コメダのヨーグルトは、酸味がほとんどなくて食べやすいです。
卵はゆで卵派。あんこでもなく、卵ペーストでもなく。なぜなら食べきれなかった時に持ち帰れるから(笑)
子どもや孫に限らずですが、家族に障害者、障害児がいる時、周りに人には積極的に伝えている方とそうでない方、どちらが多いのでしょう。
我が家の姫は、障害の程度が軽いこともあり(知的も身体も)ぱっと見はまずわかりません。
喋ったらあれ?となり、体を動かしてみると不器用そうでややぎこちないな、くらいかと。
会話となると明かに「なんかおかしいぞ?」とはっきり感じると思います。
そうなると、あえて話しかけないように変に気を遣われたり、ほんのり気まずい感じになってしまいます。
わたしの場合は、あえて積極的に障害を前面に出してアピールすることはしていません。わたしの友人や近所の方には、先に姫という存在を知って接してもらって、そのあとの自然なタイミングで会話のぎこちなさや噛み合わなさについて、こういう障害があって苦手なことがある、と伝えるようにしています。
そうすると、挨拶しても普通に返してくれますし、(たまに午後からおはようございますと言ったりしますが)割と自然に姫のことを受け入れてくれます。
厄介なのが、人づてに「〇〇さんのうちの子は、知定期障害があって大変らしい」みたいに聞いた人たちです。
会う前に勝手に姫の人となりを想像し、イメージを固め、わたしとの会話の中ででも姫の存在がないかのように腫れ物として扱われます。
きっと障害があって大変なのだろう、本人とは会話もできないのだろう、あれもこれもできないのだろう、(わたしが)ものすごく大変な状況で気遣わなくてはならないのだろう。
だろう、だろう、でわかった風にされるのはなんだか気に入りませんが、わたしのため?なのか姫のため?なのか予め情報として伝えてくれた人に悪気はないと信じたいです。
健常の子どもさんでも子育ては大変なことも多いし、障害児に限ったことではないと思いますが、社会の偏見と戦うつもりも毛頭ありません。
あくまで自然にいることが、家族にとって大切なことのように思います。
戦うこと自体、障害を持つことを普通ではないことと認めていることのように感じます。
わたし自身が、制度の中でいうところの「障害者」だからかもしれません。
関節に障害はありますが自分を特別だとか、守られるべき存在だとか、思ったことはありません。出来ないこともたくさんありましたが、そういうことで卑屈になることもありません。
毎日の生活の中で、元気に、笑顔で、少しの楽しみの時間ももて、食べるものにも住むところにも不自由なくいられるありがたさ。
姫の将来のことを考えれば不安はたくさんありますが、私が死んだ後もなるようになるさ、ですよね。
私自身の母がなくなった歳まで後2年。いつ死ぬか、体がいうこときかなくなるかなんて誰にもわからない。
今この瞬間の幸せを感じながら生活していきたい。姫にも毎日楽しいことがたくさんあるように願いたい。
福祉の環境で何を隠したり誤魔化したりすることなく居られる時間があることも、心を軽くするには大切なことなのかもしれません。
とりあえず、ビバ!児童デイ!デイのおかげで自分の時間が持てています(笑)