高校教師からの投稿。

成績をつい甘くつけてしまうことがあった。
親の受けもいいし、学校がマイナス面を書かない傾向になっているから。

「指導要録」という生徒個人の重要な記録簿にも、
情報公開や保護者のクレームに備え、悪い面は書かない。

そのため、翌年の担任がそれを見ても、役に立たない。
子どもと向き合う時間を減らし、誰も見ない書類を作るのに多くの時間を奪われている。

れが一部であっても事実であれば、学校という場所の存在価値は一体どこにあるというのだろうか。
ある意味で、体裁だけで保護者を納得させられるという姿勢は、保護者をなめきっているようにも思えるし、
それで納得してしまう保護者は、本質なんかどうでもいいとも思えてきてしまう。

悪い面は、欠陥ではない。
良い面と悪い面は、共に成長・進化させていかなければならない。
それのひとつでも「放置」していくことは、長期的な虐待と言ってもおかしくないかもしれない。

学校は勉強を教えなくてもいいから、しっかりと教育の現場として機能してほしい。
学校のためでも、保護者のためでもなく、子どものために、きちんと考えてほしい。

この記憶は、私の中でたびたびあらわれる。
まだまだ根が深そうだ。
玉県 49歳 女性(中学校教員)
ずっと手書き派だった。それは、表現の幅があったから。
パソコンだと文字の大きさは同じだし、枠内に収めようとするため簡素で画一的な表現におちいりがちだ。

現在勤務している学校では、パソコンか手書きかの選択する権利はない。
何らかの「苦情」を予測してだろうか、、地震をもって書いた内容なら超然としていればいい。
生徒一人ひとり、それぞれが違って当たり前なのだから。

個性の尊重が叫ばれる中、何かにつけ「均一」で「無難」をよしとする学校。
そのような場所で、個性豊かな生徒を育てるのは無理なのかもしれない。

全なる手書き時代を過ごした私としては、手書きはあたたかいような気がする。
手書きには、内容とは別の要素が加わっているような気がするから。
他の字体と重なるようなコメントをもらったとしたら、もしかしたら読まないかもしれない。

でも、冊子のような形式の通知表のコメント欄に器用に印刷できるものなのでしょうかね。笑
3年間担任が同じではないので、3年間の先生のそれぞれの筆跡が、また良いと思ったりもするのですが。

今回のこの記事で感じたショックな記憶は、それらの書体の有用性ではなく、
もしかしたら、相手への配慮という仮面を被った自己保身のために、
原則パソコンとしている学校があるのかもしれない、ということである。

コメントは、量よりも質であり、さらにその質は様々であり、全くもって比較するものではない。
同じ内容をパソコンでコピペ(貼り付け)するのと、同じ内容を手書きしているのでは、
その違いは「パソコン入力」か「手書き」かだけなのだが、なんとなく手書きだと許せる。

手書きには、そういった「ぬくもり」があるのだと思っている。
葉県 17歳 男子
かぎをかけていたのに、自転車を盗まれた。
盗みは悪いことで、盗まれる人のことを考えるとできません。
それが当たり前だと思っていたのだが、友人は
「じゃあ、他の人のチャリをパクッちゃえ」
「盗まれた人は誰かから盗んでいい」と言った。

盗まれたら盗み返す。
たった17年間だけれども、とても残念に思った。

も中学時代、よくこのような状況を目にしていました。
盗まれたら盗み返すというよりも、盗んでいいという感覚。
いや、盗むという感覚さえ持っていない人が多かったような気がします。

もちろん、これは間違っている。投稿者の考えは否定しようのない正しい考えだ。
しかし、このブログとして少し視点を変えてみれば、
そのような状況に陥ったことに感謝して、それによって出会う記憶と向き合うチャンスだ。

自転車からしても、盗んだ者との出会いに何かしらの意味があったのかもしれない。
盗まれた事で、走ることのなかった道を経験するかもしれない。

とか言いながら、自分の自転車が盗まれたら、「おいっ!」って思うかもしれませんけどね。
しかし、そこに意味を見出して感謝するように心がけます。
京都 22歳 留学生
私が中国の大学で一番困っていたのは、食堂でご飯を買うこと。
中国は混んでいても列を作らないが、日本はエレベーターや電車に乗るときでも列を作るので、すごく楽に感じた。

しかし、あるとき有名店がオープンした。
列を作り並ぶのは効率的、そして公平性があって、是非中国人にも勧めたい。
礼儀正しい日本社会の大切なものと言って良い。

だが、人気商品を買うために長い時間を無駄にするのはいかがなものか。
本当に列を作るほどの価値があるものだろうか。
もしかしたら、行列が価値を生んでいるのではないだろうか。

列による価値の著しい向上は、ラーメン屋なんかだとよくわかりますよね。
いつも行列ができている店は、意外と“そうでもなかった”り、回転率向上の為にサービスが良くなかったり。

手に入れたときの幸福感等は、行列に並んだから!という部分は、確かに大きいと思う。
行列が先か、商品人気が先か…難しいところである。

しかし、どちらであっても行列が生まれる場所には、生まれる為の土壌が出来上がっているはずだ。
それは、アクセスの良さとかの目に見える部分ではなくて、土地や建物、その他の多くのものが、
それぞれのアイデンティティを存分に発揮し、尊重されているといったような内面的なものだ。

行列が当たり前みたいな店って、たまにありますよね。
ラーメン二郎とかね。関内店は並ばずに入った事はありませんね。
潟市 61歳 男性
「テレビを見ているので新聞は必要ない」
テレビの利点はたくさんあるが、近年辺り構わずしゃべり散らす番組が増えてきた感じがする。

静かに落ち着いていろいろな人たちの声に耳を傾けたい。

レビが全てをカバーできるとは思っていない。
もちろん、新聞、ラジオ、ネット、携帯も同じことが言える。

どれもこれも「求めているものを探しに行く」なら、ただそれだけのものになる。
どこか運命的なものを期待しながらだったり、なんとなく見て、得られる情報の多さで言えば、
新聞というものは幅広くいろいろなものに、満遍なく触れるチャンスは多い媒体であると思う。

現に、私は新聞から得られる情報、記憶のバリエーションに心から感謝している。