馬は僕にとっては憧れだった。
父親や兄や近所のゲルの大人たちが、颯爽と馬を駆って地平線の向こうへ走り去っていくのを見送っては、僕もいつかあんなふうに馬に乗って遠くまで行って、狩りをしたり交易をしたりしたいと思っていた。
父や兄が夕方遅くに馬に乗って帰ってくる。
馬の背には、時には大きな兎や羊の肉、時にはふかふかの毛皮、時には見たこともないようなキラキラ光る石が積まれていた。
地平線の向こう側はそのような素晴らしいものたちがたくさんあるんだと思っていた。

だから、数えで10歳になった春に父に呼ばれ、
「おまえもそろそろ馬について学ぶ年頃だ。」
と言われたときはものすごく嬉しくて。

僕にあてがわれたのは、2歳になる牝馬だった。
僕は意気揚々とその牝馬の手綱を引いて草原の外れにある泉まで行った。
「背に乗るのはまだ早い。まずは馬と心を通わせなければ、馬はおまえを決して背に乗せはしない。」
父はそう言って、まずは馬を引いて泉まで行き、樽一杯の水を汲んでくるよう僕に命じたのだ。
「そんなの、お安い御用だよ。」

泉に着くと僕は樽一杯に水を汲んで、馬の背にくくりつけた。
「さあ、行こう。」
そう言って馬の手綱を引くが、馬は一向に動こうとはしない。
「おい、どうしたんだ。頼むよ。」
ぐいと手綱引いても馬は動かない。
「こら、来いって。来いったら来いよ。」
ぐいぐいぐいぐいと手綱を引けば引くほど、馬は足を踏ん張って動こうとはしない。
そのまま日が暮れ、僕はへたりこんでしまった。
「こんちくしょう、何がそんなに嫌なんだ。そんなに水を運びたくないのかよ。」
仕方なく水の入った樽を下ろすと、馬は歩いた。
僕は水をゲルまで持ち帰ることができなかった。

「父上様、あの馬はダメです。まるで言うことを聞きません。」
僕の訴えに父はただ「そうか。」と頷き、明日は兄があの馬で水を汲んでくるようにとだけ言った。

次の日、日が暮れるよりもずっと早くに、兄は樽一杯の水を汲んでゲルに戻ってきた。

「これでもおまえは、あの馬が無能だと思うかい?」
父は諭すように僕に言ったけれど、僕の頭の中はそのとき恥ずかしさと怒りでいっぱいだったんだ。

またその次の日、僕は馬を連れて泉へ行った。
馬は機嫌よく泉までは来るのだけれど、やはり樽を積むと動かなくなった。

「おまえはどうして僕の言うことを聞いてくれないんだっ!」
地団駄を踏む僕の怒りをよそに、馬は何食わぬ顔をして草を食んでいた。
あんまり腹が立ったので、この馬を懲らしめてやろうと馬の尻を蹴飛ばそうとしたときのことだ。
馬はその大きな足を思いっきり振って僕を蹴りあげたのだった。
吹っ飛ばされた僕は腰から背中から首筋からを強く地面に打ち付けられ、気を失った。
気がついたとき、僕はゲルの中に寝かされていた。
「まずは馬と心を通わせなければならない、という忠告をおまえはまるで聞いていなかったのだな。」
と父は悲しみを堪えた静かな声で僕にそう言った。
僕は二度と馬に乗ることができない体になったと母親が僕に告げたときに初めて、僕は自分の傲慢さに気づいたのだけれど、それはもう遅すぎたのだ。

馬を水辺に連れて行くことは出来るが、水を飲ませることは出来ない。

モンゴルにはそういう諺がある。

息子たちよ。
どうか私と同じ過ちをするなかれ。
私はついに、あの地平線の向こう側を見ることは叶わないままとなってしまった。
相手が誰であれ、どんなであれ、まずは自ら心を開いて心を通わせなくてはならないのだ。