あやかし教室

あやかし教室

あやかしとつれづれの想いを気の向くままに、
にゃんごろうと呼ばれてもぶさねこと言われても、
気にせず綴る。

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 都は飛鳥から奈良に移り天平文化の最盛期、聖武帝の時代には権力を手にした藤原氏の蘇我氏以上の専横が奈良朝を蝕む事になる。
 また聖武帝は後継の男子が幼いため、一旦娘を孝謙天皇とし長屋王とは従弟にあたる舎人親王の息子の淳仁天皇を皇位に付ける。実際は藤原仲麻呂(恵美押勝えみのおしかつ)の傀儡であった。
 
 橘諸兄(もろえ)に対し藤原広嗣が乱をおこし鎮圧され、諸兄の息子(橘奈良麻呂)が乱をおこし藤原仲麻呂が鎮圧し政権を握ったが、上皇となった孝謙が弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を寵愛し今度は藤原仲麻呂が排斥され乱を起こした。
 
 藤原氏と一部皇族や橘氏吉備真備の対立構造は軍備拡張と縮小の対立である。藤原氏は拡張、橘氏らは縮小を主張。
 
 当時の時代背景は白村江の戦いからおよそ100年経過しているが、日本海を挟んだ外交状況はまだまだ微妙であった。
 倭は渤海国と結び、唐との対立姿勢による軍備拡張での政治姿勢と利権の掌握が藤原氏の目的であったが、その支出が大きく国庫の財政を疲弊させていた。唐から戻った遣唐使で国政を担う吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)は遣唐使であったが故に唐の国力を知り疲弊した財政を立て直す為にも軍備縮小を唱え橘氏もそれにならっていて、なおそれぞれ藤原氏の専横ぶりも憎んでいた。
 
 藤原4家の生みの親、不比等は一説に天智天皇の落胤説がある。女御下げ渡しや異例の出世など、後世の平清盛の風説に類似する点が多い。清盛同様、不比等の傍若無人は4家の子供に受け継がれ以下の騒乱を起こすことになる。
 
 冒頭の対立構造がこの対立と相まって長屋王の変に始まる悲劇からその後続く三つの内乱が引き起こされる。
 
 奈良時代はこの様に内乱が頻発する不安定な政権でもあった。
 729年の長屋王の変より、740年藤原広嗣の乱、757年橘奈良麻呂の変、764年藤原仲麻呂(恵美押勝えみのおしかつ)の乱と続く。
 道鏡側に鎮圧された仲麻呂や先に乱を起こした広嗣などのため藤原氏は政権主流から遠ざかることに成る。また仲麻呂と連座した淳仁天皇は廃位され孝謙上皇が重祚(ちょうそ)し称徳天皇となる。
 
 内乱や諸事情による政情不安や有力者の失脚など天皇の不安の高まりは仏教に救いを求め、政治にその影響を及ぼし今度は天皇に寵愛というよりは溺愛された弓削道鏡という怪物を生み出す。彼は位人臣をを極め政権を握り、道鏡に皇位を譲り法王にまで上り詰めさそうとする思いに至る。
 称徳天皇は溺愛した法王道鏡への皇位の譲位は天皇の独断で決められ、周囲の反対に耳もかさず目もくれず推し進められる。そんな時、道鏡譲位問題を左右する宇佐八幡宮のご神託の騒動を和気清麻呂の命をとした奮闘で道鏡の野望を阻むことになる。
 
 病態であった称徳天皇は後継を確定せず亡くなり、後ろ盾をなくした道鏡も失脚することになる。
 壬申の乱以後、皇統は天武系となり吉備真備らは天武の系統の後継者を擁立しようとした。それを出し抜き藤原百川の暗躍で天智系の白壁王立太子として光仁天皇へ、尚且つ長子ではあったが生母の身分が低く皇后の生母を持つ皇太子であった異母弟を廃して山部親王(のちの桓武帝)を立太子とした。
 
 不比等の暴慢は孫である広嗣の内乱を助長し政権から当座けることになるが、天智系の桓武帝を担ぎ出すことになった百川の働きは改めて藤原氏の勢力を政権の中枢に居座らせることになる。
 奈良朝から平安朝への変遷はこのような一面を持っている。
 
 

ニュースで問題をお起こした関電の謝罪会見があった。

 

先日、雪印の食中毒と輸入牛肉の偽装問題の特番があった。

 

これを見て思い出す事例が結構あること思い出した。

 

日本バブルの最盛期、リース物件の担当をしていたころリース会社の担当者からアポの連絡があり

対応したところ知らない人間が無断で同席した。

長期信用銀行の人間で一人、ハイヤーで当社に乗り付け入ってきた。

リース会社の担当者が断れない関係の人間であったようでその担当者は女性で傍目で分かるほど恐縮していた。

長銀の人間は露骨に融資の話を持ち出し丁寧ではあるが、貸してやるから関係者に取り次げと要望してきた。

会計責任者に確認し丁重にお断りした。

 

