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後藤博亮のBLOG

人と出会って、音を奏でて

皆さま、お久しぶりです。チェコのブルノフィルで第1ヴァイオリンのパートを弾いて、早3年。ついに日本ツアーで帰ってくることができました!

これから茨城公演です。日本にいる間、半年も置き去りにしていたブログを始めようと思います(チェコ人はエレベーターで歌います。全国の皆さん、見かけたらそれはブルノの人です。)

よろしくお願いいたします。

こちら、全日程(手作り)です。



今日から全11公演、頑張っていきます!

本日はこちら。お世話になります!

ついに日本に帰ってきました!

魚しっぽこの2ヶ月はチェコ中をコンサートで駆けずり回った魚の骨日々でした。魚あたま
ブルノフィルの定演、オストラヴァの教会でマーラー、パルドゥヴィツェの音楽フェスでスラヴ舞曲全曲、教育コンサート、そしてリトミシュルのスメタナ音楽祭や、弦楽トリオのコンサート。。毎週3-5回という数えきれない本番をこなして、目が回りそうでした。恐竜くん



チェコに行く!
と決めたのは16年前。


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パヴェル フーラ氏と、弦楽合奏団「プラハ・カメラータ」の演奏を2002年に聴いた直後の写真。(昨日見つけましたウインク)

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そして昨日。プラハから先生が、故郷に訪れて下さいました。


今週土曜日、先生との共演が実現します。
福山に、チェコからいらしてくださいました。



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チケットはほぼ完売御礼。(当日券少しだけあります)

チェコから東京から、岡山から広島から、集まってくれたメンバーと、舞台は整いました。

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きっかけは先生の、「あんなに小さかった君が、もうチェコの立派な音楽家仲間だ。いろいろと紆余曲折があったけど、もう一緒に演奏しようよ」というお言葉でした。


そう言われて半年、いろいろな言葉や、仲間の後押しがあってここまで来れました。

感謝は、立派な演奏で返したいと思います。



↓こちらがプラハ・カメラータの演奏。美しい音圧に、少年後藤はやられました。



ここまで導いてくれた先生、本当にありがとう。

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『チェコ代表カルテット作曲家』
ヤナーチェク、スメタナ、ドヴォジャーク、マルティヌーのTシャツを着てチェコ音楽の宣伝。(ちょっと恥ずかしいことは否めないウインク)

とにかく泣いても笑っても、リハーサル始まりました!今日はいきなりホール練。大好きなドヴォジャークのセレナーデを、先生と創れる幸せは半端ないです。(サッカー日本代表の大迫も半端ないです笑い泣き)

『夢が生まれた日』の音を思い出しながら、新しい音色をつくっていきます!!

16年鍛えた音、



届け。



〜前回までのあらすじ

16年前、チェコの弦楽合奏を聴き、感動し、ヴァイオリニストになることを決意した少年後藤。
パヴェル ・フーラ氏からブルノ生まれのヴァイオリンを譲り受け、10年の厳しい特訓を経てプラハを目指すのであった。



私の代は、大学を卒業する時、卒業式はありませんでした。

実は私、卒業者発表のとき、友だちとアニメの映画を観に行っておりしし座、帰宅するついでに大学に寄るか〜と言っていたら、着信10件、メールも3件スマホ

当時のライバルで優秀すぎる同級生Tケイさん(Tレックスではない龍)からの電話。

青年ゴト(も、もしかして、、単位足りてない?卒業できなかったらどうしようガーン)

とかなりビビりながら電話をかけ直すびっくり

『もしもし、後藤ですが』(なぜ敬語)

『もしもし!?お前、何してたの』(Tケイさん)

『あのー、池袋で映画みてました』(完全に怒られる側チーン)


『おまえ、トウジだよ』


(ん?冬至?雪の結晶冬にいたる…雪ってことはやはり…!留年やや欠け月?どうしようマジで新月)

と本気で思った私はパグ


『Tケイさん〜えーんえーんどうしよう〜えーん親になんて説明しよう〜えーん

と言って完全に大焦り滝汗

『は?何言ってんの!?喜ぶでしょ』とTケイさん。

ゴト『ん?喜ぶ?むしろキレる』



…話していくと、どうやら落第どころか、卒業生代表の



“答辞”でした。キョロキョロ



『なんでお前が』という周りの目を浴びながら、その発表があることを知らなかったことを言い出せない当時の私←でした。


しかし、2011年3月、大震災の影響で関東の卒業式は自粛。

20ページ書いた答辞は、地元の達筆のヴァイオリンの師匠に完成させていただいたのにも関わらず、お蔵入りになりました。


卒業演奏会もなくなり、5月の新人演奏会までの演奏の仕事もなくなり、喪に服したような気分でデビューを迎えた年でした。

初めてのお仕事は、ポップスの歌手とのチャリティコンサートでした。

今考えると、仕事も毎日が勉強で、身体も精神も追いついていなかったのが現状でした。『何が卒業生代表』と打ちひしがれる毎日でした。


そして1年間フリーランスのお仕事をして、奨学金も頂き、ついにプラハへ旅立ったのでした。

プラハに着いた時は楽しくて嬉しくて。

最初はチェコ語の先生のお家に住み、チェコ語まみれの生活を送っていました。

そこで起こったこととは。。続く。

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当時のプラハ。この夏の夕焼けの時期が綺麗なんですよ。

うーん、ワインが…じゃま?口笛