『大海一粟(たいかいのいちぞく)』
意味:広大なところに、きわめて小さいものがある。

こまで広がっているのかわからない大きな宇宙の中の、
小さな地球の中の小さな日本の中の小さな私の中に沸き起こるモノ。

これが、どれだけ小さくて小さくて、誰にも気付かれなくても、
確かにそこに存在していることには変わりはない。

面と向かって出会う。
何らかの媒体を通して出会う。

これらは当たり前ではなくて、奇跡だと思っている。
なぜなら『大海一粟』同士だから。

全ては私の記憶。
出会うことができたなら、少しでも感じていたい。
そう思ったことから、新聞の切抜きを始めた。
そしてそれらを、自分だけでなく新しい出会いの為に
何か出来ないだろうか、ということでこのブログ『大海一粟』を始めた。

名前には『輪廻転生』などの候補もあった。
でも、そこまで深くなれないかもしれないので、今の名前になった。

どれだけ読んでくださる方がいらっしゃるのかわかりませんが、
どこかで出会う人の為に続けていきたいと思っております。

よろしくお願い申し上げます。


京都豊島区の功徳院が行っている「ネット墓地」。
申込時の費用は、約50万円。

登録する画像は、契約者側が故人にまつわるものを自由に選択、編集できる。
2009年3月の開始から、2010年12月時点で67人が利用しているという。
契約者の方は「遠方の親戚が、なかなか来れないので」とのこと。

別の寺院の住職は、
「墓参りは実際に訪れることに大きな意味がある」という一方で、
「高齢者の方には、ネットでも墓参りできるのは、心の安らぎにつながる」という。

国内外の葬送に詳しい方によると、
「手軽さから、故人の友人にも墓参りを呼びかけられることから、今後増えるのでは」と。

人的には、なくさなくてもいいから、あまり増えなくても良いものだと感じる。
というのは、実際に行くか行かないかは問題ではなく、
その“手軽さ”がいつか脅威となることを心配してしまうからだ。

最後の“故人の友人”というワードも引っかかるには、引っかかる。
墓参りをするのは、その家族だけではないというのが“当たり前”だと感じていたからだ。

私は、仮にこの「ネット墓地」が普及したとしたら、
拝まないにしても、墓自身が触れる人の数というのは、
格段に少なくなってしまうことは、想像に難くない。

お墓参りは、自身の用事のある家族の墓だけを参るわけではない。
本堂はもちろん、他のご縁ある方々との出会いの場でもあるはずだと思うから。
良県 37歳 男性
1年生の息子の通う小学校は、先生の配慮のもと、
地域の集合場所に集合したあと、6年生が学校まで引率してくれた。
自分の息子が6年生になったときのことを考えながら、感謝していた。

しかし新年度になり、これがなくなってしまうとのこと。
理由は、「受験をひかえた子を、ゆっくりと寝かせてあげるため」という。

受験を大切に考える親心は、とても理解できるが、
小さな子の面倒を見ることは、「人間力」を育む絶好の機会であり、
その機会を逸することは、非常に残念。

子どもの時に、こうした貴重な体験をすることは、
受験勉強にもまして、子どもを大きく成長させると思う。

稿者の方の書いていることには、私もとても共感できる。
子どものうちに優先して吸収させてあげたいことは、
どんな勉強よりも、慈しみや愛情、友情といったものである。

学校側もどのような方針で、子どもや保護者と接しているのか
文面だけでは想像することも難しいが、
子どものためという名目のご機嫌伺いということもあるかもしれない、
…なんてことが、頭によぎってしまうのも事実。

真の教育とは何か。
この記憶と出会うことで、今一度考え直すことができたのは、
とても幸せなことであり、心より感謝したい。
庫県 20歳 男性
教育実習で保育園に行ったときの話。
園児に誘われ「かくれんぼ」をやったのだが、その「かくれんぼ」に驚いた。

「かくれんぼ」といえば、自分が隠れ見つからないように工夫するものだ。
しかし、今回出会った「かくれんぼ」は、教室内に自分たちの代わりに人形を隠し、探すものだった。

鬼だった私が数を数えている間、様々な場所に人形を隠す園児たち。
これでは、鬼の動きが丸見えで「かくれんぼ」の醍醐味のドキドキ感が全くない。

外で思う存分遊べなくなった現代、保育園では先生に本物の「かくれんぼ」を教えてほしい。

とつの遊びとして、れはこれで楽しそうと感じる部分はある。
私は3人兄弟なのだが、小さい頃、晩御飯を食べ終えた後の寝る前の遊びとしてやったことがある。

この記事で挙げている問題は、「かくれんぼ」としてそれが扱われていることへの疑問だろうか。
子どもが出会う記憶、そしてそれを見ている現代の私たちの記憶は、
根本的には同じかもしれないが、その形や出会うきっかけが大きく変化してきている。
古屋市 27歳 女性
先日、目が不自由な方から「私最近、杖を持たないことにしようかと思ってる」と言われた。
なぜかというと、「1年に2本も自転車に折られた」と言った。
杖をついて歩くと、かえって危険だというのだ。

また逆に杖なしで点字ブロックの上を慎重に歩いていると、
すれ違う人と肩がぶつかり「ボケッと歩くな」と怒鳴られた。
あまりに自分のことしか頭にない人が多いように思います。

「杖をついて歩くのも危険。杖をついていなくても危険」
これは、命にかかわる危険なこと。

分も含め、自転車に乗る全ての方には、まわりへの配慮やマナーを考えないといけない。
しかし、どんな状況においても、周りへの配慮というものが重要であることが、
日常生活のマイナス部分で感じることが多いのは、少し哀しいことである。

街を歩いているとき、パッと見てその人がどんな人であるかというのを、
“やろう”と思ってではなく、自然とやるものだと思っている私にとっては、
文中にある点字ブロックの上を歩いていたときの話が、
自分自身を改めて考える良いきっかけになる。

実際のところはどのような歩き方はわからないけれど、
普通に歩いている人と慎重に歩いている人など、
正面から歩いてくれば、わかりそうなものだと感じてしまうからだ。

自分の感覚を、善いか悪いかではなく、
今後どのように再認識し、意識し続けていけるかが大事になってくると感じている。