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人物探訪: 「国のため、道のため」~ 近代医学の祖、緒方洪庵

 感染症と闘い、国を憂いて人材育成を続けた一生。
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■1.幕末のコレラ流行に奔走した緒方洪庵

 安政5年(1858)6月、長崎に入港したアメリカの軍艦ミシシッピー号乗組員が感染源となって、中国から日本にコレラが持ち込まれ、九州、四国、近畿から江戸まで大流行となりました。江戸だけでも3万人が亡くなったとされています。当時の人はこれを「コロリ」と呼んで、恐れおののきました。この病気にかかるとコロリと死んでしまうからです。

 治療法として、当時参考になる文献といえば、二つしかありませんでした。一つは、オランダから長崎にやって来たポンペという若い医者が、当時のヨーロッパでの治療法を助手・松本良順に口述して訳させたものが流布していました。

 もう一つは緒方洪庵が訳した『扶氏経験遺訓』。これはドイツの内科の名医でベルリン大学の教授だったフーフェランドが50年の治療経験をまとめた本で、このなかのコレラの章。ところが両者の説くところが非常に違っていて、どちらに従えば良いのか、分からないという状況でした。

 洪庵はこの状況を見かねて、とりあえず手許にあった三冊の洋書から、コレラの項を訳し、最新の説をまとめて『虎狼痢(コロリ)治順』と題して、8月下旬に刊行しました。コレラ発生以来、60日も昼夜休みなく奔走する合間を縫って、各地の医師に正しい処置方法を知らせようと、急いでまとめたものです。

 ところが、その中にあったポンペ批判の部分について、11月に松本良順からきびしい抗議が来ました。洪庵の書にも多少の落ち度があったようで、洪庵は良順の手紙を『虎狼痢治順』の末尾に追加し、松本君のお陰で過ちを世に残さずに済んだと感謝しています。
 ときに洪庵49歳、良順27歳。20歳以上も若い良順の批判も正しければ直ちに受け入れ、それによって一人でも多くの民を救いたいと考えたのです。

 後年、洪庵が幕府の西洋医学所(後の東京帝国大学医学部)頭取に任命された直後、良順も頭取助(すけ)に挙用されており、洪庵の推挙によるものと見られています。洪庵の死後、良順は次の頭取となります。洪庵は日本の西洋医学発展のリーダーとして良順を見込んでいたようです。

 日本の「近代医学の祖」と言われる緒方洪庵はこういう人物でした。


■2.種痘普及のための10年近い努力

 感染症対策としてもう一つ、洪庵が力を尽くしたのが天然痘でした。当時は天然痘で命を落としてしまう人も、少なくありませんでした。たとえ助かっても、顔にひどいあばたが残ってしまい、自分の子がそんな目にあうのは親にとって耐えがたい苦痛でした。

 天然痘にかかった人の膿(うみ)やかさぶたを「たね」として健康な人に植えて、免疫を作る方法はかなり古くから伝わっていましたが、それによって天然痘にかかって死んでしまう子供も多い、危険な予防法でした。

 1798年にイギリスのエドワード・ジェンナーが牛痘の「たね」を人に植えると、その危険もなく、強い免疫ができることを発見しました。牛痘の「たね」となるかさぶたは、1849年にオランダ船によって長崎にもたらされ、日本でも普及が始まりました。

 洪庵はその年のうちに大阪で種痘を行う施設として「大坂除痘館」を設置しました。その際、協力者たちと「世上のために新法(新技術)を弘(ひろ)むることなれば」、いくばくかの謝金を得ても、さらに仁術を行うための資金にする、と「第一の規定」と定めています。

 そのうえで関西一円にいくつもの「分苗所」を設け、各地の医師が協力して種痘を行う体制を作りました。しかし、民衆の種痘への理解はなかなか広まらず、その時の苦労を洪庵はこう記しています。
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 市中に牛痘は益がないばかりでなく、かえって小児の体に害があるというような悪説がながれて、誰一人牛痘を信ずるものがいなくなった。
やむを得ず、少なからぬ米銭をついやして毎回の種痘日に四、五人の貧乏な小児を集めて牛痘を接種したり、四方へ走りまわって、牛痘のことを説明して勧めたりして、なんとか牛痘苗を連続させること、三、四年に及び、ようやく再び信用されるようになった。[梅溪1、p172]
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 こういう苦闘を10年近く続けた後、ようやく町奉行が大坂除痘館を全国で初めて公認しました。その通達では、洪庵らの行う種痘は怪しむべきものではなく、礼物をむさぼるようなこともないので、安心して受けるように、というものでした。洪庵は大坂町奉行とは懇意で、数十度もこのような通達を内願していたのですが、前例がないために、なかなか公認してくれなかったのです。

