突然ですが、なんと申しますか…
今日は、本当にやりきれない一日だった![]()
出来ないことが続くとホントにやるせない気持ちになります。
「負のループ」に迷い込んだと言うか、「自己嫌悪」発令中と言うか、
まず一つ、そもそも今の状態になってからは食器洗いが本当に苦手になってしまった。
以前なら無意識にごく普通にこなせていたはずの家事が、今は食器一つ洗うのにも神経を使い、時間がかかる…
滑りやすい洗剤、思うように力が入らない左手。 その不自由さと向き合うたびに、毎回毎回心の中で小さな溜め息が積み重なっていた。
そんな中、お気に入りのガラスのコップを洗っている時、手が滑って床に落としてしまい
ガシャーンという音と一緒に、粉々に砕けたコップ。長年使っていて愛着のあったガラスコップ、
あぁ、終わってしまった…。
それと同時に、自分の心までバラバラになった気がした。
細心の注意を払っていたはずなのに、それすらも守れなかった、出来なかった、自分への激しい悔しさと怒りがこみ上げてきた。
もちろんそのまま放置するわけにもいかず、怪我に注意しながら片付けするのにこれまた異常に時間が掛かる…
あぁ、やるせない…
追い打ちをかけるように、この時期季節の変わり目の日常作業が待っている。
ここ数日の好天気に合わせ冬の布団を干して、夏用のシーツに替えようとした。
以前なら、両手でパサッと広げて一瞬で終わっていたベッドメイキング。
だが今は、自由の利かない左手の代わりに、右手一本で格闘する。
布団一枚を干すのだって、何度もずり落ちそうになるのを必死に押さえなければならない。
何度もやり直したり、同じことを繰り返してしまいます。
たったそれだけのことに、恐ろしく時間がかかる。
過ぎていく時間はあまりにも残酷で、ただただ無駄に思えてしまう。
「時間ばかりが過ぎていく」「気持ちばかりが先行して焦りと怒りが複雑に込み上げてくる」「なんでこんな簡単なことができないんだ!
」悔しさと情けなさともどかしさと、ぶつけようのない怒りが湧いてくる。
不平不満をぶちまけるつもりは毛頭ないのですが、
そんな時に限って、人から「イライラしちゃダメだよ」「カリカリしないで」なんて言われると、何故か余計に頭にくる。
分かっている!そんなことは、自分が一番分かっているんです!
その人も決して悪意を持って言ってるわけでもないし、善意で助言をしてくれてるのだろうけど、傍からの見た目じゃ分からないこの葛藤や苦労を、分かったような顔で指摘されると、土足で心を踏みにじられたような、被害妄想じゃないのだけれどもなぜか悲しくてたまらない気持ちになる。
そして、その矛先が相手に向かい、不必要な喧嘩に発展しそうになることもある。
「あぁ失言だ」「言い過ぎたかもしれない」「あんな風に言いたくなかった怒りたくなかった」「なんで俺はこうなんだ」 そんな風にまた、理不尽な自分自身を嫌いになってしまう
。自責の念に苛まれるその感情のループが何より苦しい。
逃げ場のない重たい霧の中に閉じ込められたような感覚
自身でも理解できない矛盾した気持ちが重くのしかかってきます。
言い出せばキリがありませんが
「もっとできる、出来たはずなのに」「どうしてこうなんだ」「何故自分はこうなった」という理想と現実のギャップが、刃のように自分で自分を傷つけてしまうんです。
このような自分自身の中に抱える不安、言葉にできないモヤモヤ、誰にも言えないプレッシャー、そうした目に見えない葛藤と毎日戦っています。( ´•ω•` )
でも、ふと思いましたよ。脳内の思考を少しだけでも切り替えて、
この「イライラ」や「自責の念」は、自分がまだ「自分を諦めていない」からこそ湧いてくる、自分を守るためのエネルギーなんじゃないか?
って。
「分かってもらえない」「理解してくれない」のは、悲しいけれど現実です。
でも、他人に分かってもらえなくても、自分だけは自分の味方でいてあげたい。
自己嫌悪に陥るってことは、それだけ「本当はもっとちゃんとしたい、穏やかでありたい」と願っている証拠。 だから、今日からは「また怒っちゃった」と自分を責めるのを、少しだけお休みしてみようと思う。
代わりに、「今日もこの不自由さの中で、格闘しながら生活を投げ出さなかった。本当にお疲れ様
」と、自分に声をかけてあげたい。自分を褒めてあげたい。
シーツは歪んでいるかもしれない。時間はかかっても何とか布団は干せた。 お気に入りのコップは一つ減ってしまったけど、他の食器は無事に使える。今日も自分なりに必死に生きた。生きられた。生活できた。それで十分じゃないか。と。
ため息を、少しずつ深呼吸に変えていけますように。
ポジティブ、ポジティブ、ポジティブシンキングだ~(*´ᗜ`*)ケラケラ♪