同じような時期、ワープロと電子手帳で一世を風靡したシャープよりワープロを導入していた当社に、

その会社の担当者でない者から連絡があった。担当者が結婚するから社名で祝電を打ってくれという。

担当者が結婚することも知らなかった。担当者からは一言も聞いていなかったので軽く受け流した。

その後NEC・一太郎・ロータス123の時代になり、windowsが台頭しだしたのでその後担当者と会う事はなかった。

 

ちょっと間が空くが、ドコモでgalaxyを使ってた頃、新機種が出て機種交換したところすぐに電話が繋がらず、

メールが受発信できないことが、不定期に連続して発生しだした。すぐに販売店に出向き受付の女性に話すと

アプリの調子が悪かったんですねとニッコされた。黙って解約することにした。

その月ドコモの解約件数が3万件を超える記録的な月になったらしい。

 

OCNを利用し電話も通常回線からネットに切り替えることにした。電話番号はそのままで切り替えられたのでそのまま移行した。

まだ電話帳が作られているころで、電話帳には記載しないことにした。ところがジャンジャン売り込みの電話が掛かってくる。

相手はNTTからだった。日本語が通じない会社だと分かったので他社に切り替えた。NTTとは完全に縁が無くなることになった。

 

最後に関電。

コロナが始まる少し前、昼食時に電話があった。電気料金が安くできる方法があるから請求書を持ってきて見ろという。

すぐに言うとおりにするのが当然のように言ってきた。安くなるかならないかは確認しないとわからない事案であった。

どうも安くなるというとすぐに我々は従うべきと思っているように。eoモバイルでも同様な事があった。

 

単なる愚痴か、それとも危うい会社の法則か。

1ユーザーと1一担当者の一案件と単に片付けることはできるが、兆しはそんなところにあるのかも。

蟻の一穴が究極のクライシスマネジメントかも。

 

 

 

 

 

スーパーマリオネーションとはイギリスのジェリー&シルヴィア・アンダーソン夫妻によって企画された人形を使った特撮のドラマで代表作はサンダーバードになる。

今回はその特撮がどんな順番で制作された順番に並べました。

 

1964年制作された原題はスティングレイ、日本版タイトルは海底大戦争。

当時は原子力潜水艦シービュー号などの海洋ブームで映画やドラマの舞台が海で特に特撮は海中を設定していた。ちなみに自作のサンダーバードもその色合いが強い。

オリジナルのOPは全然違う。日本版の方が子供が喜びそうな感じであった。

 

2作目がサンダーバード。1965年。

これが代表作になった。

 

3作目はキャプテンスカーレット 1967年

「我々はミステロンだ」 

この言葉を喉をたたくか扇風機に向かって声を震わせる発声せるフレーズがはやった。当時は流行語大賞が無かったがあればランクインは間違いない。

宇宙の舞台ではUFOと宇宙人の侵略が定番であった。

 

4作目はジョー90 1968年

この物語は脳波記憶伝送機を開発した博士の息子が主人公で諜報活動に必要な能力のデータを脳に転送し、少年が007顔負けのスパイ活動をする物語である。

 

5作目はロンドン指令X 1969年

ジョー90に続きこの物語も諜報活動がテーマだが主人公は神父となっている。残念ながらこれはOP動画が見つかりませんでした。

 

 

6作目は謎の円盤UFO 1970年

スーパーマリオネーションではなく人間のドラマとなっている。

ただし特撮はこれまで通りジェリー・アンダーソンが関わっているが制作はスーパーマリオネーションではAPフィルムズ。今回はその後継であるセンチュリー21プロダクションの制作になっている。

この作品も宇宙からの侵略者から地球を守るテーマの作品。

 

7作目 スペース1999 1975年

前回作、「謎の円盤UFO」の後継作。

もともと侵略者からの前線基地としてムーンベースという月基地が舞台になっていたが、その月で不要な核物質が爆発を起こし月がその影響で衛星軌道を外れ宇宙をさまよう事がストーリーの設定である。

前作は非常に人気があり、この次回作となったが前回ほどの人気はなかったようである。

 

小学校から見続けたこの一連のシリーズはこれで終わることになる。

次は円谷プロの同時期のOPをまとめる。

 

このアルバムは1978年にリリ-スされたもので、アランフェス協奏曲のアレンジをメインテーマにしている。

メンバーは下の通りであるが、当時のリー・リトナーのバックが入っている。

当時は日本のミュージシャン、特にジャズ、フュージョン系でナベサダや日野照正、増尾好秋、このアルバムに参加した大村憲司、渡辺佳津美、深町純などなど、それぞれのネームバリューが世界で認められ一般にも知られ出した時代でもある。

 

