今日は節分。しっかり恵方巻きを食べ、豆まきをしましたはぁとkkk

これで、我が家に副きたるハート オレンジ


さて、またまた闘病記のつづきです・・・・。


12月に移植のため大学病院へと転院になったのですが、そこでまず移植担当の先生との

お話で、かなり旦那様は移植に対し後ろ向きな考えとなってしまいました。

移植の先生が、リスクを背負ってまで移植をしなくてもいいのではないかとおっしゃったのです。

あとは、移植を行うと一年間は職場復帰はできないというとこにもかなり引っかかったようです。

治療だけで二年間職場から離れることになります。そこがどうも嫌だったようです・・・。

そして、翌日に血液内科の担当の先生との簡単なカンファレスを旦那だけが行ったのですが、こそでもかなり

凹む内容を言われました。

「これだけの治療をしてもまだ腫瘍がのこってるということはかなりやっかいです」とか「このままの治療法ではなおらないのでは」 など・・・・。

かなり凹みました。

その後、私もふまえ再度カンファレスをおこなったのですが、そのときはなぜか前とはちがってかなり治療に前向きで、挙句CTに映っているものは腫瘍の残骸の可能性が高く、今の感じでは「完全寛解」ですという言葉まで出たのです・・・。Σ(~∀~||;)なんだ?どうした??なぜ急に・・・。とかなり振り回されましたが、あとから聞いた感じだと、どうも最初の段階ではあまりカルテもきちんと目もとおさずCTもしっかり見てない状態で旦那様と話をしたようです。私とのカンアレスのときにはしっかりと内容に目を通してくれていたようです。

結局、その話の際に「移植は今のとこ必要ないでしょう」となったのでした。


大学病院での治療は、「JALSG 202」の地固めを1クール行い、その後PETをとって、再度また今後の治療法を考えましょう。ということになりました。


大学病院へ転院した数日、かなり気持ちが不安定になりました。

最終的に良いほうへ話がかわっていったのでいいのですが・・・・。

しっかりと資料に目をとおしてから患者と向き合ってほしいです。


私も旦那が悪性リンパ腫という病気になってからはかなりの勉強をしてきました。

疑問におもったことは、先生にも質問させてもらいました。

よく先生から「奥さんよくご存じですね!」という言葉をもらいましたが、旦那の命がかかってることです!

調べまくりましたわよ!!と何度も心で叫んだものです。


さて、大学病院で投薬が始まったわけです。

このクールは三日間の投与で終了です。

クリスマスとお正月も無菌室で迎えた旦那様。

でも、いつも明るかったです。なんせ寛解とい言葉をもらいました!移植も必要ないといわれました!

退院が見えてきたんです。


1月15日。無事に大学病院を退院し、1月24日のPETへ向かうのでした。


つづく・・・・。


今日は、昨日よりは少し暖かい感じハート

ハルが幼稚園から帰ってきて、旦那様もひきつれみんなでノンの保育園にお迎えにいって

その足で近所の公園へ。

旦那はリハビリがてら公園をゆっくり散歩してました。


明日は節分おに

ノンは保育園で豆まきをしたらしく、今日は頭に鬼のお面をつけたままのご帰宅。

公園に行くときもずっとお面をつけたまま・・・・。かなり恥ずかしかったです。

もちろん!保育園では鬼が登場したらしく、ノンはおお泣き。

迎えに行って部屋から出てきて靴を履くときもずっと「鬼さん家に帰ったんよ!」と何度も自分に言い聞かせていました´∀`

明日は、ハルの幼稚園でも豆まきをするそう。

はたしてハルはどうでるか!!


さて、昨日記載しました旦那様の闘病生活

5月から本格的な治療が始まりました。

5月から8月まで4クール行いました。1クールごとに血液の回復をみて外泊許可をもらって家に帰ってきてはいました。

そして9月から治療の中休みをふまえて放射線治療を行いました。

放射線治療を9月に行う予定が決まった際、私の出産予定日が8月31日でうまくいけば立ち会えるか!と思っていました。

旦那様は8月に入って血液の回復をまっての一時退院でした、産気づいた8月22日。旦那様はまだ病院・・・。

私は電話だけでもと、「たぶん陣痛きたから病院行ってくる・・・」と連絡をいれ病院へ向かい、もちろんそのまま入院。「入院になったから」と二度目の連絡をいれると「今からいくから!!」と。

