肉の問題が続く中で、
どこか「肉が食べれなくなったら、今後の食事はどうすれば?」的な空気感を感じる。
なしの料理は、肉料理の比じゃないくらいバリエーションが多く、
味も結構おいしくて、比較的少量でも十分満足できて、
意外と腹もちが良いような気がする。(個人的な体感)

普通に考えてみて、普段の料理のレシピから、
肉をなくしてみても、肉以外の食材の方が多い。
は、肉そのものの味を味わえるような肉を食べてこなかったので、
肉料理に求めていたものは、「あぶら」「食感」「肉というステータス」だけだったかもしれない。
満足感のほとんどは、タレ等の「味付け」がメインのようにも思う。

おからこんにゃくのカルビ風とか、結構おいしいし、
大豆ミート各種を使った料理は、研究すれば本当においしさ無限大。
を食うことが、良いか悪いかではなく、ひとつの物事を多面的に捉え、
そして自身に合うものを選択していくことが大事なのだと思う。
メージだけど、肉を食うことでその動物の多くの記憶も取り入れている気がする。
それは、日常生活で形として認識はできないけれど、
きっと私にとっては不要であり、その責任を背負う自信がないので、
だんだんと菜食寄りにシフトしてきているのだと思う。
標は、最低1日1菜食
心がスッキリして、自然にも優しい(エコ)、菜食。

個人的には、オススメです。
高井戸シネマで公開中のフード・インク 見てきました。

詳しい内容や素晴らしい感想は、他の方がたくさん書いていらっしゃるので、
ぜひ検索してみてほしいのですが、ここではちょこっと違う視点で書けたらな、と。
単にいえば、この映画は食品という“商品”をめぐるお話なのですが、
その衝撃的な内容に驚かれる方も多いかと思います。

私は、どちらかというと、映し出される内容に衝撃を受けたというよりも、
「考えてみりゃおかしいよな」といった“気づき”に、衝撃を受けた感じに近いかもしれないです。

どこか『当たり前』を『安心・安全で良いもの』と思いがちな現代社会。
現に、我が家でベジミートを調理していた時、「若い者は肉を食いな」的なこと言われたりした。
これは何の根拠もなく、まさに『当たり前』と暮らしてきた結果ゆえの発言だ。

何も完全菜食とか、そういうことは個人の好き好きであって、
しっかりとした視点と、広い視野を持つことがとっても大事。

そこからの選択肢を、その都度、選択していけばいいのだと思う。
選択肢は多い方が、絶対に幸せだ。これはゆらぐことのない事実だと思う。
判することからは、きっと何も生まれないし、発展もしていかないかもしれない。
他者の持つものは、自分から生まれてきたものなのだから、
それを批判していては、自分が持つものが前に進んでいくことなど有り得ないから。

現状は、
『求められているものが、供給されている』だけ、
しかし、その『当たり前として求められるもの』の始まりはどこから来たの?

卵が先か、ニワトリが先か的な感じ。

そして、我々消費者もファクトリーの流れ作業のひとつになっていることに気づかなければならない。
今の時代だからこそ、もっともっと意識を高く持つことが求められているのではないだろうか。
いや、持たざるを得ない状況にまで来ている、と言った方が正しいかもしれない。

人間という生き物を理解するにも、見ておいて絶対に損はない映画だったと思います。
ありあまるごちそう が近場(東京・横浜近辺)での上映が終わってしまったので、
どこかで見れたらいいなぁ。再上映してるところないかなぁ。


この映画に出会えたこと、そしてそこから生まれた記憶との出会いに、心より感謝します。
近はテレビで流れることも少なくなった津波の映像。

高台から撮影された映像には、一瞬で日常を飲み込み、
なにもかも消し去る瞬間が映し出されている。

所詮、人のつくったものなど、
なにもかも一瞬でなくなるのだと、
痛感せざるを得なかった。


あと私たちは、よくわからない宇宙の中の
地球という星のほんの一部に存在している
ちっぽけな存在なんだと。

といって、悲観的に考えてもつまらない。
大事なのは、生かされている、生きられることへの感謝だ。

津波の映像を見て、そう考えていた。
しかし、あるときから流される家や車たちが
ものすごく気になり始めた。


い出は、人だけではなく、
家や車などのいわゆる『物』も共有しているはずなのだ。

家は、自分の成長を楽しみに見てくれていたかもしれない。
車は、一緒に行ったドライブの思い出を、大切にしてくれていたかもしれない。


ふと、映像に映る『物』たちの目線で
高台にいる人たちが見えたような気がした。

人々は、失う哀しみ、苦しみを経験した。
同時に『物』たちも、同じ経験をした。

冷たい海水が身体をえぐり、
異様な音を立て、ただただ流される。

家族は無事に逃げれたのか。
もうみんなに会えないのか。
もうドライブに行けないのか。

様々な想いが交錯しながら、
高台にいる人たちが見えた。

しかし、どうしようもない、
ただただ流されるばかり。


哀しい別れをしたのは、『物』だって同じだ。
在するか、しないかは別として『死後の世界』に対し、
興味や関心は、肯定派・否定派ともに持っていることが、
今回のホーキング博士の主張でなんとなくわかった気がします。

ホーキング博士は、私たちの脳を
「部品が故障すれば機能が止まるコンピューター」と仮定して、そのうえで、
「壊れたコンピューターには天国も死後の世界もない。それは暗闇を恐れる人々のためのおとぎ話だ」
と主張しているということらしい。
としましては、死後の世界はあると思っていますので、
ホーキング博士の主張とは、少し違うところにあると思います。

この仮定の話を借りれば、
故障して機能は停止しても、それぞれの部品にそれぞれのアイデンティティがあって、
ただそれらが、今までのように連携して機能を活用できなくなったってだけな気がしているので、
本当の死というのは、もっと先にあるのではないかな、なんて考えたりします。

の身体の機能が停止した後、ただの暗闇だとしたら、酷な話だ。
だから、天国なんて「おとぎ話」を作りだしたんだろうと言われてしまえば、そうかもしれない。
より、死んでみないとこの話は、何とも言えないですよね。
そこで“わかる”というより、“思い出す”のだと、私は思っているんですけどね。
っと、死後の世界はハッピーな場所だと思いますよ。
長い歴史の中で、自分の役目が残っていたら、また生まれ変わるでしょうし、
それなりに仕上がって導かれたら、新たなステップへ進んでいけると思っています。

ある意味で、死後の世界をハッピーな場所だと思わせない為に、
『地獄』とか『闇』といった恐怖を、作りだしたのかもしれないですね。


この記憶と出会えたこと、ここから湧き出たすべてのことに心より感謝します。
ろ覚えで申し訳ないのだけれど、
被災地のニュースで、豚だったかな、津波にあったが助かったみたいなことがあって、
それが次のシーンでは、おいしく調理されたものがドドーンと出てきたときには、
とても違和感がありました。

もちろん、それで生活をしていたわけだから、否定しようがないのだけれど、
助かったのに食べちゃうっていうのが、なんだかとってもひっかかった。

仙台の牛タン特集的なものも、今ではとってもひっかかる。


いつか東北をまわりたいけれど、
その時は何を食べようかなぁ、なんて考えたりしています。
別になんでも食べれるんですけどね。笑

この記憶と出会えたことに、心より感謝します。