 アルバムはクラシックギターの定番と言えばアルハンブラのの思い出とこの曲が、誰でも思いつく名曲中の名曲アランフェス協奏曲がフュージョンアレンジされて収録されている。

 オリジナルの構成を踏まえ3部構成でイントロはアコギで曲のイメージを変えず静かに始まる。あとは深町のアレンジで3人のエレキをふんだんに生かした曲になっている。

 フルアルバムでおよそ37分のデータであるが、テーマ曲は20分弱を占めている。

 私にとってはフュージョンジャンルで1番に思い出すアルバムです。

 アーティストや曲のリストは下をご覧ください。

 

コンチェルト・デ・アランフェス。

●参加アーティスト
大村憲司(ギター)
渡辺香津美(ギター)
リー・リトナー(ギター)
アーニー・ワッツ(テナー&ソプラノ・サックス、フルート)
デイヴ・グルーシン(キーボード)
ドン・クルーシン(キーボード)
深町純(キーボード、編曲)
エイブ・ラボリエル(ベース)
アレックス・アカーニャ(ドラムス)
スティーヴ・フォアマン(パーカッション)

 

・トラックリスト:

1.  Concierto De Aranjuez (アランフェス協奏曲 )
2.  I Never Was A Cowboy(アイ・ネヴァー・ワズ・ア・カウボーイ)
3.  Latin Stuff(ラテン・スタッフ)
4.  I Feel Breeze(アイ・フィール・ブリーズ)
5.  Tighten Up(タイトゥン・アップ)

藤原氏は三度の失態で政治の表舞台から退場し、三度極めて重要な役割で表舞台に復帰している。

一度は姓が違い中臣氏と名乗った時代。
一度は同じ人間が一人で没落と復帰を。
全て天皇に関わってである。
また武家が平氏、源氏、北条、足利、織豊、徳川と変遷する間、それを全て乗り越えて。
そして特に日本の王政が確立されるタイミングにである。
 
1度目。
崇仏派であった蘇我馬子は用明天皇の崩御後、継子問題を端緒に排仏派である物部守屋と干戈を交る。
崇仏派である聖徳太子は、蘇我氏に組みし打倒守屋を標榜して開戦に臨む。
 日本最古とされる石上神宮(いそのかみじんぐう)が氏神で天孫降臨の饒速日命(にぎがやひのみこと)を祖に持つ物部氏、天孫降臨の時の饒速日命の随行者である天児屋命(あまのこやねのみこと)を祖に持ち国の神事を司る中臣氏は、台頭する蘇我氏への反感がベースにあったかもしれないが国是としての渡来神の受入は認められず、排仏派として対立する事になる。
 丁未(ていび)の乱または物部守屋の変である。当初は物部氏が優勢であったが、聖徳太子が四天王寺や信貴山で四天王特に毘沙門天に祈願し勢いを得て軍の士気を高める。その勢いで崇仏派大将の迹見赤檮(とみのいちい)が排仏派総大将の守屋を射殺す。
 中臣勝海は対立した押坂人彦大兄皇子(おしさかひとひこおおえのみこ)と竹田皇子(たけだのみこ)の呪詛を屋敷で続けていたが、守屋の敗戦を知り呪詛していた押坂人彦大兄皇子に帰順を申し入れ寝返ろうとするが迹見赤檮に急襲され撃たれる。
 この結果、物部・中臣両氏とも政治の主流から追われてしまう。そして政界は蘇我氏の独壇場になって行く。
 ただここに出て来た押坂人彦大兄皇子の子が舒明天皇(じょめいてんのう)でその子が天智天皇と天武天皇になり現在の皇統の始まりにあたる。
 中臣氏はこの始祖を呪殺しようとしたのに、この後この皇族に纏(まと)わりつくように氏族の発展を遂げる事になる。
 
 この事件後わずか約60年で中臣氏は復権の機会を得る。
 周知の乙巳(いっし)の変が天智天皇と中臣鎌足により起こされ、大化の改新と呼ばれる政治的刷新の端緒となった。
 このクーデターは隋から唐に変わる経緯を下敷きにしているのも周知の事であるが、この改革が明治維新のモデルでもある。
 王政復古の号令は近代国家の幕開けには似つかわしく無いほど古色蒼然としたものであったが、切り替えるべき人心の掌握と改革を進めるべきリーダーたちとのイデオロギーの大きなギャップは今の時代でも大きく変わって無いようにも思う。

 蘇我氏が排除され中央集権の色合いがこれまでよりは少し濃い政権運営が開始される。
 中臣氏は藤原姓に改まり政権を蝕む外戚が歴史の舞台に登場する事になる。
 天智帝死後、天智帝の後継は天武帝のおこした壬申(じんしん)の乱で誅され、以後天武帝の血統が続く。

 3回に分けてこのテーマを続けるが、次回は皇統が天智帝系の復活になる。
 皇統の系譜の中で兄弟や近親の争いは時代を降って続けられるが、天智帝と天武帝の忌まわしい争いが、この系譜の流れの最初にあるのは極めて象徴的である。
 
