すごろくって人生を投影したものだと思う。1回休みとかスタートにもどるとか。なかなか目的地に辿り着けない状態表現がうまい。
失恋という字を「しつこい」と読むのだと思っていて恥ずかしい思いをしたことがあります。
終わり。
西郷隆盛は2回も島流しにされたせいか、30歳くらいの時、天の定めだから仕方ないことと考えるようになったのだ、と本で読んで勝手解釈した。

天命というとちょっとカッコいいけど、西郷はんのそれはそんなに前向きな態度ではない気がする。で、この「天というのは物理的に上空Xmのことなのかはたまた白鳥座のある天の川がある宇宙のことなのかよくわからない概念なのがいい。明確な定義があるのかもしれないけど、わかってない方がいい気がする。

お空のどっかに生かされていると思うとスッキリ生きられる気がする。

「そんなに性格は悪くないよ」ってみんなに言って欲しいの?
うん、そうなんです。(正直)



それはさておき、とある性格判断テストを受けてて、なんだか自分は自分勝手だなあと思いながら回答しておりました。

自意識過剰でネガティブって色々と気苦労が多くて脳内リソースの無駄遣いだとよく思います。全く考えないのもどうかと思うけど考えすぎても答えがないもの。考えた挙句とった戦略がお粗末ならイタい意識高い系に堕ちる。

オチはなし。

コーエーの信長の野望という歴史ゲーム(たしか天翔記)で、武将を教育するのに茶道というコマンドがあった。実行すると武将が「茶の湯の中に政治が見えた気がします」などと言って、政治力などのステが上がる。

この茶の中に政治が見えるという境地?というか感覚?ってどんなんだろうと、いつも茶を飲みながら考えているのだけどわからない。茶道をやっていたひとに「この文句はどういう意味ですか?」と聞いても知らんといわれる。

茶の道に政治がわかる道理があるのかよくわからぬままなので、いつか解消したいとおもっているが解消しない。あのゲームの武将たちはいったい何を見たのだろう。
ずっと前に熊本の人と酒を飲みながら議論をしていたのだけど、その時に「ごみさんみたいな人のことをひごこっもすというんですよ」と言われた。頑固者という意味で言われていたようだ。でも九州なんて興味ないし親戚も友人もいないし、その当時は九州に行ったことすらない。ひごもっこすは違う気がするなあと思っていた。褒めているのかバカにされているのかもわからない。とにかく熊本にやつにひごもっこすと言われて悪くない気持ちだったので覚えている。

自分探しとか、自分のアイデンティティは何かとか、青臭いことをする気はないのだが、土地性というのはいい意味でも悪い意味でも、自分が何者であるかを表すので気にするものではないかと最近になって思っているところ。

…ところが、わたしは神奈川県で生まれて東京で住んでいるんだが、そこの先住民?ではない。

県民的性質というものがあるかもしれないが、それは自分のアイデンティティにはなりえない。アイデンティティになるものを探したい。それよりもずっと自分のルーツとなるのが、親よりずっと前、高度成長期に都心にでてきて商売していた祖父母の性質にこそ、自分のルーツがあるんじゃないだろうかと思うにいたる。現在の都心に住む人のほとんどが田舎から出てきているから生粋の江戸っ子を都内で探すほうが難しい。ま、それはいいのだけど、土地性に根ざした性質が自分に無いのは土地に対して自分が自由であるといえていい気もするが、自分を成立させてくれる属性を貰えないのはちょっと寂しい。。。

とにかく俺は何なんだろう…そう考えていたところ、もっとぴったりなのがあった。それがメチャカモンである。

ひごもっこすと同じく頑固者の意味だそうだ。自分の手元に10年以上前に無くなった祖父の免許証がある。記念にとっておいたものである。この祖父が長野か山梨なのか忘れたが、わりとアクのある人だったとかそうでないとか。。。たぶんアクの強い人だったのだろうと思う。そう思いたい。その理由は…その人の子らを見ればわかる(ぇ)。閑話休題。孫の目からみて正月しか会わないので祖父のカオしか見れなかったのがちょっと残念である。にこにこしたおじいさんでしかない。まあ、ちょっと周囲の人の対応がアレだった気がする。年のせいか知らないが気が難しいかったとかそうでないとか大人が話していたような。

祖父は長男じゃないので都会に出て商売して生きていくしかなかったとか、それが最善だと思ったのか知らないが、とにかく商人やってうまく生き伸びたので、今の私がここにいる。そう思うと、とても尊い感じがするし何か受け継ぐものがあるんじゃあないかと思う。

他人に頑固だとか捻くれ者だとか言われる(まあ自分では思っていないがw)。これを説明するのが祖父からきているメチャカモンだと思いたい。ただ説明するいい言葉に使いたいだけといわれればそれまでだが、メチャカモンならメチャカモンのいいところを受け継いで伸ばしていけたらいいのではないかと自分を肯定的にとらえて思い込むことにした。

甲府はマーケティングにおいても商品やサービスが流行りにくい場所だといわれているとか。山の中の人たちは保守的で頑固が多いからだそうだ。ほんとうかどうかしらないけど。

山梨県の県民性
http://president.jp/articles/-/13686
ブログよりも、
ランキングが低いとわかったので、
もっとがんばることにしました。

なにをがんばるか、まだ決めてませんが。
子供にプログラミングをさせよう的な動きが盛んな今日。

わたしも昔はみんなプログラミングを学べばいいのにと思っていたころがある。

だから頭が柔軟な子供のうちにプログラミングをさせればいいというのにはとても賛成だったのだが最近よくよく考えてみると違う気がしている。小学生ぐらいの子供がプログラミングしている写真とかを見ると否定的な気持ちになる。

パズルを組み合わせるとプログラムが組めるみたいなソフトがあるが、それならはじめからパズルをやらせたほうがいい。数学的なセンスは紙と鉛筆をつかって考えたほうがいい。選択と繰返を組み合わせた何かをつくる行為は楽しいが得られる教育的価値はたかがしれているということ。

よくよく考えるとプログラミングやらせることのメリットってゲームとかがつくれたりキャラクタが動いたりするから「楽しい感じ」がするだけでそれ以上でもそれ以下でもない。それ以上ののびしろを提供できるかどうかは、本人の基礎能力に掛かっていると思う。

誤解されぬように繰り返すが、二次関数とか三角関数をうまく使う道具とかにコンピュータを用いるとかならわかるけど、プログラミングをやればITリテラシーが高くなるという目的ならあほらしい。(学習における)プログラミングは、考えた結果をわかりやすく表現するのが目的であって、考えるための手段ではない。考えるなら紙と鉛筆だけで訓練できる。

紙と鉛筆で学んだことがバカにならないなと思い返すことが多いので「ゲームは動くから楽しい」とか言わせているより頭の中で数学的概念を自由に扱える訓練をしっかりしておくほうがあとあと役立つと、自分を省みて反面教師的に思う。

自分の職業の話をすると「子供にプログラミングさせたほうがいいでしょうか?」と聞かれるんだけど、「させなくていい」と言う様にしようと思う。...したいならさせてもいいけどプラスにもマイナスにもならないと思います。技術者や研究者になりたいとしても、紙と鉛筆でできることをしたほうがいいし確実に実ります。
初めて買ったミニ四駆がダンシングドールだった。その次がなんとかエンペラー。