昨年末の12月26日(土)に外房を館山に向かって南下する伊南房州通往還 3回目の旅として、上総一ノ宮から大原までの区間を歩いた旅の記録のその3です。
歩いたのは上総一ノ宮から次の特急駅にあたる大原までの17km弱、神社仏閣への寄り道などを含めると18km強くらいだった筈です。徒歩旅のルートは↓。
中山道と比べると歩いた距離に対する地図上のマークがまばら。
その2では、微妙に旧街道ルートから外れているのにも気づかず、外房線の線路を越える立派な陸橋を上機嫌で渡っていたところまでをご紹介しました(☟再掲)。
この陸橋は新しいらしくて、橋が終わった途端、道は細くなります。更に次第に登り坂に差し掛かって前方を見ると、立派な杉の木が聳えていました。まだ舗装前の街道時代からここにあったのではないかと思います。
↑の写真でクルマが見えている辺りが左カーブになっており、カーブを曲がると冬枯れした立派な木があり、冬独特の美しさに感じたのですかさず激写しました。
街道左奥に茅葺に青い屋根を被せた古民家がありましたが、今は物置のようになってる様に見えました。
道も真っすぐではないし、道沿いの家も古そうだし、それなりに街道風情と言えるでしょうか。クルマもまあまあ走るので路肩が狭いのは時々怖いですね。
コンクリ塀に貼られた看板が風化してシブいことになっており、こういうのは逃さず激写です。
左の看板は昔ながらの写真館、右は一部消えてますが「めがね 宝石 時計の専門店」は痕跡がありますが、店の名前を読むのは無理な状況。電話番号からググって見ると茂原の方にある「有限会社 晶光堂」という現存する会社の様でした(業態も時計、宝石、眼鏡等なのでまず間違いないでしょう)。
考えてみるとずいぶん離れたところの会社の広告ですね。元々はこの道が房総横断道路だったというのはあり得るかも知れませんね。
坂を登り切って、下り始めるあたりで一宮町を出ていすみ市に入ります。
しばらくはトンネルの様に樹々が覆いかぶさる坂道を下って行きます。
おや、右端に写ってる民家がちょっと面白いことになってる様です。
なんと育ち切ったサボテンが二階の窓よりも高く伸びているんですね。
万一、急遽何かが起きて二階から一階にこのサボテンを伝って避難しないといけない事態になるとかなり葛藤しそうですが、例えばどんなケースがあるかなあと思って暫く考えてみても、具体的なシチュエーションは思いつきませんでした(-_-;)。
坂を下りきると再び空が開け、また上り坂になります。
いつも同じようなことを書いていますが、もう一度登るくらいなら最初から下りないで欲しいなどと、「何しに歩きに来たんだ?」レベルの泣き言をついつい思ってしまうアラフィフのおじさんなのでした(^^;)。
ちょうどその辺りからちょっとした集落に入ったようで、中には敷地の大きな旧家がありました。
その先には簡易なテーブルとイスが置かれた、梨園の休憩所(試食所?)がありました。
そういえば前回の記事で国道から今歩いている旧道に入る時に「梨街道」の看板がありましたね。道沿いに梨園がある道だったんですね。
その先の街道左手に何と言うことも無いのですが、何となく気を惹かれる神社があって通りすがりに激写しました。
そのまましばらく梨御殿みたいな家々が続くのかなと思ったのですが、梨園はあるものの意外に地味な感じ。
右奥に赤い屋根のどうやら茅葺トタン被せ屋根らしき古民家が見えているので、急いで行ってみましょう!