 
 

楢本神社の正式名称は雲柑寺坐楢本神社(うんかんじにいますならもとじんじゃ)、それは雲柑寺の中に楢本神社があるという意味になります。

お寺の中に神社があったとはどういう意味かといいますと、

お経にはいくつかの種類があります。その中に講式という形式で書かれたものがあり、数多(あまた)の講式の中に「神祇講式(じんぎこうしき)」があります。字の通り僧侶が神前で唱えるものです。

その一説にこんな文章があります。

「遍照金剛の密教を和国に伝えたまうや、丹生の明神はその地を与え、伝教大師の顕宗を台嶺に弘めたまうや、日吉山王はその法を守らせ給う。」

言葉と文章の意味は以下の通り。

遍照金剛(へんじょうこんごう)とは弘法大師(こうぼうだいし)空海。

密教はここでは真言宗。

和国は日本。

丹生(にぶ)明神は高野山に空海の道場を作ることを許した。

伝教大師は最澄(さいちょう)。

顕宗(けんしゅう)とはこの文章では天台宗。

台嶺(たいれい)は比叡山(ひえいざん)。

日吉山王(ひえさんのう)は日吉大社(ひよしたいしゃ)の主祭神です。文意は比叡山の鎮守(ちんじゅ)は天台宗を擁護した。

と説かれています。

 

神道の神は古来より日本にいて、後から入って来た佛教はその許しを得て広まったものです。

佛教で祀られる佛(ほとけ=死んだ人ではありません、悟りに至った者)、菩薩(ぼさつ=ほとけに成ろうと修行する者)、明王(不動明王など)、天部(てんぶ=毘沙門天・大黒天など最後に天がつく神様)はお寺やお堂を作る時は必ずその土地の鎮守に許しを請うのが当たり前で、例えば佛教で地鎮(じちん)や鎮壇(ちんだん)の作法をするときでも、先にその土地の鎮守に許しを請うのは当然の礼儀です。

 

東大寺2月堂のお水取り、各お寺で焚かれる護摩や祈祷、有名寺院の儀式でも、そのお祭りの最初に管長や門跡が壇上に上がって唱える宣言のような口上、表白(ひょうびゃく)や願文(がんもん)にも必ずその土地の鎮守やその地に関連する神様に許しを得たりお断りをする文言が入っています。

決して仏教と神道の神様は無関係に存在するのでは無く、仏教の儀式は神道の神様に礼儀を持って対することが各儀式の通例です。

ですのでこの儀式の中には作法や修法の中で大祓いなどの祝詞に使われる祓いの詞を盛り込まれる事もあり、宗派の違いはあるかもしれませんが、僧侶はその程度はそれなりに知っているはずです。

 

 さて楢本神社ですがもともとは雲柑寺の中に宮があり祀られていたものと思われます。

これまで述べたように仏教は神道の神様の許しを得たり、力を借りて日本で広まることになります。

 

 私は真言宗醍醐派の修験者で本山より修験道教師を委嘱されています。そして上醍醐の主管より推薦され西国三十三所札所会の先達に任命されたことがあります。過去に十回以上導師として大人数で三十三所を回っているのですが、これらの多くの寺院にはその土地の神様を祭る小さな祠や宮が必ずと言っていいほどあります。特に三十三所が始まったとされる平安以前の古い寺院には多いと思います。楢本神社はそれよりはるかに古い神社ですので、雲柑寺との関係も今想像されるより密接なものであったと思います。

 

 宗教の概念は時代によって大きく変わっています。仏教も奈良時代、平安時代、鎌倉時代で大きく変化し今の宗派の違いは鎌倉・室町あたりで確立したものです。

 

 神道の変化は仏教の渡来、道教に関わる陰陽道の渡来、平安時代の密教の渡来で哲学的に大きな変化を遂げていきます。そして南北朝の後醍醐天皇が唱えた王政復古で改めて政治とかかわり、明治維新の王政復古もそれに模倣したものですが、この時代は民主的な思想がキリスト教と共に一般に広まりこれも神道や仏教に大きな変化を与えました。これらの宗教は江戸時代以前と明治以後でも大きく違いますし、今多くの方が持たれている印象は戦後、財閥や軍閥が持つ日本的封建主義の意識を崩壊させようとした欧米の自由主義やソ連の共産主義に作為的に変えられた側面もあると思います。

 

 難しい話は別として、本当に仏教が入って来た時代の認識で考えると、日本古来の神様、土地神や山神はどちらかというと目に見えない先住民がいてそれを先祖のようにあがめたり、地主のように敬って何かするときはお断りを入れたり、その神域に勝手に踏み込まないようにしたりなどちょうど目上の人に対する接し方ではなかったかと思います。民俗学者の調査や学説を見ても当時の人間がそのように身近に感じていたように思います。

