60年代後半から70年代前半に登場したレゲエ第一世代は、ソウルからの影響をそのまま直訳したアーティストが多い。

ウェイラーズの三声コーラスはもろにインプレッションズだし、トゥーツ&ザ・メイタルズのトゥーツ・ヒバートは後年にオーティス・レディングやメンフィス・ソウルのカヴァーアルバムをリリースしているくらいメンフィス・ソウルの信奉者だ。

ケン・ブースのジェントルさはサム・クックだし、メロディアンズやヘプトーンズはドリフターズやテンプテーションズのスタイルのジャマイカ版だろう。

そんなレゲエ第一世代の中で一番大好きなのは、ジミー・クリフなのだ。

ハリのある歌声の艶やかさ、伸びやかなリズム、クリアーなトーン、包み込むような大らかさ。

テイストやスタンスが一番近いのはスティーヴィー・ワンダーだろうか。


ジミー・クリフに関してはどの時期のどのアルバムも大好きなのだけれど、一番好きなアルバムといえば、1974年の『In Concert』というライヴ盤だ。
ボブ・マーリーに衝撃を受けてすぐ、京都木屋町のジャムハウスというロック喫茶で上映していた映画『Harder They Come』を観てさらに衝撃を受けてその足で五条にあったタワーレコードでLPを買ったのだけど、このシリーズでは敢えてライヴ盤は除外しているので、その時期に近いスタジオ盤ってことで73年の『Unlimited』をピックアップしてみよう。


『In Concert』でも“Many Rivers To Cross”という素晴らしいバラードを演っていたけど、このアルバムの“I See The Light”も、自分のお葬式で流してほしいくらいの名曲だ。


若い頃からずっと

真実を探していた

生きることは本当に謎だらけで

途方に暮れそうだった

暗闇から振り向いたそのとき

そこに光があった

すべてがリアルになった

灯りを見つけたんだ

灯りを、明るく輝く

もうだいじょうぶ

(I See The Light)


そのハリのある歌声や、後半に向けぐいぐいと盛り上げていく高揚感からは、レゲエがソウル・ミュージック直系の音楽であることがよくわかるし、歌詞からはゴスペルの影響も感じられる。


何を歌うか、歌を通じて何を伝えるかということはレゲエにとっては大きなテーマで、レゲエの歌詞は、もちろんごく普通のラブソングもあるけれど、政治的な事柄も含めて社会的なテーマを持った歌や人生を考察した思索的哲学的なテーマの歌が多くを占めている。
日本でもかつては、河内音頭のように音楽に乗せてニュースを歌ったりそこに時の権力者への批判を紛れこませるような文化があったし、ブルースやフォークも元々はそういうところから始まった音楽だけど、ジャマイカや近隣のカリブ諸国にもカリプソやメントと呼ばれた音楽が同じように民衆の間で歌われていたそうで、そのカリプソやメントにアメリカからのリズム&ブルースやソウル・ミュージックが混ざってできたのがレゲエだから、レゲエにもそういうかわら版的な役割が受継がれているということなのだろう。
植民地として支配され続け、今も資源に恵まれない小国として帝国主義的資本主義の力に左右され続けるジャマイカ。その暮らしの辛さは60年代公民権運動を盛り上げたアメリカの黒人たちに強く共鳴する地盤となっただろうし、70年代ニューソウルの内省的なスタンスやファンクの攻撃的なスタンスからも大きな影響を受けただろう。
表向きは能天気なリズムでハッピーでダンサブルでも、植民地主義への抵抗や怒りや辛辣な皮肉が盛り込まれている。
もちろんジミー・クリフの音楽もそうで、ソフトだけれど強い意思が歌い込まれている。


おまえは歴史を盗み
文化を破壊し
俺の舌を切り取って
コミュニケーションできなくさせ
仲介すると見せかけて分断し
俺の人生のすべてを隠した
なぁ、兄弟たちよ
俺たちは何を支払ったのだろう
(Price of Peace)

ジミー・クリフが歌うと、どこか牧歌的に響くけれど、歌われている内容は辛辣だ。

戦闘的で直接的なピーター・トッシュや、哲学的で啓蒙的なボブ・マーリーに比べると、ジミー・クリフの印象はとてもゆるくて締まらない感じがするけれど、柔よく剛を制すという諺があるように、このゆるさこそがジミー・クリフの真骨頂なのだと思う。

ピーター・トッシュが原理主義的武闘派、ボブ・マーリーが理想主義的思想家だとすれば、ジミー・クリフは中道的で現実的なジャーナリストみたいな感じだろうか。

強い力で全体をリードしていくのではなく、市井の声に寄り添いながら小さな事例をひとつひとつ積み重ねていけばいいという草の根運動的な。

ただ、怒りや主張を直情的にではなくゆるやかに伝えることはとても難しい。

どうしてもそこには「俺はこんなに苦しいんだ」とか「わかってないお前らはアホや」という風になりやすい中で、ジミー・クリフはそれをとてもマイルドに主張する。

それってすごく難しいけど、ちゃんと主張を伝えるためには大事なことだと思うのだ。

感情の吐き出しでは自己満足に終わりがち。本当に変革したいなら、どう伝えるかということが大切なのだとジミー・クリフを聴くとそう思う。



失くしたり見つけたり
アップしたりダウンしたり
脇役にされたり軽蔑されたり
そんな風に過ごしてきたけど
檻の中のライオンと闘うダニエルのように
鯨の胃の中のジョナサンのように
絶対にしくじれないときも
僕は孤独じゃない
勝ちぬくしかないときには絶対勝つ
I am born to win
(born to win)

普段はゆるゆるでもやるときはやる。

この“Born To Win”なんかでも、そういうジミー・クリフのポジティブさがいいよね。

軽やかなレゲエのリズムに乗せて、青筋立てて気張ってばっかりじゃなくて、飄々と仕事をやりあげる。

そういうのってかっこいいよな。


ラスタではなくブラック・モスレムだということもあってか、ハードレゲエ好きからは、日和っている、ソフィスティケートされすぎている、資本主義に魂を売っていると蔑まれがちなジミー・クリフ。だからといって一般的なポップからすればやっぱり独特のバタ臭さ辺境っぽさがあって、結局どっちつかず的でもあり、でもその絶妙なバランス感覚が好きなんですよね。

原理主義にも商業主義にも染まらないバランス感覚。ひとつの価値を絶対視せずにバランスよく取り込んでいく感覚。中和と中庸。根っこのところでは自身のルーツに忠実でありつつ、ソウルにしろアフリカ音楽にしろサンバにしろ、他の文化のエッセンスを上手に取り込んでいくある意味でのいい加減さ。

そういう中庸の美学がジミー・クリフにはある。