天架ける橋 / 古謝美佐子

 

「橋」というイメージで思い出していたのがこのレコード、初代ネーネーズだった古謝美佐子さんの初めてソロ・アルバム「天架ける橋」でした。

CDのブックレットの扉には
“天の川 橋渡らせば その上へ
ゆもい渡らさむを 秋にあらずとも”
という万葉集の大伴家持の歌が書かれている。
 
タイトルの「天架ける橋」だけではなく、橋をテーマにした歌がいくつか収められていて。
「橋ナークニー」は、思い人に会うために橋を架けて渡りたい、という恋の唄。
「夢かいされ」は、夢の中ならば一足で橋を渡っていけるのに、とか、思い出の橋を渡って結ばれたい、といった歌詞が並ぶ。
少女の頃に遊郭に売られた経験を持つ詩人、吉屋チルーさんの詩にメロディーをつけた「恨む比謝橋」という唄もある。嘉手納町にある比謝橋にはチルーさんの歌碑があるのだそうだ。
そして「天架ける橋」は、亡くなった母親に捧げられた歌だ。
先立った夫が天に舞い戻る母親に手を差し出しともに橋を渡る。残された子供たちの上に光が降り注ぐ、そんなイメージの歌。

一ぬ橋 二橋 天架ける橋や
先立ちゃる夫ぬ 手取てぃ渡す
天に舞い昇る あたら母親ゆ
残る子わん孫に 光給ら
忘ることねさみ 我親習や
肝に抱ちしみてぃ 浮世渡ら
      (天架きる橋)
 
隔てられた二つの世界に、互いを必要とするにも関わらず距離的に、時間的に、或いは精神的に引き裂かれてしまう人たち。その世界に、ある限られた時間だけ橋がかかる。
そういう物語の構造というのは、古今東西誰もが考える普遍的な発想なのだろうな。
それは、それくらい、会いたいと願いながら離れて暮らしている人々がいつの時代にもどこの国にもたくさんいた、ということでもあるのだと思う。
 
ある程度の複雑な生き物はみな、個別の個体という枠で自分自身である領域をはっきりと持っているにも関わらず、性は二つに分かれ、異性の存在がないと子孫を残すことができない仕組みになっている。
そのことが、独立した個体であるのに別の個体の存在を必要とする性質を作りあげてきた。その二つの個体を出会わせるイメージとして「橋」というものがとてもイメージしやすいのだろうか。
「橋」というのは、離れた二つの場所を繋ぐもの。でも、二つを統合したり混ぜ合わせたりはしない。行き来を可能にするだけだ。
って、何が言いたいんだか(笑)。
 
古謝美佐子さんの声には、そういうことを考えさせ思い起こさせるような普遍的ななにかがあるような気がするんですよね。
この人の声、この人の歌は、遠い土地に住む違う文化を持つ人たちにもじゅうぶん届くのではないか、と。
例えばRCサクセションの音楽は、もちろん大好きなんだけど、ある時代のある世代の日本人にしか響かないんじゃないかと思う。或いはストーンズにしろビートルズにしろ、今生きているすべての地球人に響いたとしても、300年前、500年前の人に響くとは思えない。
でも、古謝さんの歌ならば、アフリカでもインドネシアでもアイルランドでも、そして例えば鎌倉時代や平安時代の人たちにも響くんじゃないか、場合によっては、鯨や牛や犬や猫にも何かを感じさせるんじゃないか、と。つまりは、惹かれあうもうひとつの個体を求めあう生き物になら、誰にでも。
その源はなんだろう。
愛?愛の源にある、誰かを求めたくなる気持ち、その奥にある、ひとつの個体として生きて死んでいくことの孤独。だからこその限定的な生命を慈しむ心。
 
思春期の頃、よくそういうことを考えたけれど、その頃とはまた違う次元で、そういうものに今改めて少し興味がある感じ。