冬も近い朝、まだ家族は眠っている。
窓を開けると、ベランダから見える疎水を、鴨が優雅に泳いでいた。
水かきが作るさざ波が護岸で跳ね返って波紋を広げる。
遠くから電車の音。
もや。
薄暗くたれこめた雲。
さぁ、今日は何曜日だったっけ。
コーヒーが飲みたい。
家族を起こさないようにそっと静かにお湯を沸かす。
青い炎を見つめながら、お湯が沸くのを待つ間に歯を磨いた。
左の上の外側の奥から丁寧に歯茎にブラシを当ててゆっくりと中央へ、続いて左の内側、奥から外へ。右上、左下、右下と一回りしたらまたもう一度左上から。
やかんはやがて湯気をあげてうなりはじめる。
そして僕は、ゆっくりとコーヒーを注ぐ。
コーヒーの香りがあたりの空気を包み込む。
腹が減ったな。
トーストでも焼こうか。
それならゆで卵も一緒にどうだ。モーニングっぽくっていいじゃないか。
冷蔵庫にはまだ新しい卵があった。産卵日のラベルがざらざらした白い殻に貼られている。青いインクで日付が記されている。
もう一度お湯を沸かして卵を鍋にいれる。
塩をひとつまみ。
菜箸でゆっくりとかき混ぜる。こうすると黄身が端っこに偏らないんだと誰かに教わった気がする。いや、本で読んだのか、ネットかなにかで見かけたのか。それとも昔付き合っていた女の子がそうしていたのを見ていたのだったか。まぁどうだっていい。黄身が偏ったところで別段困りもしないのだ。
トーストも焼けた。少し焦げた。
頃合いを見て鍋からお湯を捨て、冷水をかける。
こうすると卵の殻がつるんと剥ける、と、これも誰かに教わった、はずだ。
握りしめられるくらいまで冷えた卵を手のひらに包み込む。
ギュッと力を込めると、殻が軋んだ。
そのときだ。
なぜだか急に、この卵を手のひらの中で握り潰してしまいたい衝動に駆られたのだ。
僕はそのまま指に力を込める。
手のひらの中でミシミシと音をたてた卵の殻は無数のヒビを入れて割れる。
それでも僕は力をゆるめない。
割れた殻がささくれだって、手のひらに突き刺さる。
指のスキマに突き刺さる。
その指のスキマから、はみ出した白身や黄身が指のスキマからはみ出してくる。
それは赤く染まっている。

「どうしたの?」と妻が寝室から顔をのぞかせた。
「いや、なんでもない。」
そう言って僕は、流しで血まみれの手のひらを洗った。
いや、なんでもない。
なんでもない。



ルー・リードの音楽のことはうまく言葉にできない。
かわりに、こんな物語が浮かんできた。
静かな朝、頭の中で“Crazy Feeling”が鳴っていた。