ゆっくり中山道を歩く第3回 北浦和-上尾(1/3) | らんまるの街道歩き・暗渠散歩ブログ

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2017年7月15日()、先週に引き続き、旧中山道歩きの第3回として前回ゴールの北浦和から上尾までの区間を歩きました。

 

今回もガイドブックは『ちゃんと歩ける中山道六十九次 東』(山と渓谷社)です。

歩行ルートは☟

(クリックすると大きな地図にジャンプします)

色々併せた歩行距離は16.2㎞ほどでした。

 

今日は暑くなることが分かりきっていたので、5時前に起床し、電車を乗り継いで6時半少し前に北浦和駅に到着し、早速街道歩きを開始します。

 

中山道に出ると時間が早いため、まだ道路の大部分に影が落ちている上、雲がかかっているので当座はあまりカンカン照りにはならない雰囲気。これは助かります。

 

中山道に出てから400~500Mも歩くと、歩道橋に差し掛かりますが、その左側の袂には「サツマイモの女王、 紅赤の発祥地」案内板がありました。

この案内板のすぐ隣には、郭信寺というお寺があるのですが、この紅赤を発見した農家の主婦の「山田いち」の菩提寺だそうです。

 

こちらが郭信寺の参道入り口。

少し中に進むと立派な仁王門があります。

素晴らしいですね、これは本堂なども期待できそうです、、が、、

 

し、閉まっとる。。 暑さを避けるために、早く来たのが裏目に出た感じですね。

 

仕方ないので、街道に戻り先を急ぎます。この辺りは歩道にもちょくちょく季節の花が咲いていて、目を楽しませてくれます。

 

☝の写真の左端に写っている工事中らしき家は、近寄ってみると旧家だった様で、なかなかよい雰囲気でした。

 

途中でコンビニに入りアメリカンドッグで腹ごしらえをしつつ、更に街道を進んでゆくと、大原陸橋(東)交差点の手前側左には正徳四年(1714)建立の庚申塔が立っています。

 

その先割とすぐのところに杉の木が立っています。

 

この杉の木の横には「一本杉の仇討ち跡」という案内板が立っています。内容がなかなか込み入っているのですが、ざっとまとめると:幕末近くの文久四年(1864)、ここにあった杉の大木の

下で、父親を殺された水戸家臣宮元鹿太郎が、人の助けも受けながら、河西祐之助を討って仇討を果たした、というお話です。

 

車道側に出ないと見えませんが標柱も立っていました。

 

更にその少し先の駅東口交差点の手前(やはり道路左側)には、「中山道と六国見」という案内板が立っています。

かつてこの辺りでは六つの国(武蔵、相模、甲斐、下野、上野、信濃)の峰を望むことができ、茶屋などもあったとのこと。

 

で、その先の駅東交差点の手前右側にはかつて大ケヤキが立っており、浦和と大宮の中間であることから、「半里塚」と呼ばれていたそうですが、2010年に倒木の恐れから伐採されて

しまったということです。

かなり前にここを歩いた先達の記録ではしっかりケヤキが立っているのを見たことがあるので、ちょっと残念でした。ちなみに見えている道は赤山道

 

この交差点で街道右側に渡り、しばらくは右側を歩きます。中山道は北に向かって歩いているため、午前中は道路の右側を歩くと、東から照る日光を建物が遮ってくれるのでちょっと楽ちん(^^)。

 

しばし進んで行くと見事なケヤキ並木に突入します。

この並木、たいへん素晴らしいのですが、かつては松並木だったそうで、松並木が残っていてくれたら更に素晴らしかったのですがこればかりは仕方ありません。

 

などど、思っていたらなんと街道の右側にありました!

