ある日の駅からの帰り道、下り坂をとぼとぼと歩いていると、反対側から髪の毛をツンツンに立てたパンク・ファッションの痩せた男が坂を登ってきた。
背中にはベース・ギター。スリムなブラックジーンズと鋲のついたライダース。
すれ違った後、男が振り返ってこう言った。
「ぐっちゃん?」
は?そんなニックネームで俺を呼ぶこいつは?と思ってからすぐに反射的に思い出した。
あ。
「ミノル?」
その色すらっとした、しかし奇妙に白い顔、ひょろひょろの体型、どこか焦点のあわない細い目。
小学校・中学校と同じ学年だった、ミノルだった。

ミノルとは特に仲がよかったというわけではない。
色白でガリガリに痩せたミノルは、勉強もスポーツもまるでできないクラスのお荷物みたいな男の子だった。
ミノルは坂の途中にある集落で、長屋みたいな平屋の小さな家で暮らしていた。子供から見てもその暮らしぶりは明らかに貧しくて、いつも襟首がよれよれになったシャツを着ていた。僕が生まれ育った町は都心から電車で30分の近郊都市、いわゆるベッドタウンで、電鉄会社が田んぼを買い占めて埋め立てたような場所に建て売りの一戸建てがいくつも並んでいるような所。それなりの企業に勤めている親がそれなりの出費でローンを組んでマイホームを手に入れた小金持ちの子供たちがクラスの主流で、ミノルは明らかにそこから外れていた。
社会科で大地主と小作農のことを習っているときにクラスの男子の誰かが 「ミノル、お前んとこ小作農やろ。」と冷やかしてクラスのみんなが嗤うのをミノルは真っ白な顔を赤くして口を真っ直ぐに閉じて黙っていた。
僕は小さい頃から小柄で、運動やスポーツが苦手だった。小学生の頃というのは勉強ができる奴よりもスポーツが得意な奴がクラスのヒーローになることができる。そういう点では僕もクラスの中では主流ではない落ちこぼれ組だった。マサルっていうでっぷりしたガタイの乱暴な男がクラスを仕切っていて、そのまわりには腰巾着のような取り巻き連中がいくつかいて、僕もミノルもそいつらのいいなりだった。マサルやその取り巻きたちがふんぞりかえって無理難題をふっかけてくるのを僕はヘラヘラ笑いながらやり過ごしていた。小馬鹿にされることもあったけど、それでもミノルよりはまだましだと思っていた。人は、自分より弱い奴に対して、自分がやられたことをやり返す。僕とミノルの関係はそんな感じだったということを反射的に思い出して僕はうつむいた。

「今、バンド演ってるんだ。」
「ベース?」
「そう、ピストルズとかアナーキー、あとARB。」
「えっ、まじかよ。さっきARB聴いてたとこやわ。」
「えっ、ほんま。ARB知ってんねや。あれ、聴いた?『魂こがして』。」
「もちろん。かっこエエわ、最高やな、あれ。」
「バンドとか演らへんの?」
「いやー、俺、センスないし。」
「また遊ぼうや。」
「おう。」

そう言ってミノルと別れた。

僕は弱い男だった。
きっと弱かったから、パンク・ロックに憧れたのだと思う。
自分の弱さを、ノイジーなギターが、わめきちらすようなシャウトが、まるで卓袱台をひっくり返すように一撃で逆転してくれるのがパンク・ロックだった。

それからミノルと一緒にパンク・バンドを始めた、なんてことがあれば青春の物語としては上出来なのだけれど、それ以来ミノルと顔を会わせることは一度もなかった。ミノルがその後、どんな青春を送って今どんな大人になっているのか。或いはこの世に生きているのかどうかさえ知らない。ミノルも僕のその後を気に留めることすらきっとなかっただろう。
あのとき僕は、コイツには勝っていると見下していた奴に思いっきり先を越されたような気がしてうろたえた。ミノルのくせに、とムカついてしまった。それだけが真実で、そのことは、どこかに刺さったまんまのトゲのように今もチクチクと疼いたりする。