むむむ、間違いなく茅葺トタン被せ屋根ですが、しかしこれは、、
思い切り損壊してますね。人が居なくなり、眠りについて久しいのではないでしょうか。
もう崩壊しかかっていますね。いずれ屋根の下の居住部分が先に崩れて茅葺の屋根だけが残ったりしそうです。
そのすぐ先に「椎木商店街」のゲートの様なものを潜ります。
ここから先、椎木の宿場に入ります。
↑の写真の奥に見えていた右カーブを曲がると、少し活気のありそうな街が見えてきます。
精肉店と書かれた平屋看板建築の店舗がありますが、正面左の恐らくは「雪印牛乳」だった表示は消え、シャッターも長らく閉まったままの様子。自販機だけが営業を続けているようです。
寂れてきていますが、まだこの商店街は生きてる感じです。もっと荒涼とした旧宿場を想像していたのですが、ちょっと失礼な想像でしたね。
とはいえこちらの庇というか下屋があり、かつ全面と左側面が出し桁になっている立派な商家は廃業してだいぶ時間が経っているようで、店舗正面には自販機が3台。
二階の高欄が歪んでいるのが渋い!
クルマや自転車が停まっているので住居としては現役に思えなくもないのですが、二階の雨戸などは閉まったままに見えますし、難しいですね。
その商家の斜向かいには、これがまたシブくて良い感じの床屋がありました。ほぼ方形屋根の房総スタイルの母屋を持つ看板建築の床屋ですが、こちらもビリビリのテントや荒廃した感じから店は廃業してそうです。
因みにこちらのお宅は敷地がかなり奥まで続く、宿場独特の「鰻の寝床」スタイルでした。
その先にあった米殻や肥料などを扱う出桁造りの子安商店は、二階はサッシまどになって
二階の窓も木造のまま残っているのが素晴らしいですが、後方にハイカラな本宅らしきものが隠し切れずにはみ出てるのがご愛敬でしょうか。
おお、バス停の名前も「椎木・下宿」ですね。とすると、椎木商店街の入口=江戸方が上で、館山方面が下という、街道の地名の原則に沿ってる訳です。
というか、そもそも伊南房州通往還にここまで面影を残した宿場があるとは良い意味で驚きました。
こちらは隣が更にになってしまい、民家に改造もされていますが、かなり立派な出桁造りの商家です。
こちらも敷地は奥に細長く伸びていました。
真新しい建物の菓子屋「まるへい」ですが、Googleストリートビューを除いてみると、、
かつてのシブい古民家の映像が残っていました。
奥に写る青い屋根の茅葺トタン被せ屋根物件が共通してるので、同じ場所なのが分かり易いかと。
こちらは錆びた看板建築部分が手前のスナック風の壁とマッチしませんが、元々和風の母屋に看板建築のくっついた商家だった、、のを更に店舗部分にそれらしい壁を貼ってスナック魔改造にした感じでしょうか?
こちらも隣が更地化して側面の見通しが良くなってしまった、出桁造りの商家上がりの民家。
寂れてしまってるけど、かなりサイコーじゃないですか、椎木の宿場!!
あっ、そして先ほどまるへいの奥に写ってた青い茅葺トタンの建物も特集しますね。
まるへい方面(江戸方向)から見た側面。住居部分は屋根の重さでちょっとたわんでますね。
正面から見るとまたシブい洋品店を営んでいるのが実にいい感じ。右端に見えているのは小さなミシン工房でした。
中山道を歩き終わった直後で、失礼ながら街道風情にはそんなに期待せずにこの日の旅を始めたのですが、いやこんなよい宿場が残っていたとは!!街道時代には旅籠も数軒あったそうです。
と、物凄く昭和遺産を楽しませてもらった椎木宿も残念ながらこの田中洋服店でおしまい。このすぐ横にある信号交差点で左折して宿場から出ます。
角を曲がるとさっきまでの街道風情はほぼピタリと無くなり、、
更に進んで行くと、館山方の「椎木商店街」ゲートがありますが、この辺りはもう商店街という趣ではありませんでした。
それでも先ほどまでの椎木の宿場風情にすっかり気を良くして、ゴールの大原めざし更にひた歩きますが続きはその4でご紹介します。
(まだつづく)