4月29日(水:昭和の日)にご近所城郭めぐりの第二弾として、自宅からほど近い馬橋城跡と幸谷城跡を見物して参りました。
前もって断っておきますが、「城郭めぐり」とは言っても、「お城」というよりは「砦跡」に近いところの跡地なので、現在では住宅地に残る僅かな高低差くらいしか面影が残っていませんので、いわゆる”お城地形”(虎口、空堀、土塁等)はわずかにしか出て来ません。
時節柄「交通機関や施設は一切使わず、徒歩だけで行ける散歩」が主意なので内容のショボさはどうかご容赦下さいませm(_ _)m。
今回歩いたのは、完っ全にただの微地形散歩になった馬橋城跡と
同じくほぼ微地形散歩ながら僅かにそれらしいものがあった幸谷城跡の2つです。
自宅により近い馬橋城から歩いたので、このその1では馬橋城をご紹介します。
幸谷城含めた歩行ルートは↓の通り
半透明のピンクで囲んだエリアがおおよその馬橋城跡、半透明のグリーンが幸谷城跡です。自宅についた時の歩数計がちょうど15000歩くらいだったので9km前後の散歩というところでしょう。
朝10時ちょっと過ぎくらいに自宅を出発し、今回もいちおう旧水戸街道でもある国道6号を進みます。
先日の前ヶ崎城の時と同じく、国道から外れ旧水戸街道に残る、地名の由来となった馬橋を渡ります。
同じく萬満寺でお参り。
ここまでは前回と全く同じですが、ここから馬橋城跡の痕跡を探ります。
ガイドブックは今回ももちろん『東葛の中世城郭』by千野原靖方さん
買ったのは2016年くらいだったかと思いますが、私が持っているのは平成十六年(2004)二月出版の初版でした。最近になって調べ始めたのですが、同じ様な散歩をしている人は皆参照してる、必携の書のようです。
さて、馬橋城は常磐線馬橋駅の北東約600Mのところにあった、標高25m前後の北西へ突出した細長い舌状台地にあったと推定されています。上述の萬満寺の背後にあった台地で、かつては「城山」と呼ばれてましたが、今は削平されただの住宅地になっていて、遺構は何一つ残っていないそうです(ガイドブックから)。
馬橋城は遺構も残っていないくらいですが、北方にある三ケ月(みこぜ)という地名は、千葉氏家紋の三日月から来ていること、などから戦国時代には、以前に散歩をした、高城氏の居た小金城の支城になっていたとみて良さそうです。
ガイドブックによれば、『高城家由来書』には「馬橋萬満寺、是為出張、後有城地」(馬橋の萬満寺は出張(でばり)の城で、その後ろには城がある)との記載があるそうです。
上の方にあるGoogleマップで見ても、何がどう城なのでさっぱり分からないと思いますので、ここは得意技のカシミール3Dに頼ることにします。
ピンクの線よりも右側が高地、左側が低地になっています。萬満寺が南から北に伸びた小さな舌状台地、そのすぐ北に谷戸地形を挟んで南東から北西に伸びた短い舌状台地があり、ここが「城山」更にその北側にはやはり谷戸地形を挟んで三ケ月の台地が広がっています。
更に今回、新兵器として戦後米軍が撮った航空写真を投入します。
黄色で囲ったのが萬満寺境内、オレンジが城山ですが、現在の地図をカシミールで見るよりも、城山のある舌状台地がもっと南東から、細い台地でつながっていたことや、萬満寺の乗っかってる舌状台地と城山の舌状台地の間の谷戸地形などが実によく分かります。
ちなみに右の点線は現在国道6号になってるところですが、この時点では旧水戸街道のみ存在してます。
うーん、何というか非常に便利だな、米軍の写真。。
今後積極的に使っていこう。
で、ここからが私の散歩です。まず萬満寺参道入口(↑の米軍写真でいうと黄色い□の一番した辺り)から、左(西)を見ます。
舌状台地が西に下がっているところなので、写真の当時よりはだいぶ削られて平坦になってしまってますが、わずかに西方向に下がっているのが確認できます。これで西側の地形チェックよーし!
次は東側ですね。仮称「萬満寺台地」の右の縁あたりに現在道が通っているのでそちらに向かいます。おお、今週も江戸の見えない江戸見坂はなかなかいい坂道だ!
江戸見坂の写真の左側に見えている、赤い看板のたばこ店の手前を左に曲がるとだいたい「萬満寺台地」の左端あたりを北に向かうことになります。
お、わずかだけど下がってますね。台地から下りて低地に入っていくのでしょう。昔はもっと顕著な高低差があったんでしょうけどね。
しばし北に進むと、上り坂に転じます。これが城山に登る道ですね。
宅地造成時にかなり削った筈ですが、それでも山地形は依然として残ってます。私が師匠と仰ぐタモリさんがよく「土地にはDNAがある」と仰ってますが、それを肌で感じるような実例です。
話逸れますがNHKブラタモリの影響で地形に興味ある人、随分増えたでしょうね(^_^;)。
DNAは残っているものの、かなり削られてしまったので、あっけなく城山の頂上に到着!
うん、城跡に来たぞ感はないですね。更に前もってお断りしておきますが、今後こういう感じの城跡めぐりが主体になります(時折、分りやすいの入れます)。
その先で東西に走る道から西方向を見ます。今はなだらかな下り坂になってますが、恐らく元々はもっと西の方まで台地が続き、崖っぽい高低差がその先にあったのだろうと思われます。
厳密にはここで馬橋城めぐりは終わりですが、次の三日月神社のある台地までは一続きの記事にしますね。
そこから更に北に進むと、千葉氏家紋の名を持つ三日月神社の案内がありました。
ずっと以前にたしか富士塚めぐりの一貫で超プチ散歩に行ったことがありますが、ずいぶんと久しぶりです。行きましょう、行きましょう。
そこから更に三ケ月の台地に上がってゆきます。
やっぱり松戸はけっこう微妙な高低差あるところが多いんですね。今まで見ようとしてなかったですが、歴史背景を知ってから意識して見ると近所でもけっこう楽しめるなあ。得した気分(≧▽≦)!
三日月神社が高台として残っています。
↑の写真は北方向を向いていますが、西に目を転じると:
右に見切れているのが三日月神社の高台ですから、やはりもう少し台地っぽい地形だったのを宅地にする時に削ったのでしょうね。
参道正面から激写。
社標の裏の説明によると、三日月神社は鎌倉時代に千葉介頼胤が三ケ月台に築いた小金城の守護祠が始まりとされており、江戸時代に三ケ月村の有志のものが三日月に所縁の出羽三山に参詣した際に「月の神霊が宿る石」を背負って帰り、「三日月大明神」となった、そうです。
右の灯籠には月が象られ、、
左は円なので太陽かなと思いましたが、千葉氏の家紋「月に星」の
星の方ですね、きっと!
社殿でお参り。
社殿の後方には色んな石標が並んでいます。バラバラに立ってるので全部のご紹介は無理ですが、富士嶽浅間神社や
大山阿夫利神社が合祀されていました。
三日月神社の高台北側から西側を見下ろしてみます。
けっこうハッキリした高低差ですよね。元々の台地地形の名残だろうと思います。
最後に北側から三日月神社の高台を激写して馬橋城跡めぐりは終了!
つづいて更に北に向かい、JR新松戸駅にほど近い幸谷城跡を目指しますが、つづきはその2でご紹介します。
(つづく)