軍事情報特別連載 「律令国家に抵抗した東北の人々——昭和と平成の教科書を比べて(32)」  | My Flame

My Flame

ブログの説明を入力します。




────────────────────────────────────
ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官でもあります。
お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気軽にどうぞ

E-mail hirafuji@mbr.nifty.com
WEB http://homepage2.nifty.com/hirayan/
────────────────────────────────────

こんにちは。エンリケです。

きょうの「昭和と平成の教科書を比べて」は、
「蝦夷」と「えみし」に関するお話です。

それでは、【昭和と平成の教科書を比べて】をお楽しみください。


(エンリケ)

-----------------------------------------------------

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

                 荒木 肇
『律令国家に抵抗した東北の人々——昭和と平成の教科書を比べて(32)』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


□ご挨拶

 例年通り、東富士演習場において「総合火力演習」が行われました。テレビなどの報道や、実際にご覧になった方々もおられるかと存じます。昨年から時局を反映してか、某国によるわが国の島嶼への侵攻を意識した構成になっています。

 まず、海上自衛隊P3Cが飛び状況を把握、つづいて空自のF2支援戦闘機による空爆、それでも内陸に侵攻する敵に対しての迎撃。頼もしいその姿は観客たちを酔わせるのに十分です。

 しかし、よくよく見ると残念なことばかり。たとえば攻撃ヘリAH64です。猛烈な対地射撃を見せてくれました。すでに湾岸戦争で知られているように、夜間、隠密に飛行して、その優秀なレーダーと射撃管制装置を使って突然30ミリ機関砲を目標に集中できます。

 進んだ射撃管制装置のおかげで、精密な射撃ができる。つまり、曳光弾は要らなくなりました。これまでは、弾着の修正は曳光弾を見ながら射手が目視で行ってきました。曳光弾は勇ましく、その弾丸の行方が見えることで一般観客には分かりやすいのですが、実戦では自分の位置を暴露することにもなります。現在、AH64のバルカン砲には曳光弾はのせていません。

 こうした装備はわが国の防衛には欠かせないものであり、貴重なわが自衛官の生命・安全を守るものです。ところが、政府はこの機体を「高価すぎる」という理由で陸自の要求を大幅に削ってしまい少数配備の現状があります。

 演習場ではAH64が標的に猛烈な射弾を浴びせました。標的は撃ち抜かれボロボロになり、後ろの地面は炸裂弾の弾着で掘り返されていました。案外、観客の歓呼の声が少なかったのは曳光弾がなかったからかもしれません。

 これはほんの一例です。マスコミの一部の報道ぶりに、「使われた弾薬の価格は○○億円でした」という毎年決まったマンネリ・フレーズがありますが、そういった評価の仕方に開いた口がふさがらないのは私だけではないと思います。
 
 今回は春に出かけた秋田城址を見た時にひらめいた「蝦夷」と「えみし」です。


▼倭国伝の毛人は東国の武者たち

 中国の宋代の記録「宋書」の中に「倭国伝」があり、『倭王武の上表文』が載せられている。それによれば、倭王は父祖代々、戦いの中にあって、『東は毛人征すること五十五国』という。ただし、これは現在の群馬県と栃木県にほぼあたる「上毛(かみつけぬ)・下毛(しもつけぬ)」という「けぬのくに」にあたる。

 古代律令体制下では上野(こうづけ)、下野(しもつけ)の両国になった。現在も小山駅と新前橋駅を結ぶJR線を両毛線という。上下の毛を結ぶからだ。そんなところにも伝統的な物言いは残っている。

「毛人」はエミシとも読まれるが、これは「弓師(ユミシ)」が訛ったもので、弓矢での戦闘を得意にする「東国の武者」を表しているという説が近頃では強くなっている。エミシは強い武者の意味をもつことから、あやかるために蘇我蝦夷(そがの・えみし)や佐伯今毛人(さえきの・いまえみし)などと名をつけた豪族も多かった。

 このプラスのイメージの「毛人」が7世紀の半ばごろ、大化改新(645年)ころから「夷」や「蝦夷」と表記されるようになった。意味も変わってしまって、東国より北の地方で中央政権に従わない豪族たちを指すようになる。

 8世紀になって律令体制がほぼ整ってくると、東北地方の日本海側に住む人々を「狄(てき)」、太平洋側に暮らす人々を「夷(えびす)」といい始めた。これはもともと中華思想の影響で、自分たちを文明世界の中心とし、北の民族を「北狄(ほくてき)」、南は「南蛮(なんばん)」、東を「東夷(とうい)」、西は「西戎(せいじゅう)」と卑しめる言い方である。

 そこで、8世紀の後半から律令国家に抵抗する「蝦夷」は日本海側の人々も含めるので、今では律令国家に抵抗した東北地方に暮らす人々を「エミシ」と表記する研究者が増えている。

 昭和の教科書では8世紀初めの状況と、ほぼ1世紀後の記述に分けている。
『国力が充実してくると、征討事業をおこなって国域を南北に拡大するようになった。北方では日本海側に出羽国がたてられ、太平洋側にも多賀城がおかれた。南方では隼人の住む南九州に新たに大隅国がおかれ、さらに種子島・屋久島などもあいついで朝廷に服属した。満州の渤海から使節を派遣してきたのもこの時代である。』

