車輛側面に露出しているという「デロイ改」というべき構造です。

 

【写真】

黒く潰れていますが東芝のデロイ1の公式写真が添付されていました
(元々の写真はこの写真)

 

【進展実業の補足資料】(以前御紹介済)

ソ連ほか共産圏向けの特殊商社によるソ連向け改造要項です。

 

さて資料が揃った時点で、独断と偏見に満ちた考察です。

 

この資料にまつわる謎は大きく分けて3つあると思われます。

➢引合の経緯

➢引合倒れの理由

➢仕掛器材のその後

 

1.    引合の経緯
東芝からの回答の異様なまでの現実性・具体性から鑑みるに、GHQ側から何等かの公式照会が必ず最初あった筈ですが、国会図書館を捜索するも見つけられず。
GHQ側の狡猾なやり方で、指示は口頭で出させて実作業をさせていた、ということも考えられますが・・・)
以前触れた通り、1949年時点で、満鉄標準型というべき85トン凸型電機について、ソ連規格向けに一部手直しした3両が日立から実出荷に至っていますが、この3両はソ連向けではイレギュラーな直流1500ボルト車輛であり、鉱山用もしくはごく限定された線区で使われたものと思います。
当時のソ連の電化形式は直流3000ボルトであり、今回ソ連向けデロイの諸元を見ましても直流3000ボルト規格となっておりますので、やはりソ連の電化本線用に要求があったのは間違いなさそうです。やはりシベリア鉄道(?)の電化区間で使用する意図があったのか?

2.    引合倒れの理由
「冷戦の激化による交渉打ち切り」を理由にするのは簡単ですが、当時一概にソ連と決定的な断交にはなっておらず、理由としては少し弱い気もします。
1948-1949
年当時、メーカ各社では戦後初の大型出荷案件(サハリン向け車輛輸出)の製作が順調に進んでおり、ソ連検査官が来訪しての立会等も整斉と進み、出荷が続いていました。日立の85トン電機の出荷も1949年のことです。
要するに、国際的には、中国国共内戦の激化、ベルリン封鎖等、東西冷戦は進んでいますが、日ソ間の鉄道車輛輸出契約の一方的な契約破棄という状況にまでは至っておりません。
今から考えると想像が付きませんが、戦後外交史を調べますと、占領下の日本国について、再独立後東西どちらのブロックにも属さない中立地帯にするという構想もあった模様です。このあたりが関係しているのでしょうか。。。

こちらは、実際に禁輸となった事例・・・


米国製の電機”Little Joe”【出典:Wikipedia

GE
20両受注した2-D-D-2という当時最強クラスの電機で、こちらは米国までソ連検査官が来訪し立会までした段階で禁輸処置が取られ輸出頓挫。早手回しでソ連ゲージで製作された16両は改軌、残りの4両は最初から標準軌対応で製作後、米国国内向け(ミルウォーキー鉄道ほか)、ブラジル向けに転用されたようです。

なお愛称のLittle Joe(チビのジョー)とは米国特有の諧謔でこの方の機関車という意味だそうです・・・


Joe
ことヨセフ=スターリン

3. 仕掛器材のその後

そして最大の謎です。
正史に残っている東芝デロイの竣工は、19479月のデロイ9(仕向地「南朝鮮」)が最後ですが、今回の輸出許可申請書を見ますとデロイ9の竣工(≒出荷)がすでに完了していた19482月の段階で東芝には工事進捗75%程度のデロイが3両ほどあったということになります。

前回御紹介の通り、東芝の工事進捗グラフを見ても、仕掛3両の内の2両については車体も既に完成していた段階にあると記録が残っています。
この3両は、完成の暁には、仮称デロイ10, デロイ11, デロイ12とでも命名されるべき車輛群で、恐らくは戦前の鮮鉄局とのオリジナル契約(戦前の京元線用と京慶線用の合計16両の発注!)の仕掛分と思われます。

この工事進捗75%の状態が、いつの時点から(1945年から?それとも戦後のどこかの時点から?)続いていたのか不明なのですが、戦後別契約に従って南朝鮮の中央線((旧京慶線)電化工事区間向けにデロイ6両(東芝デロイ3両、三菱デロイ3両)が出荷された後も、工事仕掛状態で3両が残っていたのがまずミステリーです。

ここからは妄想に満ちた推測なのですが、当時の南朝鮮の電化工事は、実は元々の戦前の計画が半分程度に縮小された形で進んでいたことから考え、二期工事を期待し、追加発注があることを予想して、わざと仕掛状態のまま残していたとか考えられそうです

1946京慶電化区間

戦後の電化工事再開区間
(上記の太線部分の北半分の堤川/丹陽間)

更に推理しますと、当該二期工事に期待したとはいえ、実際の所、経済的・政治的混乱が続き、工事実現性がイマイチ期待出来ない南朝鮮にヤキモキした1948年頃に、より受注確度が高そうなソ連からの引合があったので、渡りに船とばかりに、真剣に見積対応したというのが実態なのではないでしょうか?

そうなりますと、仕掛デロイ3両の末路も、以下のような経緯をたどったような気がします。
1948年春?見積提出するも、ソ連からの引合が何等かの理由で実現に至らず
・(1948年のこの段階では)ソ連向け出荷は頓挫するも、スクラップ化されず、なおも南朝鮮の中央線(旧京慶線)向け電化二期工事を期待して仕掛状態継続。
19506月に韓半島で動乱発生。
1950年夏、北側の侵攻、国連軍の反撃により、電化工事がかなり進んでいた堤川付近も激戦地となり、電化設備も破壊され、電化工事自体が自然消滅
・標準軌直流3000ボルトという独自仕様が災いして、販路はもはや得られず
・ついに、1950年頃スクラップ。おりしも韓半島動乱で、鉄材価格が高騰しており、スクラップ化する決断の後押しとなった。

以上想像でしかありません。
(実際のところ、史書には3両の末路はもちろん、製作の事実すら、記録が残っていません。)

 

次回は、今回とも関連して、幻の南朝鮮電化工事に関して発見した資料を御紹介します。
それではまた!