首里城 【花時計さん】 | My Flame

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首里城
 
「ひめゆり平和祈念資料館」を後にして、バスは「摩文仁(まぶに)の丘」に向かいます。展望台に上ると下は断崖絶壁で、目の前に海が広がっています。沖縄戦の兵力は米軍54万に対して日本軍はたったの11万!  兵力の差は圧倒的でした。「海を真っ黒に埋め尽くすほどの」米軍艦隊が目と鼻の先まで迫っているのを見たとき、沖縄の人たちはどれほど怖かっただろうか・・・と想像してみました。「摩文仁(まぶに)の丘」の真下にある壕で6月23日、 牛島軍司令官が自決なさいました。最期の言葉は「悠久の大義に生きろ」でした。その壕に降りていく階段があったので降りてみましたが、壕の入り口は塞がれていて入ることはできませんでした。
 バスは「首里城」に向かいました。首里城は琉球王国の古城です。沖縄でもっとも有名な観光地ですから、かなり混み合っていました。ここは戦争とは関係ないからガイドさんも普通の説明をするのだろう、と思っていたのですが、いや~・・・驚きました。なんとここでも! ガイドさんは日本軍を非難するのです。「太平洋戦争の時、日本軍が地下に壕を作るために首里城を壊しました」「日本軍のせいで首里城は壊されましたが、今は復元されています」と何度も繰り返すのです。聞いているのが辛かったですよ~
 首里城の中は博物館になっています。建物は重厚でまあまあなのですが、ここの展示がまたヒドイのです。どういうふうにヒドイか、というと「琉球王国は独立主権国家でした」という印象を見る者に与えようとしているのが見え見えなのです。では史実はどうだったのでしょうか?
 琉球は15世紀に建国された、と言われていますが内紛もあったようで、統一された国家であったかどうかも分かりません。地政学的に見て中国の影響を当然受けていて、明(みん)、清(しん)の冊封を受けていました。冊封を受けていた、つまり中国の属国だったわけです。しかし展示には「冊封」という言葉は書いてありますが、「冊封」とは何か、が曖昧にぼかしてあるので、実質的には属国だったということがよく分かりません。
 琉球は1609年、薩摩の島津氏の侵攻を受けて以来、実質的には薩摩藩の支配下に入ります。しかし中国への朝貢(貢ぎ物を持って臣下の礼を示すこと)も続けていたようです。つまり中国と薩摩藩、どちらにも貢ぎながらバランスをとって生き延びていたわけです。江戸時代、幕府の将軍が替わるたびに琉球王国の使者が江戸にお祝いの品を持ってやって来たそうです。これでも琉球が独立主権国家だった、と言えるのでしょうか?
 1872年、明治政府は琉球藩を設置します。琉球王国はここで消滅したわけですが、琉球国王の尚泰を明治政府は日本の華族として迎えています。しかし、その後も日本政府の意向に従わないことがいろいろあったようで1879年、琉球藩は沖縄県になり(琉球処分)、沖縄県令として鍋島直彬が赴任しました。
 こういうふうに見てみると、江戸時代から琉球王国に対する日本の影響力は強まり、明治時代以降は実質的に日本の一部だった、と言っていい と思います。それなのに展示には琉球と中国との関わりの深さばかりが強調されており、日本の影が薄められています。これは今の中国、北京政府の意向が相当、展示に反映されているのではないか、と思います。
 尖閣諸島をめぐる日中の対立ばかりがニュースになっていますが、中国が本当に狙っているのは沖縄です。尖閣諸島は沖縄に属しているのですから、沖縄を奪うことができれば尖閣諸島は自動的に中国のものになります。最近では北京政府は「歴史的に見て沖縄は中国の一部だった」と公然と言い出しています。もちろん嘘なのですが、「首里城」の展示を見た人が「琉球の人ってなんだか日本人よりも中国人に近いみたい」 「琉球の文化は中国の文化に似ているみたい」などと思ってくれれば北京政府にとってはシメタものなのです。 
 沖縄は今や日本と中国の情報戦争の最前線になっているのではないか、という怖さを感じました。
 摩文仁の 丘。右の石碑は「黎明の塔」   
                          
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