エッ??ん??来るって?ヽ(*'0'*)ツ

なんと旦那は外泊許可を無理やりもらい立ちあったのですガーン

まぁ・・・上の二人を立ち会ったからなんとしてでも立ち会いたかったらしいです。

そして、そのまま放射線治療にはいったのです。

約一カ月放射線治療を行い、10月に残りの4クールを行う予定となっていました。


が・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

ここでおもわぬ事態に・・・・・・・・・・・・・・・・。


再入院した際の採血で、血小板が異常に減少↓し、急遽マルクをおこなったのです。

するとどうも骨髄に転移したかもしれないというお話。


投薬中に転移するとなるとかなり厄介なこと・・・。

かなり最悪の事態となりました。

先生が、すぐに治療法を変えましょうと、あと移植も入れて治療していかなくてはいけないと。

かなり凹みました・・・・。どうなるのだろうと・・・。

でも、治療は待ってはくれません。

さっそく「JALSG 202」という白血病に行われる治療法へと変更になりました。

これは、薬の量もからり増え、投薬開始三日後には無菌室へと移動になりました。

この治療を1クールおこなって、大学病院へ転院して移植へという流れになるという計画が立ちました。


最悪の状態でも、やはり救われることはあるもので、なんと旦那様のお姉さんと遺伝子が一致!

ドナー可能となったのです。

これで移植の準備は万端なったわけです。


旦那様は移植に向けてつらい治療に挑んでいきました。

そして、投薬終了と同時になんと・・・肺炎・・・・・・・。やられました・・・・。

肺炎が治らなければ次へは進めません。

肺炎は投薬中よりとてもとてもつらそうな旦那様の姿でした。



そして、12月。

移植にむけて大学病院へと転院したのです。

つづきはまた・・・・。




旦那様の闘病記と育児日記、飽きっぽい私ですが続けていけたらいいなぁと思ってますマイメロ


まずは、簡単な家族構成ドキドキ


○旦那様→只今「悪性リンパ腫」と戦ってますあせる

○私→姫三人と闘病中の旦那様と毎日戦ってます笑


○はる→長女 四歳  毎日幼稚園で自分と戦ってます沈黙

○のん→次女 二歳  毎日おねいちゃんと戦ってますうっ・・・

○さや→三女 五か月 毎日成長していく体と戦ってますうまー!


旦那様の病気が発覚したのが去年の三月。その時私は妊娠5カ月でした。

告知を受けたとき、本当にこのちびちゃんたち三人を残してこの人いなくなっちゃうのか・・・・と

究極のとこまで考えてしまいましたが、すぐに気持ちを切り替え、いいえ!!乗り越えてみせるわ!!

とポジチブ思考でいきました。

実際、闘病生活をおくっていく中、何度も気持ちが負けちゃいそうになったりしましたが、でもでも、旦那様のつらさを目の前に私が立ち止まってるわけにはいきませんでした。

この気持ちを決して忘れてはいけないとおもって、ブログ初めてみました。


まずは、簡単にこれまでのことを・・・・・。


2009年1月中旬  背中の痛みがあり近所の整形外科に通いだす。

      3月28日  背中の痛みが一向に治らず、挙句に右足にしびれを感じだしMRI をとり

              右腸骨に影がみつかる。すぐに大学病院へ紹介状をもらった。

      4月初旬  大学病院にて診察。悪いものに間違いはないのですぐにPETと生検の日程をと                  

             る。    

      4月初旬  PETをうけ、その後の診察で「悪性リンパ腫」か「骨肉腫」の可能性という診断

      4月25日  生検手術

      5月7日  「悪性リンパ腫 リンパ芽球性リンパ腫」という診断・・・・

             すぐに治療がひつようということで、家から近い総合病院へ紹介状をもらい、帰り

             道そのまま病院へ紹介状を持っていき、翌日から入院となった。


            実は、5月4日に旦那は右足の激痛のため近所の病院へ入院していました。

            痛み止めの内服薬(オキシコンチン)では効かず、夜も眠れずのたうちまわっていた               

            ため、近所の病院へ点滴(モルヒネ)をしてもらうため入院させてもらってました。

            もうまったく歩ける状態ではなく、車椅子での移動となりました・・・。

            このときのことは私も旦那様も思い出したくありません。

                
     5月8日  入院。早速ステロイドの点滴が始りました。


この日から、旦那様の本格的な治療が始まりました。


正式病名 「悪性リンパ腫  Bリンパ芽球性リンパ腫」

治療法  hyper-CVAD