先日、久しぶりに神戸へ出掛けたときのことだ。
阪神電車に揺られ、ぼんやりと窓の外の景色を見ていた。
尼崎を過ぎ、芦屋を越えて電車は神戸に入る。左手にはぼんやりとした海、右手にはごちゃっとした町並みとその向こうに六甲山。
やがて電車は御影駅を通りすぎる。
あ、なんだかこの駅、見覚えがある。ここで何かを経験したことがあった気がする。
そして、ずいぶんと長いこと忘れていた記憶が、そのときに感じた何ともいえない感覚ごとふわりと浮かんできた。

あれは、大学生になったばかりの初夏の頃だった。
小学校のときのクラスメイトだったタカノから、神戸の大学に受かり下宿することになったからって葉書が届いて、ずいぶん懐かしくって遊びに行くことになったんだ。住所は東灘区御影。
駅を降りて下宿に電話すると、タカノが原チャリに乗って迎えにきてくれた。
僕はその原チャリの後ろに乗せてもらって、神戸特有の長い長い登り坂を上って下宿に向かった。当時はまだ原チャリにノーヘルで2ケツしてもOKだったのだ。
タカノと会うのは小学校の卒業式以来だった。
タカノは勉強ができてスポーツも万能でもちろん女の子たちにもモテモテで、勉強は中くらいでスポーツはまるでダメだった僕とはまるっきり違っていたのだけど、なぜか僕とはよくウマがあった。学校の帰りによく道草をしながら、タカノの家によく遊びに行った。木造平屋の市営住宅で、ほんの申し訳程度の小さな庭があった。
タカノには年の離れたお兄さんがいて、お兄さんの部屋にはギターがあって、壁には外人のタレントのモノクロのポスターが貼られていた。
「この外人さん、誰?」
「ビートルズ。」
「へー。知らんわ。」
「もう今は解散してるらしいけどな。」

秀才だったタカノは教育大学の付属の中学校に合格し、春休みに大阪市内へ家族で引っ越した。元々小学校を出たらそうする計画だったのかも知れない。僕は普通に地元の中学に通った。引っ越しの数日前に「遊びに来いよ。」「そのうち行くわ。」とかなんとか話をして、それから幾度か葉書をやりとりして、やがてお互いに音信不通になった。あの年頃の友達同士なんて、まぁそんなものだろう。

タカノの下宿は、六畳ほどの小さな部屋に、玄関からつながったキッチンがついていた。
窓の外には阪急電車が走っていた。窓の外、というよりも感覚としては窓の上。ガラガラと窓を開けるとちょうど目の高さに線路の枕木や敷石が見える。神戸は坂道だらけの町で、北へ行くほどに土地が上がっていく。タカノの下宿は線路と東西を走る大通りの間の狭い敷地の中にへばりつくように立っていたのだ。
「ひさしぶりやなぁ。何年ぶり?」
「あんまり変わらんなぁ。」
「酒、どうや。とりあえず、飲もうか。」
その夜、何を話したのか、あまりよくは覚えていない。
ひとしきり共通の友人の話をしたあとはとりたてて話すこともなく、飲みつけないウイスキーをちびちびとやりながら、もっぱら宇宙の果てはどうなっているとか、ブラックホールは実はとても重たい重力を持った恒星で、とか、恐竜は実は大きな隕石が落ちてきて滅んだのだとか、そういうような話ばかりをしていたように思う。小学校の頃、そういう話ばかりしていたように。
時折窓の上からガタガタガタと電車が通りすぎると、部屋がガタガタガタと揺れた。

よく覚えているのは、その翌朝のことだ。
目が覚めると、キッチンから湯気が立っていて、母親が朝ごはんを作るようないい匂いがしていた。タカノと、知らない女性が穏やかな笑みを浮かべて楽しげに話している。
「お、やっと目、覚めたか。」
「お、おお、おはよう。」
ズキン。頭が痛い。飲みつけないウイスキーのせいだ。
「タカノくんとお付き合いさせていただいているヨシオカといいます。」
と、その女性は僕に挨拶をした。
すらっとして色白でとても聡明そうで、しとやかな大人の雰囲気が漂う女性だった。
「俺さぁ、今日昼からバイトあるの忘れてたんだよな、もうちょっとしたら出かけなきゃいけないんだけど、せっかくだし飯食ってゆっくりしていけよ。」とタカノ。
「え、いや、そんな、悪いし。」
「気にせんでええって。」
そう言ってタカノは身支度を始める。
ヨシオカさんが入れてくれたコーヒーを三人でいただく。
「小学校の頃からのお友達なんですってね。タカノから聞いてます。学校は京都?大阪から通うのってけっこうたいへんね。」
「え、ええ、まぁ。」
「じゃ、俺行くわ。また遊びにきてな。」
そういってタカノは靴をはく。
部屋には女性特有の甘い香りが漂っている。
壁には、ビートルズのポスターがあった。マッシュルームカットのスーツ姿のモノクロではなく、Let It Beの頃の髭ヅラの4人。
「僕も夕方からバイトなんで、ご飯いただいたら帰ります。」
ヨシオカさんはニコニコと笑みを浮かべながら、とりとめのない話をする。窓の上を阪急電車がガタガタガタと通りすぎていき、そのたびに彼女の言葉はしばし中断した。僕はときどき相づちをうちながら、その甘い香りに、とても居所のない頼りない気持ちと、こういうものにずっと包まれていたいような柔らかい気持ちと、なんでこうしているんだろ的不思議感の混ざった複雑な気分で気が遠くなりそうだった。
小学校のクラスメイトと、神戸の下宿にいる彼女がどうしても現実として結びつかないまま、タカノのいる場所と僕が今いる場所がとてつもなく宇宙的に離れているような気がした。タカノは宇宙飛行士の姿をして宇宙船から地球を眺めていて、僕は地べたでアリのようにはいつくばっている。その距離はとても縮まらないどころか、どんどんと離れていき、タカノとヨシオカさんは遠い星になって僕は手の届かない場所からそれを呆然とただ見上げていた。

結局それ以来、タカノと会うことはなかった。
フェイスブックで消息はなんとなく知ったものの、連絡はしていない。
あの電車の線路の下にへばりつくように立っていた下宿は、きっと今はもうないだろう。
あのとき感じたクラクラするような遠い距離感を誰かに感じることもおそらくこの先二度とないだろうと思う。