今は現在の認識が出来てしまってそれに囚われていることが多いので、固定的な視野では無く長い歴史で作られてきた偏見を知りそれを除いて考えて頂けるとありがたいです。

 次回は神道の穢れや不浄と女性に対する認識についてまとめたいと思います。

吉新と楢本神社について 5

 吉新の歴史と楢本神社について

嘉永4年(1853年)の記録には吉田村 17家 新家村 9家とあり、福貴村 46家 久安寺村 77家からすると小さな集落でしたが、同時期の記録によると新家村は25家あったが不作などで困窮し9家になったようです。石高による税制と生産性が釣り合わず困窮の問題があり、大阪などの年が近いところから農地を捨てて都会に流入することもあったようです。平群では百姓一揆は起こっていませんが、役所と直談判する訴えや交渉は記録にもありこの頃には封建体制の制度不良が顕著であったようです。

 

こんな中で幕末、明治維新と経過します。明治元年(1868年)奈良県の名称となった。明治4年の廃藩置県で行政の体制は進行しますが、庄屋、年寄、百姓代の制度はそのままでした。明治5年には庄屋は戸長、年寄は副戸長に名称が変わります。明治14年から20年の間には奈良県は堺県や大阪府になりまた奈良県に戻ります。明治以後平群も上記のような変遷があり地域が確定しますが、こんな変化を見てきた楢本神社を祭った新家村、梨本村、西向村、現在の御陵園や県民グラウンドの近辺など梨本の旧大字領の氏神であたのです。

 

  明治維新の宗教弾圧は廃仏毀釈の仏教の弾圧で、江戸時代以前は神社内や併設された神宮寺という存在があり、神道と仏教は併存する存在でもありましたが、完全に神道と仏教は分離され特に神宮寺の廃絶はひどく例えば三輪明神の若宮はもともと三輪明神の神宮寺でこのようにお寺の形が残っているのはいい方で多くは跡形もなく子早生れました。実際楢本神社の雲柑寺もそんな存在であったようですがどのように廃されたかはわかりませんが、楢本神社の移動の理由の一因になったのかもしれません。ただ神道は優遇されたようにも思われますがそのあと神社の弾圧のような法令が発せられました。

明治39年の神社統合令です。言葉の通り神主がいなかったり、集落の人口が少なかったり取り敢えず神社を統合して神社経営を合理化するというような目的の法律です。施行については県知事の裁量で大きく左右され近畿では三重はもちろん滋賀や和歌山もひどく、和歌山在住の民俗学者の南方熊楠(みなみかたくまぐす)が国是に対して反対運動をおこし地域の鎮守や文化を守ろうとしました。政府も行き過ぎを認め改めようとしましたが、一旦統合された神社は元に戻らず、地域の鎮守を失った集落が多くあったようです。

 

  これまで楢本神社の知っているところを紹介させていただきましたが、記録や客観的に掴める関連する事実や資料の中でわずか200年ほどの間でも、このような存亡の危機がありました。

実際は延喜5年(905年)醍醐(だいご)天皇の発願により始まった、延喜式の作成と成立は62年かかりました。そこに名のある楢本神社は1100年以上この平群にありますので、存続の危機はもっと多かったと思います。この地を見守った鎮守をこれまでのように、単なる宗教的な遺物ではなく、代々その存在を大事にしてきた先人の遺産として、千年以上続いてきたこの地の文化として、住民皆さんの気持ちでこれまで同様質素な佇まいを残し何代も後にバトンをつなげるよう護り維持したいと思います。

大正4年には何らかの修築があったようですが、今回考えています社務所の建て替えや、拝殿屋根の葺き替えとできれば本殿を囲う板塀の修理が必要です。

 

  さて吉新は今も吉田村と新家村の名残がありますが、一つの集落に二つ地蔵があるのもその一つだと思います。その片方、吉新の北の端にある地蔵ですが、6つの石像が並んでいて普通は六地蔵を思うのですが、掃除をしてみて地蔵で無いものが3体ある事に気づきました。正面は仏像ですが横に昔の個人名があり、個人の石像が混じってしまったものか疑問に感じていました。ところが史跡を守る会の方からの問い合わせで、江戸時代にスポンサーを募り、平群を一周するような規模で四国の八十八か所の参拝ができる石像であることが分かりました。1番は信貴山の多聞院から始まり、88番は若井の墓地にそれぞれ石像(八十八か所の本尊)があります。全体では40カ所見つかっています。その地蔵堂に紛れ込んだのは61番と64番と弘法大師像です。ほかに正明寺の寺墓に60番、長楽寺に59番があります。正明寺の寺墓には地蔵堂に入れなかったのではないかと思われる地蔵も3体ほどあります。61番と64番の間は間違いなく吉新にあると思われますし場所がもとまっている所から近くにあるものと考えられます。

