2012年7月8日(日)
4月末のぎっくり腰で中断している日光街道を一刻も早く再開したいのはやまやまなのですが、正直まだ腰に不安も残っており、また腰痛持ちの方はおわかり頂ける事も多いかと思いますが、
湿気の多いこの時期、腰痛が悪化することはあっても、快方に向かう事は絶対にないため、街道歩きのリハビリも兼ねて、以前から歩きたかった川越街道を歩き始めることにしました。
川越街道は、もともと、徳川家康公よりも前に江戸城を立てた太田道灌が江戸城と川越城を結ぶために通した街道で、その後、「知恵伊豆」とも称された松平信綱公が川越藩主になった際に街道として整備をしたものです。
距離は10里34町33間半(約43km)、ただ、川越産の焼き芋を宣伝する際に「栗(九里)より(四里)うまい十三里(十三里半とも)」という言い回しが使われ実際には13里も無いのですが、なんとなく定着している部分もある様です。
さて初回のこの日の歩行区間は、板橋から赤塚の約8.9kmを歩きました。
(歩行記録はこちら)
厳密な起点はやはり日本橋で、板橋の平尾追分で中山道から分岐するのですが、日本橋から板橋はいずれ中山道を歩く時に歩こうと思っているので川越街道は中山道からの分岐の板橋からスタートです。
JR板橋駅に着くと、近頃あまり頼りにならない天気予報は今日もあてにならず、曇りの予報だったのに、雨がシトシト(その後天気予報が後追いで雨に変わった)。カメラを濡らしたりはしたくないので、やむなく朝マックして時間を調整。板橋はかつて2年ほど中国拳法の道場に通っていたのでほんの少し土地勘めいたものがあり、懐かしい限りでした。
朝マックのコーヒーを飲み終わる頃にはちょうど雨が上がり始め、勢いよくマックを飛び出ると、正面には、新撰組の隊長、近藤勇のお墓があるのでまずはそこから。
雨上がり直後で光が足りないせいか、いきなり手ブレ。
盟友の土方歳三と一緒に祀られているんですね。
この右横付近には近藤勇の像が凛凛しく立っていました。
その名の通り勇ましいオーラだと感じました。
さてここから少し北に出ると、東西に中山道が走っているので(実際は東南東から西北西に)ここを進みます。するとほどなく現代の中山道、国道17号+首都高中央環状線に合流します。
このまま川越街道を進みたいのですが、この国道17号の向かいに中山道と川越街道の追分があるので、信号待ちして渡ります。
ありましたよ、旧中山道の板橋宿の入口が。
いかにも旧道という雰囲気のある通りです。この横には説明板が往時のこの場所の姿を見せてくれていました。
いつかここを通って板橋宿に入って行く日が来ると思います。
さて、改めて国道17号を南側に渡り直して直進するのが、川越街道の進路です。10分ほど歩くと山手通りとの交差点がありそこを渡ると道は狭くなりますが、「遊座大山商店街」という名の、東武大山駅のあたりを通る商店街に入っていきます。
商店街の風景をちょっと赤みをかけてトイフォト調にしてみました。
この商店街は、東武電鉄の大山駅の踏切を超えると、かなり長距離に亘るアーケードとなり、名前も『ハッピーロード』と変わります。
この辺りを歩いている時はまだ時折細かい雨粒がパラッと落ちてくることもあったので、カメラを濡らさずに済んで大いに助かりました。
アーケードを抜けると国道254号に合流しますが、合流した瞬間に右折すると大山福地蔵尊があります。
その昔川越街道を行き来している途中でなくなった人馬を手厚く葬っていたお福様をおまつりしているところだそうです。
さて、そのすぐ先の日大病院入口という交差点で、旧街道は国道を逸れて斜め右前に進路を取ります。いいですね。私はこの国道を逸れて旧街道に入って行く瞬間がとても好きです。
ちょうどここから旧街道の上板橋宿が始まります。
さて、旧道に入るとなだらかな下り坂になりますが、自分の目にはかなり「いかにも旧街道」的な風景が広がりました。
幅といい、曲がり具合といい、良い旧街道風景です。
坂を下ったあたりの右側に防水辻広場という小さな公園の様なスペースがあり、そこに良い意味で鄙びた感じのポンプが。
レトロでいいですね。注意書きも親切です。
ここから暫く進むと、やはり街道の右手に豊敬(とようけ)稲荷神社が見えてきます。小ぶりな神社ですが氏子の方々が大切にお手入れをされている様で、とてもきれいな神社でした。頭が下がります。
この神社の境内に、旧街道の上板橋宿のマップがありました。
みづらいと思いますがこのすぐ先にはかつて説教強盗が押し入った三春屋という建物があり、その先の川のたもとにもう一つ稲荷神社、そして川には下頭橋(げとうばし)があるってことですね。名主さんなどの家はまぁもう無いでしょう。
神社を出て進むとすぐにその説教強盗が入っ(て捕まっ)た三春屋らしき建物を発見!うん、街道風情が高まります!
良い感じになってきたところでふと民家の鉢植えの奥を見ると、、
なんと、江戸時代の単位で日本橋からの距離が書いてあるじゃないですか。上板橋宿の方々、真摯に街道の風情を守られているのですね。重ねて頭が下がる思いです(こういうのを保存するの、本当に大変だと思いますから)。
やがて旧街道は大きくカーブをしながらなだらかな下りに入り、雰囲気的にそろそろ宿場も終わりかな、というあたりで、先に橋らしきものが見えてきます。橋の手前左を見ると、、、
さっきの豊敬稲荷神社の宿場マップにあった川の手前の稲荷神社がこれですね。写真の左側には既に橋の名前の書いてある石碑が見えています。
さてその下頭橋ですが、それなりに旧街道を意識してちょっとした擬宝珠が造られてますね。
私は、街道や江戸の痕跡めぐりをする時に、川というものが大好きですから橋を渡るのは楽しいです。この下頭橋、特殊な名前ですがその由来は諸説がありハッキリとは分からない様です:
①旅僧が地面に刺した榎の杖がやがて芽を吹いて
大木に成長したという逆榎がこの地にあったから。
②川越城主が江戸に来る際、江戸屋敷の家臣がここまで来て
頭を下げて出迎えたから。
などなどですが、普通に考えれば②でしょうかね。
さて橋を渡ると、旧街道は正面ではなく斜め左前に入って行く道を進みます(下頭橋通りという名前の通りなのです)。
この写真中央の茶色の建物の左側の道ですね。これが旧川越街道のルートです。
ここを少し進むとまた国道に合流しますが、合流点の標識が:
非常に分かりやすくて良いですね。
さてやはり長くなってきてしまったのでここまでを前編として後編に続きます。
2012年7月8日アップ