たった一本だけ残り松らしき松の木が立っていたのです。うーん、残っててくれてありがとう!(^^)

 

更にそのすぐ先の街道右側の歩道には小さな祠があります。

右の地蔵は「お女郎地蔵」、左は「火の玉不動尊」だそうです。この付近にはかつて刑場があり、お女郎地蔵は、このすぐ先にあった高台橋から身を投げた遊女の供養のためのもの。火の玉不動は、付近を騒がせた火の玉を切ってみるとなんと不動明王だった、とのこと(かなりものすごい話ですね)。

 

たまたま祠の背中側の壁を見ると、何やら説明板が。

ふんふん、鴻沼用水がここで中山道を横切っていて、現在東側は暗渠、西側では前述の高台橋のレンガが見られると。

 

今いる東側は、、確かに暗渠っぽい道ですね。

 

脱兎の様に西側に渡り、金網の上からのぞいてみると、、

赤で囲んだ辺りに、確かにレンガの橋の一部が見えていますね。今は幅の狭い用水ですが、かつてはもっと大量の水が流れていたんでしょうね。ここで遊女が身を投げた、というのもたいへん

不憫に思われます。

 

その先の右側には広大なコクーンシティが出現します。

コクーンシティはかつてここにあった、製糸業の片倉工業(最近まで富岡製糸場のオーナーでした)の大宮製作所跡地の再開発でできたショッピンぐセンターで、製糸業に因んだ名をしています。

 

初代「市長」が広瀬すずさん、二代目が平祐奈さんでした。広瀬すずさんの「コクーン、コクーン、コクーンシティ!」というCMは当時妙に耳に残ったのを覚えています。

 

道路向かいを見ると、さいたま新都心駅付近の合同庁舎やランドアクシスタワーなどが見えています。壮観ですね。

 

400Mほど進むと、真っ直ぐ進む中山道から右斜め前に分岐する参道と、赤い鳥居が出現します。

氷川神社の一の鳥居です。ここにある氷川神社は武蔵國一宮と呼ばれ、全国にある氷川神社の総本社にあたり、この先の参道は2㎞ほど先の神社まで続いています。

 

この鳥居のすぐ左手前には神社の社標も立っています。

この武蔵國一宮=大きなお宮さんがあるから、この地は大宮、という名前になった、地名の由来でもあります。

 

ほんの少しだけですが、参道に入って歩いてみます。

と、いうのもこの参道、実は中山道の初期にはこの参道こそが中山道だったのですね。氷川神社の手前で左折し、今の中山道のルートに合流してたとのこと。その後、人が増え不便になってきたので氷川神社を通らずに直進する中山道が整備されたそうです。

 

このまま参道を歩きたい気もしますが、そうすると、この先の大宮の宿場が見れなくなってしまうため、すぐに左折し、中山道に復帰をしました。

うってかわって超近代的な風景ですね。ホテルがあるからまぁ、宿場らしいっちゃ宿場らしい、、のかな?

 

その先、吉敷町交差点の少し手前左側に、間口が狭く、妙に奥行きのある、「縦長」のガソリンスタンドがあります。実はこれ、つい先日のブラタモリで紹介されていたガソリンスタンドです。

江戸時代の細長い町割りによる敷地の形と、当時の屋号を今も残している貴重な遺構です。タモリさんも番組で言ってましたが、火気厳禁のガソリンスタンドに「蝋燭屋」というのもスリリングな名前ですね。

 

その先の吉敷町交差点の右奥(東北)側に安藤橋碑があります。

安永四年(1775)の大火事の際、勘定奉行・道中奉行であった安藤弾正惟要は幕府の御用米と御用金を施したそうですが、その判断は独断であったため切腹になったそうで、人々はこの安藤弾正の徳を偲び橋の名前に安藤弾正の名を遺したそうです。

 

その先、街道左側に見えている立派な門は、江戸の加賀前田家の上屋敷の門を移築したものだそうです。

 

その割とすぐ先の右側の路地に入ると、、

 

塩地蔵があります。

その昔、ここで病に倒れた父親のために娘が塩断ちをしたところ父親が全快したそうで、以来願いが叶うとここに塩を備えるのだそうです。

 

すぐ右隣りには三体並んだ子育て地蔵があり、街道に戻るとその案内が出ていました。

 

その少し先の左側にある松亀ビルの辺りには脇本陣があったそうですが、全く痕跡はありません。

 

その先右側にある第四銀行の手前にある路地を少しだけ入ると、第四銀行の壁沿いに涙橋跡碑があります。

先程みた高台橋の近くにあった刑場で処刑される罪人とその親類縁者が涙ながらにその橋で別れたそうです。

 

日光街道の小塚原刑場や旧東海道の鈴ヶ森刑場近くにも全く同じ理由で泪橋がありましたね。

 

そろそろ旅も中盤にさしかかってきましたが、ここまでを1/3とし、続きは2/3でご紹介します。

 

(つづく)