楢本神社の祭神、稲荷社とご神木の楠について

 聞くところによると吉田村の鎮守であった春日社に稲荷社は併設されていて、春日社と一緒に楢本神社に移設されたという事です。私の家の記録と伝えによると今から200~150年ぐらい前に京都の醍醐寺の修験者 海然(かいねん)が稲荷大社の山頂の一の峰中央部に祭られた白髪(しらひげ)稲荷の御分霊を勧請(かんじょう)して、同時に同じ御分霊を当家にも勧請したとされています。そのため当家では鎮守にお願い事をするときに急ぎの場合は、家のお稲荷さんにお参りすれば良いという伝があります。

 春日社に稲荷社が併設された事情は不明ですが、廃仏毀釈と同時に明治5年修験道廃止令が発令され一般に知られる廃仏毀釈よりも修験道はひどい弾圧に会い一時期修験道そのものが世の中から消えてしましました。今の修験道はそののち細々と復興した姿になります。ですので修験者が稲荷社を勧請できたのは明治5年(1872年)以前という事になり、今年から逆算すると149年以前ですので実際は江戸時代の終盤では無かったかと思います。

 いくつかの疑問があります。吉田村の鎮守になぜ稲荷社が併設されたのか。新家村の在であった当家に吉田村の鎮守に併設された稲荷社がなぜあるのか。その時期に重なる時、当家に郡山藩に出仕した15人扶持の検校(けんぎょう)がいます。検校とは盲目の人間が成れる最高の官職です。検校が成れる役職がいくつかあるのですが、寺社の勘定などに関わる役職があるのでそれに関わった事などが考えられますが今は不明です。

 楢本神社の鳥居をくぐってすぐにご神木の楠(くすのき)があります。浅野家のお爺さんが植えたとされています。ご神木の樹齢は100年以上経っているようですが、楢本神社が今の場所に来たのは明治24年(1891年)ですので今年からさかのぼる事130年ですのでこの時期が妥当な植樹時期になると思います。

 私の祖父は虎勝で明治35年の生まれですからこの時は生まれていません。その父の猶一は1872年生まれでその時19歳。虎勝の祖父弥五郎は当時47歳ですので彼が妥当な植樹者であると思われます。

 当家は新家村の庄屋として代々弥五郎を襲名してきましたが、この弥五郎が最後の弥五郎になります。彼は64歳で亡くなりますが、43歳で息子に家督を譲ります。息子猶一は15歳でした。廃藩置県が明治4年(1871年)、当家の検校がそれに伴い郡山藩出仕差し止めとなり隠居させられました。江戸時代の制度が明治の新しい行政制度に移行し庄屋は地区の総代となりました。行政に振り回された弥五郎や猶一が当時大変苦労した伝が当家には有り、楢本神社の移設はそんな時期と重なります。

 さて稲荷明神は御縁の神様として知られていますが、なぜご縁の神様かというと全国にある本社、摂社、末社の数が多くそのネットワークでそのご縁が結ばれるからです。一説には32,000社とも言います。

 

柏手(かしわで)について

 ある宗教学者によると2礼2拍手1礼が世に広まったのは平成になってからだと言います。確かに私の子供のころ2拍手はよく見かけましたが、2礼2拍手1礼を一般の人がされているのは見かけることが有りませんでした。その学者によると2礼2拍手1礼は神官が行う作法の一部を切り取ったもので、一般の人間が拝礼する場合にはふさわしくないと言います。少し乱暴な意見ですが確かにと感じる部分もあります。この作法の問題はともかく拍手の意味には諸説あります。

 私が思う説は一般には魏志倭人伝(ぎしわじんでん)、正確には後漢書(ごかんじょ)東夷列伝(とういれつでん)和人条(わじんじょう)、いわゆる邪馬台国(やまたいこく)の事が書かれている文章に次のものがあります。

①          見大人所敬、但搏手以當跪拝。

(訳文) 大人(だいじん)の敬するところを見ると、ただ手を打って、跪拝(ひざまずき拝する)の代わりにする。

②          下戸與大人相逢道路、逡巡入草。傳辭說事 或蹲或跪 兩手據地 爲之恭敬。

(訳文)  下戸(げこ)が大人と道路で互いに逢うと、ためらって草に入り、辞を伝え、事を説く場合には、あるいはうずくまり、あるいはひざまずき、両手は地につけ、恭敬の態度を示す。

(注意) 大人とは身分が高い者、下戸とは身分が低い者。

①         は拍手の意味と目的で、拍手自体に拝跪(はいき)する意味があったことが解ります。

②         は日ごろの身分差の礼儀で、まるで江戸時代の参勤交代を思わせる描写になっています。

 どちらが先とは言えませんが、貴人と神様を敬う態度が自分から見て敬うのは同じようにしたものであると考えられますが、弥生時代にはすでにこの形が出来上がっていたことがわかります。

 