 この後、平安遷都と桓武天皇の律令政治の再建への努力がページを改めて書かれる。
『このころ奥羽の蝦夷はふたたび勢いを盛り返し、各地で反乱をおこした。そこで、その鎮圧のため数度にわたり大軍が発せられたが、なかでも征夷大将軍坂上田村麻呂は、北進して北上川中流域までを鎮定して胆沢城を築き、鎮守府を多賀城からこの地に移し、さらにその北方に志波城を築くなど、蝦夷地の経略を大いにすすめた。これとならんで日本海側の出羽方面の開拓もすすみ、このころには能代川流域までを従えた。』

 8世紀初めからほぼ100年、蝦夷は抑圧によく耐えていた、それが再び反乱を起こしたという記述になっている。

 ところが、平成の教科書になると蝦夷についての記述がたいへん詳しくなる。
『国家体制が実現し、充実した力を持った中央政府は、支配領域の拡大にも務めた。政府が蝦夷とよんだ東北地方の在地の人びとに対しては、唐の高句麗攻撃により、対外的緊張が高まった7世紀半ばに、日本海側に渟足柵・磐舟柵を設けた。
斉明天皇の時代には阿倍比羅夫が遣わされ、秋田地方などさらに北方の蝦夷と関係を結んだ。しかし、政府の支配領域はまだ日本海沿いの拠点にとどまっていた。8世紀になると、軍事的な制圧政策が進められた。日本海側には出羽国がおかれ、ついで秋田城がきずかれて、それぞれ出羽・陸奥の政治や蝦夷対策の拠点となった。一方、南九州の隼人とよばれた人びとの地域には大隅国がおかれ、種子島・屋久島をはじめ薩南諸島の島々も政府と交易する関係に入った。』

 つづいて、平成版は『平安京の確立と蝦夷との戦い』と小見出しをつけている。
『東北地方では、奈良時代にも北上川や日本海沿いを北上して城柵が設けられていった。城柵は、政庁や実務を行う役所群・倉庫群が配置され、行政的な役所としての性格を持ち、そのまわりに関東地方などから農民(柵戸)を移住させて開拓が進められた。こうして城柵を拠点に、蝦夷地域への支配の浸透が進められた。しかし、光仁天皇の780(宝亀11)年には帰順した蝦夷の豪族伊治呰麻呂が乱をおこし、一時は多賀城をおとしいれる大規模な反乱に発展した。この後、東北地方では三十数年にわたって戦争があいついだ。
 桓武天皇の789(延暦8)年には紀古佐美を征東大使として大軍を進め、北上川中流の胆沢地方の蝦夷を制圧しようとしたが、族長阿弖流為の活躍により政府軍が大敗する事件もおこった。その後、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、田村麻呂は802(延暦21)年に胆沢地方に胆沢城をきずき、阿弖流為を帰順させて鎮守府を多賀城からここに移した。翌年には北上川上流に志波城を築造し、東北経営の前身拠点とした。日本海側でも、米代川流域まで律令国家の支配権がおよぶこととなった。』

▼「化外の民」蝦夷

 律令国家の公民とは、戸籍に記入され、口分田を班給され、租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)の税を納め、男子は兵役の義務に服するというものだった。それ以外には、農耕を行わないとされた東北の蝦夷や、九州南部の隼人など支配体制が異なっていた人々もいた。しかし、最近の考古学の研究成果によれば、東北地方には稲作の技術がすでにあったし、隼人もまた米食の習慣があったことは明らかになっている。

 つまり、政府の側からいえば、辺境に暮らす人々を公民の下に位置づけることで、優越心を満足させるといったねらいがあった。事実は東北の人や九州南部の人たちが実際には狩猟や採集ばかりに従事しているというわけではなかった。しかし、そう扱うことで律令体制の進歩性をたかだかと掲げ、支配下の公民たちに誇らしさをもたせようとしたのである。

 大化の改新では最北の国として陸奥(みちのおく)国と越(こし)国がおかれた。蝦夷の地にも評(こおり)または郡(こおり)を設置して、律令による支配を拡大していこうとした。陸奥では7世紀後半、8世紀初め、同後半、9世紀初めの4段階を経て岩手県盛岡付近まで、越後と出羽でもおなじく4段階をふんで秋田市付近まで、それぞれ領域を広げていった。

 8世紀の後半には宮城県北部の陸奥国から黄金が発見される。さっそく朝廷は東北地方の経営に本格的に乗り出すことになった。すでに大陸に成立した渤海(ぼっかい)との関係から日本海側では八世紀前半には秋田城をつくり、現在の秋田県の支配はほぼ終えていた。それに対して太平洋側でいえば、724年にようやく多賀城(宮城県南部)を建設しているにすぎなかった。

▼城柵

 8世紀後半、朝廷軍は北上川沿いに進撃を始めた。伊治城(これはるじょう)、胆沢城(いさわじょう)、志波城(しわじょう・岩手県盛岡市)と拠点を進めていった。ただし、これらの城というのは決して後世のイメージのような純軍事的な機能だけをもってはいない。私たちはしばしば近世や中世の城、戦闘用のそれをイメージしてしまう。

 このような古代の城は平地、あるいは小丘陵の上にある。柵や塀に囲まれた広大な敷地の内部には兵舎や食糧庫、武器庫、木工…

[続きはコチラから]
https://mypage.mobile.mag2.com/WebLeading.do?id=2koXmke9xH6&position=4500#position
◎軍事情報
のバックナンバー・配信停止はこちら
⇒ http://bn.mobile.mag2.com/bodyView.do?magId=0000049253