中学生の頃、理科の先生に天気図の書き方を教わったことがある。
ラジオが淡々と読み上げる"石垣島 北北東の風 風力3 晴れ 18hPa、21℃"なんていうのを地図に落としていって、最後に等高線やなんかを引っ張るのだ。
聞き漏らさないよう書き間違えないよう、しっかりと集中して地図に向かう作業はどこかとても重要な任務みたいに気合いが入ったし、それ以上にそのラジオが読み上げる遠い土地のイメージがなんとも好きだった。
"浦河"とか"アモイ"とか"ウラジオストック"とかまるで知らない土地の、なんともいえないロマンティックな響き。石垣島では20℃を越す陽気なのに、ハバロフスクではマイナス16℃の吹雪が吹き荒れていたりする、自分のいる土地とはかけ離れた過酷な気象状況。
アジアの片隅の日本の近くだけでさえこんなにも人々の暮らす環境は違うのだなぁ…などとその知らない土地を想う、そういった想像は僕の知的好奇心を刺激した。
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知らない土地の知らない文化に暮らす人々の話を読むことは楽しい。
そんなわけで、静まり返った夜中に読み耽っていたのは星野道夫さんの『ノーザンライツ』だった。
アラスカの自然に魅入られ、写真家になりアラスカで暮らし始めた星野さんからのアラスカ・レポートだ。
アラスカに暮らして早や十数年が経っていた星野さんは、アラスカの自然や生き物だけじゃなく、アラスカの文化や歴史や、人の暮らしそのものについての語り部になろうとしていたようだ。
第二次大戦後まだフロンティアだったアラスカにセスナ機のパイロットとして渡ったシリアとジニーという二人の女性の辿ってきた道のりを中心に、アラスカを核実験の土地にしようとした政府計画への反対運動のことや、その人々の出会いの揺りかごとなったキャンプ・デナリのことや、原住民以上に原住民らしい育ち方をした白人のセスのこと、グッチンインディアンのリンカーンやクリンギット族のボブのこと…いろんなエピソードから滲み出てくるのは、アラスカに暮らす人々への愛情や、アラスカの近代史を作ってきた人々への尊敬の想い。そしてアラスカを愛して止まない人たちの想いを自ら継承して伝えたていきたい、という使命のようなもの。
しかし、残念ながら星野さんのレポートは「極北の原野を流れる“約束の川”を旅しよう」という記事の第一章でプツリと途切れてしまう。
執筆中の1996年8月、星野さんはヒグマに襲われて命を落としてしまったからだ。
星野さんがどうしてそれほどまでにアラスカに魅入られていったのかはこの本では語られてはいないけれど、自分が生まれた土地から遠く離れた場所に憧れる気持ちは何となく分からないでもない。
少年の頃、ラジオにかじりついて気象情報を聴いている星野さんの姿が見えるような気がした。
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星野さんの言葉から。
長い目で見れば、人々が今抱えている問題も、次の時代へたどり着くための、通過しなければならない嵐のような気がして来る。一人の人間の一生が、まっすぐなレールの上をゴールを目指して走るものではないように、人間という種の旅もまた、さまざまな嵐に出会い、風向きを見ながら、手探りで進む、ゴールの見えない航海の様なものではないだろうか。
混沌とした時代の中で、人間が抱えるさまざまな問題をつきつめてゆくと、私たちはある無力感におそわれる。それは正しいひとつの答えが見つからないからである。が、こうも思うのだ。正しい答えなどはじめから存在しないのだ、と。そう考えると少しホッとする。正しい答えを出さなくてもよいというのは、なぜかホッとするものだ。しかし、正しい答えは見つからなくとも、その時代その時代でより良い方向を模索してゆく責任はあるものだ。時代の渦に巻き込まれながらも何とか舵をとりながらすすんでいこうとするグッチンインディアンの人々の夢に、僕はそのことを強く感じていた。
自然と向き合わなければ暮らしていけない厳しい環境の中では、人は生きることに謙虚にならざるを得ない。
星野さんの言葉から感じるのは、そういう慎ましさや謙虚さと、だからこその生きることの価値への賛美。
地球温暖化や未曾有の気象変動、大地震に未知のウイルス・・・改めて顕になったのは、今の世の中の傲慢さだった。
これを「自然が警鐘を与えにきたのだ」などと擬人化して捉えたくはない。
世界はもともとこういうもので、人間がいつの間にか忘れてしまっていただけのこと。
生きていることは、それだけでじゅうぶんなことなんだろう。
星野さんは、極北の地で人々の暮らしに寄り添いながら、人類の未来のことを考えていた。人類の未来に希望を見出そうとしていた。
つくづく、人類の羅針盤のような惜しい人を亡くしたものだと思う。
(2009年2月8日初出記事を加筆修正)
当時「地球温暖化」と呼ばれていた現象は今や「地球沸騰化」と呼ばれるようになり、この記事の2年後には「東日本大震災」が発生し、11年後には「新型コロナウイルス」が世界中で多くの命を奪っていった。
そういう経験を経ても、種としての人間はたくましく生きている。
世界の成り立ちというのはそもそもそういうものなんだろう、という印象がいろんな経験を経てより強くなった。
人間はたくましい。生命はたくましい。死ぬまで生き続けるし、滅びるまで栄え続けるだろう。
そう考えることで、あまり先々の心配をすることが少なくなった気がする。見えない未来に脅かされることが少なくなった気がする。