 吉新には2か所地蔵尊が祭られています。吉田村と新家村の名残だとは思いますが、その地蔵尊の事で面白いことが分かったので次月はそのことについて書きたいと思います。

楢本神社の祭神、春日社について

吉田村の鎮守であった祭神は春日社になります。50~60年ぐらい前に今の場所に移されました。

春日社は春日大社が本社で祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あまのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)の四柱(よはしら)です。ちなみに天児屋根命と比売神は夫婦神です。そして春日大社は藤原氏の氏神になります。この四柱は藤原氏と深い関係があります。

 

武甕槌命(たけみかづちのみこと)は常陸の国の一之宮(いちのみや)鹿島神宮の主祭神です。

経津主命(ふつぬしのみこと)は下総の国の一之宮、香取神宮の主祭神です。

天児屋根命(あまのこやねのみこと)と比売神(ひめがみ)は河内の国の一之宮、平岡神社の主祭神です。

また平岡神社には主祭神のほかに武甕槌命と経津主命が別の社殿で祭られています。

鹿島と香取は両方とも神宮となっていますが、延喜式で神宮がついているのは伊勢神宮を合わせて、この三社だけでその格式の高さと由緒が解ります。

 

 まずなぜこの三社をまとめて春日大社とされたかの理由は常陸や下総は藤原氏の祖、中臣氏の支配地や任官地であり、河内は中臣氏の縁戚にあたる平岡連(ひらおかのむらじ)の本貫地で中臣氏の縁者が多く住んでいた、つまり中臣氏の一族に縁のある土地の一之宮の祭神をまとめたのですが、なぜ春日神社として創建されたのかについては次のような説があります。

 祝詞の「大祓詞(おほはらへのことば)」は「中臣祓(なかとみのはらへ)」が元になっています。中臣氏は大和朝廷の神官としての地位でしたが、仏教の伝来で仏教を受け入れる聖徳太子や蘇我氏とそれに反対の物部氏が対立し戦になった時に、神事に関わる氏族として当時の中臣氏の当主勝海(かつみ)も物部氏に加担し、戦に敗れ政界の主流から脱落します。その後大化の改新のきっかけとなる乙巳変(いっしのへん)に天智天皇に加担した中臣鎌足がその功績で政治の表舞台に復帰します。

 春日大社は称徳天皇(しょうとくてんのう)のみことのりで創建されますが、称徳天皇は奈良の大仏を造立した聖武天皇の娘で母は藤原不比等の娘で光明皇后になります。つまり復権した藤原氏が一族の地位を世に誇示する象徴として天皇のみことのりを利用して創建させたという説です。

  御祭神の武甕槌命と経津主命は出雲の国で、大国主命に國譲りを迫る神で武神です。

 天児屋根命は天孫降臨の時に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に従ってきた神で中臣氏の祖となっています。

いずれにしろ日本書紀や古事記の重要な役どころの神様です。

また春日という名称のいわれについても、どこからその名称が出てきたかについての説も中臣氏の一族や大和国の草創についての関りがあり少々複雑ですので今回は省かせていただきます。

 

  春日社と吉田村との関係は正確にはわかりませんが、西暦1000年ごろには平群の西宮などが興福寺の荘園となっていました。興福寺は鎌足の妻が夫の病気平癒を祈願し建立した寺が元になっていて、これも不比等が肩入れをして一時期は大和の国一帯を寺の荘園とした藤原氏と密接な関係を持つ寺でした。

吉田村は幕末の頃は幕府領でありましたが、それより古い時代には興福寺を含む南都の寺の荘園や領地であったであろう関係から鎮守としたのではないかと思います。

 

 祝詞(のりと)について

  現在の大祓詞は大正3年に内務省に選定されたもので以前の大祓詞とは一部違いがあります。

先述の通り大祓詞は中臣氏が作ったものが元になっています。

よく唱えられる「祓詞(はらへのことば)」【下の文の字と読みは神社本庁蔵版によります。】

 

(か)けまくも畏(かしこ)き 伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)

筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あわぎはら)

御禊祓(みそぎはら)へ給(たま)いし時に生(な)り坐(ま)せる祓戸(はらへど)の大神等(おおかみたち)

諸々(もろもろ)の禍事(まがごと) 罪(つみ) 穢(けがれ)(あ)らむおば祓(はら)へ給(たま)

(きよ)め給(たま)へと白(まを)す事(こと)

(き)こし食(め)せと 恐(かしこ)み恐(かしこ)み白(まを)

 

この言葉はお祓いの時にとなえられますが、これは黄泉の国から戻ってきた伊弉諾尊(いざなぎのみこと)がけがれをはらい自身を清める場面です。そしてこの時に天照大御神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つくよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのうのみこと)が生まれることになります。

 

併設された稲荷社については書ききれませんでしたので改めます。

合祀された状況や稲荷のいわれや柏手や参拝の作法についてもまとめたいと思います。

吉新と鎮守について

 

