80年代前半は、ディスコ・ブームが一段落して、ブラック・コンテンポラリーと呼ばれる音楽が流行した時代で、僕が初めて「ブラコン」=ブラック・コンテンポラリーを認識したのはこの曲でした。


「ベストヒットU.S.A」の中のCMで頻繁に流れていたからね。嫌でも耳についた。
1983年、高校2年生だったのだな。
当時、黒人音楽への興味はほぼゼロに等しかった。ロックに夢中で、特にパンクのかっこよさに衝撃を受けた頃だったのだから、まるで対極に位置するようなこの手の音楽に興味が湧かないのも無理もない。
ゴージャスな正装で決めた大人の男女がデュエットするなんて、歌謡曲的・演歌的なイメージしかなかったのだ。ドロドロとした大人の、ヌメヌメとした怪し気な世界のイメージは、そもそも清廉潔白な童貞男子高校生に共感できるはずなどなかった。
所詮は、売らんがために粗製乱造された使い捨て商品じゃないか、俺が聴きたいのはこんなぼってりしたのじゃない、もっと熱く叫びまくるような音楽だ、と思っていたのだ。


そんなわけで、このアルバムをちゃんと聴いたのは、それから20年以上が経ってからのことでした。

いやぁ、こんなに素晴らしい音楽を味わえる耳を持っていなかったとは、と高校生の頃の自分をお説教してやりたい気持ちになった。

もっとも「この音楽の良さがわからないとは子供やな。」とか「お前も大人になればわかるようになる。」なんて言ったところで、当時の自分なら余計に反発するだけなのは目に見えているし、そもそもわかるだけの下地もなかったのだからどうしようもないのだが。



全体のつくりとしてはあざといのです。

明らかにロマンチックでムーディーな雰囲気を作りにかかっている。

ブラック・コンテンポラリーという音楽そのものが、そういう風にある程度マーケットのニーズをリサーチした上でコンセプトに基づいて作られたウェルメイド商品である、という側面があることは否定できないと思う。

でも、エンドユーザーを狙いどおりの気分にさせてしまうというのはやはりプロフェッショナルの仕事だと思うのです。

コンセプトやマーケティングだけで、本当に心を揺さぶる商品を作ることはできない。

そこにはやはり制作者や演者の本気があるからこそなのだと思う。


ロバータ・フラックはすでに10数年のキャリアを持った大御所で、ダニー・ハサウェイというデュエット・パートナーを失って悲嘆に暮れていた。そこへ現れたピーボ・ブライソンという才能は、ロバータの心をずいぶん癒やしたのではないかと思う。デュエット・パートナーであると同時に自らの未来を託すべき存在。

このデュエット・アルバムは一聴すると水分量多めのヌメヌメ感があるように感じて、若い頃の僕はそこが少し苦手だったのだけど、今になって聴いてみれば、むしろすごくこざっぱりとして、奥底に爽やかな清流が流れているような感じさえする。

ベタベタしない愛情というか、お互いがお互いを認めあいながら信頼関係を元にして共に立っているような気がする。