武器学校60周年記念行事(最終回) | どるにえ北多摩製造廠

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ここまでは各種装備品中心に見て回りましたが、
土浦・阿見という土地に行く場合、併せて行かねばと思う場所、
駐屯地内に建てられている「雄翔館(予科練記念館)」。

最後はこちらで閉門までの時間を過ごしてきました。




当時大佐であった山本五十六は、霞ヶ浦海軍航空隊の教頭兼副長を
務めていた時期がありました。当時から航空機に注目していた山本ですが
同航空隊での勤務が、以降の航空主兵論確立へ多大な影響を与えた事は
想像に難くありません。




館内には、予科練生や出身者達の日常的な手紙や遺書、遺品や縁の品が
多数展示され、とても1時間や2時間で全てを見て回れないほどでした。


閉門後、駐屯地東に隣接する予科練平和記念館も見学。
こちらは比較的デザイン性が強く、一部にやや見づらい場所もあったりしましたが
予科練生の手紙などは一人あたりの点数が多く、全て読むには数時間を要します。


ここではちょうど回天特別展をやっており、実物大模型やドラマ『僕たちの戦争』で
使用された操縦室なども見ましたが、暗くて狭い、圧迫感のある空間でした。
簡素な潜望鏡による位置測定と、困難な操艇を一人で行う事となった隊員達は
何を思いながら死地に突入していったのでしょう。



二つの予科練記念館にあった手紙や書・遺書などの見学では、達筆な方が多く
判読困難な物も多かったのは残念ですが、どの方にも共通していたのは
家族や親類への感謝を忘れない謙虚な気持ち、そして国を救いたいという
悲壮なまでに真っ直ぐな思いでした。


戦争末期には予科練生も特攻に参加するようになり、飛行機に乗るどころか
ボートや回天などの特攻艇、更には潜水服での訓練中空襲を受けて、
命を落とした隊員も沢山おられたといいます。


彼らの年齢は今で言う高校生~大学生くらいがほとんどで、本来なら
我々と同様に色々な形で青春を謳歌し、いずれ人の親になっていったでしょう。


彼らがこんな形で自身の未来を捨てる事になるまでの過程には
様々な思いがあったでしょうが、そんな悲惨な状況に追い込んでおきながら
国民に事実を知らせず、あまつさえ本土決戦などという夢物語を嘯いては
自己の保身に汲々としていた輩には怒りがこみ上げてきます。


去年の大震災などにおいても、政府や東電など当局の対応は
まさに当時と同じ国民軽視の体質そのもので、肌が粟立つ思いでした。



自虐史観もいけませんが、むやみと当時の日本が素晴らしかったなどと
妙な国粋主義的歴史観に陥るのも困りもので、可能な限り
起こった事をそのまま伝え、またその機会を増やす事が必要だと思います。


日本では過度の戦争アレルギーのため、この手の話をすること自体が
長らくタブー視されていましたが、近年国を取り巻く情勢が
かつてないほどに緊迫の度を強めてきた事で、ようやく国民の間にも
国防への関心が高まってきた事には、一つの時代の終わりを実感します。


今回訪れた陸自土浦駐屯地は、言うまでもなく日本を守るための施設です。
国が窮地に陥っている今のような時こそ、こうした一般開放イベントを通じて
自衛隊・国防の意義を周知し、これまで疎かにしてきた日本の国家観について
国民の間に建設的な議論が深まっていく事を望みます。



少々暗い話が多くなりましたが、土浦・阿見という立地上、
この話を避けては通れないだろうと思い、長々と駄文を書いてしまいました。

また、書き始めが遅く、更新ペースもゆっくりだった結果、一日分としては
随分と時間がかかってしまったのも、今回の反省点となりました。



ともあれ、武器学校60周年記念行事のレポはこれにて終了となります。
最後に、印象には残りつつも火砲編で紹介しきれなかった写真を貼っておきます



203mm榴弾砲M2、通称8インチ。肉厚の巨大な砲身に奥様もウットリ。
資料館に砲弾や装薬、各種信管がありましたが、砲弾完成重量は100kg以上。
これを人力で装填しますから、布陣作業も含め丸っきりドカタのような仕事だったと
元隊員の身内が言っていたのが印象に残っています。

射程は約16kmとあまり遠くまで飛びませんが、その分威力は抜群です。
現在は射程の延伸された型が自走砲化され、要員も13人となり
射撃操作も大分楽になったようです。



では終わります。ここまで読んで下さり、ありがとうございましたm(_ _)m