昨年の10月8日(土)に善光寺街道歩き旅の第2回として、上田から屋代までの区間を歩いた旅の第二弾、その2です。
当日の歩行ルートは↓。
街道復帰までの道のりや寄り道なども含めて歩いた総距離は23.5km前後だったようです。
今回もガイドブックは山と渓谷社の『ちゃんと歩ける 伊勢参宮道 善光寺街道』です。
その1では上田の街の西部で、漆喰が剥げてしまいどうやら修繕中の様ながら、袖うだつのある立派な恐らく元商家をしげしげと眺めたところまでをご紹介しました(↓再掲)。
こちらは一階や二階右側の窓がアルミサッシ化されていますが、玄関近くの土壁といい、建物左側二階の様子といい、なかなか古い家をだいぶ改装したものではないかと思いました。
二階建て母屋に平屋の看板建築がくっついた、ブロ友さんが小川町スタイルと呼んでいる形式の物件は店舗の屋上が広めの物干し台になってるようです。
時代感のある「西沢不動商事」の文字がシブくて良いです。
旧街道の町並が現代に残るとよくこんな感じの景色になります。
何やら街道右側にシブくて良い物件が見えてきました。
なかなかよい感じの物件が並んでいるので通り越してから別アングルで激写します。1枚上の写真で手前に写っていたこちらの物件は一階の格子といい、二階の窓のデザインといい土の壁といい、とてもよい風情です。
その左隣に並んでいる二階建てがこちら↓。こちらはさほど古くはないのかもしれませんが、黄土色の自然な色の壁や一階入口部分の戸のデザインがシブくて良いです。
選挙ポスターがちょっと気になりますが、構わず激写しました。
そのすぐ先に左にだけ曲がれる丁字路があります。街道の進路は直進ですが、左折する道の入口、赤い楕円で囲んだところに石のようなシルエットがあります。
この石がこちら↓。万延元年(1860)の「北向観世音道」の道標。ガイドブックを見ると「北向観世音は別所温泉にある」というようなことが書いてあります。
Googleマップで調べて見ると、この道標からだいたい11kmくらい南西に進んだところに別所温泉や北向き観音堂があったのでそちらに通じる道だったようです。
これがその北向き観世音道です。知らなければ普通の住宅街の道にしか見えませんが、そう言われると「ふむ、このナチュラルな曲がり具合がいかにも古道チックだ」などと感じてしまうのだから、いい加減なもんです(^^;)。
さて善光寺街道に戻りますよ。突き当りに→の標識があるところを道なりに右カーブしてゆきます。
右に曲がると高橋という橋で矢出沢川を渡ります。正面の土蔵が渋め!
矢出沢川の下流方向の眺め。
山のすぐ近くなので水はやはりきれいです。橋を渡るとすぐに左折。要はここは上田の西の端の枡形で合戦の際は橋を落として、矢出沢川がそのまま要害堀になったそうです。
さて、左折した先で更に枡形が続き正面の角を再度右に曲がりますが、〇の中に次の目標物があります。
それがこちらの道標。元禄五年(1692)のもので「右ぜんかうじ道」と刻まれています。
現代の標識などはすべて「北国街道」表記なので善光寺街道として歩いている自分にはちょっと嬉しい表記です。
道標のところで右折したらそのまま道なりに北方向に進み、その先にある国道18号を目指します。
途中、玄関上の破風に微かにむくった屋根のある古めの民家などを見ながら進みます。
こいtらのお宅はかなり規模が大きめですが、二階の戸などは壊れているし無住でしょうね。ハチマル・ハイツという会社が管理しているようです。
母屋とそのまま屋根が繋がっている門はちょっと歪んでしまってますね。
そのすぐ先で国道18号の生塚交差点に出るのでそこで左折します。左折した先の国道沿いにはちょっと壊れかかった古民家などがあったので激写しつつ進みます。
それにしても越屋根付きの家の多い地域がずいぶんと続いている気がします。
これはまた大型の、越屋根が三連の家屋ですね。、こちらも木の塀の周辺の植物の茂り方を見る限りしばらく無住になっているように見えます。
そのすぐ先で国道から右に逸れる旧道に入って行きます。
右に入ってすぐのところにあるのが正福寺というお寺です。
こちらには寛保二年(1742)の千曲川の洪水で溺死した犠牲者が埋葬され、「流死含霊識」と記して供養したそうで、それが「千人塚」と称されているとのこと。
後方に見切れて写っているのがそれですが、正面から撮って街道遺構のように紹介するのがためらわれたのでこちらの案内板をメインに撮りました。
割と奥行きがあるので、ちょっと遠目ですが遙拝して街道に戻ります。
つづきはその2でご紹介します。
(つづく)