 平群村史によると17世紀ごろ、もともと吉田村の領域の中で米の不作などの凶作などがあり農民の逃散などで耕作放棄地が増加しました。当時の年貢は課税が地域の面積で決められていたようで、耕作地増加の必要に迫られ、他の領分から百姓を集め新しい村を作りました。それが新家村です。もしかしたら吉田村と新家村が一緒になって吉新となったのは、新しくできたので新家村、元は吉田村の領分で吉田村が先にあったので吉新の語順となったものと思われます。この頃からの天候不順などや幕府体制の制度不良などの問題の兆しがあり18世紀の享保の改革につながったのかも知れません。

幕末頃の楢本神社は新家村、梨本村、西向村の鎮守でした。明治時代に吉田村と新家村が一つになりましたが、吉田村の鎮守は別にありました。楢本神社内に移された春日社です。今も旧吉田村の講として楢本神社とは別の日に神事が行われています。

 

50年ぐらい前は10月15日が秋祭りの祭日で、その日は学校も半日で午後からは休みになっていました。その頃は「だんじり」も無く決められた神事が行われていました。当時は家々に提灯を上げ、辻々にも燈明を入れた燈籠を立て厳かな行事の雰囲気がありました。

その頃は庚申待ちや日待ちなどの行事もあり一般に大人が夜通しその行事に参加しました。

日待ちとは字の通り皆でそろって夜明けを待ち日の出を拝む行事ですが、夜明けまで皆がそろって待つ時間に、地域や集落、今では自治会の話し合いをする場になりました。

庚申(こうしん)待ちは中国道教の伝説から生まれた話で、人間には三尸(さんし)と呼ばれる虫が頭・腹・足にいてその人間の行う悪行を監視し庚申の夜、宿主の人間が眠るとこっそり体を抜け出し天帝に宿主の悪行を報告するという話で、この三尸の報告を受けた天帝はその内容を評定して、悪行を行った人の寿命を縮めるので三尸の報告を阻止するため夜通し起きていたという行事でしたが、日待ちとの区別があいまいになり廃れることになりました。庚申は「かのえ さる」の事で三猿を祭ったりします。

日待ちや庚申待ちは目的を考えると宗教行事でくくられるかもしれませんが、現在一般的に言われる宗教行事とは少し意味が違うように思われます。鎮守に対する信仰も同じで本当は、今のように神道と定義づけるほど形式的では無いように思います。

民俗学的には、日本はこの国土の地形ができで人間が大陸は朝鮮半島などから、また南太平洋からは島伝いに流入してきます。大陸からは北方系でシャーマニズム(巫術や祈祷 恐山のイタコのような)、南太平洋からはアニミズム(精霊崇拝 石や山をご神体とする)の習俗として入ってきます。神道はこの両方の融合で成立していることが解ります。ただ神道は律令制の中で確立されたもので、政(まつりごと)の語源は祭りごとであるように確立された当初より政治色が強いものでした。

ただ鎮守に対する思いは済む土地、その地域の集まりが持つ地域や集まりへの愛着と感謝が形になったようなもので、神社はそのシンボルのようなものでは無いかと思います。

自治会という集まりも同種のもので、郷土愛が基本のように思います。

 

  新しい神社は別として古来の神社などは神道の持つ一般的なイメージよりも古く氏神の起こりは、住み着いた土地での地域集合体のよりどころであり、血縁の集落では一族の守護神的なものになります。よくあるのが渡来氏族の氏神ですが、大陸の戦乱や災害を逃れ日本に移住するさい一族が敵の追撃や海を越えるなどの困難の時の守り神とした集団のよりどころとして重要な存在でした。

八幡菩薩や八幡神社はそれの好例で、八幡(はちまん)の幡は旗の事で一字では「ばん」と読みます。八幡は八つの旗をさし、それが一族か集団の象徴であったと思われます。それが神聖視され神格化されたものなので、ルーツは渡来氏族であると考えられます。またよく知られるように春日大社は藤原氏の氏神ですし石上神宮は物部氏の氏神です。政教分離は政治の常識ですが、政治体制がととのわない昔、組織や団体が一族の団結のために使われたのも事実で、華僑やマフィアにもその習俗は残っています。氏神にはそういう一面もあります。

ご存じのハリーポッターはケルト人の伝承による魔法使いで、ヨーロッパのケルト人という民族の風俗風習などの伝説です。ケルト人の墓は十字架に円形の輪をつけたような形状で非常に十字架と似ていました。他の民族がケルト人を統治しようとする時、十字架の似ていることを利用してキリスト教を布教し統治する手段としました。これは政治の宗教利用の一例で、神道にもそのような一面があります。

 

  春日社や稲荷社の由来、それぞれの祭神がどうしてここで祭られたかや、祝詞(のりと)や柏手(かしわで)などの神道の習わしについても改めて説明したいと思います。