 こうした努力により、種痘は急速に広まっていきました。


■3.適塾にて20数年、600人以上の塾生を育てる

 洪庵は、コレラの治療法や種痘など近代西洋医学の普及による民生向上に打ち込みましたが、同時に将来の日本のための人材育成にも力を入れました。そのために創設したのが適塾(てきじゅく)です。

「適塾」とは、洪庵の号「適々斉」の塾という略称ですが、この「適々」とは、諭吉が自作の漢詩を書軸にして適塾の玄関に掛けたものから、次のように解されています。

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 師洪庵の「適々」の生き方が俗世間から逃避して「悠々自適」することでなく、俗世間の中を他より束縛されず、みずからの心に適(かな)うところのものを堅持して強く生きぬくことにあるととらえた、「適塾」の精神を表した貴重な遺品であるといえよう。[梅溪1、p131]
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 俗世間の中で、コレラや天然痘と戦い、また国の近代化のための人材育成に励むなど、洪庵は自ら見つけた心に適(かな)う使命に勇んで取り組んだ人でした。

 洪庵は適塾を、天保9(1838)年に29歳にして長崎での修行を終え、大阪で医業を始めるとすぐに創設し、文久2(1862)年江戸での西洋学問所頭取就任まで自ら経営し、その後は養子の緒方拙斉に任せました。

 直接、塾を見ていた時期だけでも二十数年。その間の塾生は600人を超え、青森と沖縄以外のすべての地方から来ています。そのほか、教えを与えた者は3千人に及んだと言われています。

 塾生のなかには長州出身で陸軍建設の祖と言われる大村益次郎、福井藩主・松平春嶽公の側近として活躍した橋本左内、慶応義塾の創立者・福澤諭吉、日本赤十字の創始者・佐野常民など、幕末から明治の日本を導いた人材が輩出しています。


■4.「国のため、道のため」

 この4人を見ても、医学に関わりのあるのは佐野常民だけで、他の3人は軍事、政治、教育と分野を異にしています。洪庵は分野も勉強方法も自主性に任せて、人材育成にあたりました。福澤諭吉の後に塾頭をつとめた長与専斎(ながよ・せんさい)はこう言っています。

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 元来適塾は、医家の塾とはいえ、その実、蘭書(オランダ書)解読の研究所にて、諸生には医師に限らず、兵学家もあり、砲術家もあり、本草家(JOG注: 薬学者) も舎密家(JOG注:化学者)も、およそ当時蘭学を志す程の人はみなこの塾に入りてその仕度(したく)をなす。[梅溪1、p114]
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 英国艦隊が清国を打ち破ったアヘン戦争や、アメリカの黒船艦隊来航など西洋諸国がひたひたと極東に迫っている状況で、洪庵は「当今必要な西洋学者を育てるのを自分の任務として専念している」と甥に書き送っています。[梅溪1、p111]

 また弟子などにあてた手紙でも、よく「国のため、道のため」に力をつくすように、と結んでいました。「国のため」とは、「当今必要な西洋学者を育てる」という使命に通じ、「道のため」とは医学のため、という意味です。


■5.「ついぞまくらをして寝るなどということは、ただの一度もしたことがない」

 適塾での生活を、塾頭を務めた福澤諭吉が活き活きと書き残しています。常時、百人ほどの塾生が適塾に寄宿しており、一人一畳ほどのスペースしか与えられていません。

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 夕方食事の時分にもし酒があれば酒を飲んで、初更に寝る。一寝して目がさめるというのが、いまでいえば十時か十時すぎ、それからヒョイと起きて書を読む。夜明けまで書を読んでいて、台所の方で塾の飯炊がコトコト飯をたくしたくをする音が聞えると、それを合図にまた寝る。
寝てちょうど飯のでき上がったころ起きて、そのまま湯屋に行って朝湯にはいって、それから塾に帰って朝飯をたべてまた書を読むというのが、たいてい緒方の塾にいる間ほとんど常きまりであった。[緒方、p113]
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 寝るといっても、「机の上につっぷして眠るか、あるいは床の間の床縁をまくらにして眠るか、ついぞほんとうにふとんを敷いて夜具を掛けてまくらをして寝るなどということは、ただの一度もしたことがない」という具合でした。

 そんな塾生たちに、洪庵は暖かく接していました。諭吉は「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々(じゅんじゅん、よくわかるように繰り返し教えさとすさま)として応対倦(う)まず、誠に類(たぐ)ひまれなる高徳の君子なり」と記しています。

■6.辞書の書写で自活できた塾生

 塾では五日に一回は10人ほどの会読があり、オランダ語の文法書や文典を読んでは訳していく。その出来によって、塾生としての等級があがっていく、という純粋な実力主義でした。家柄も年齢も関係なく、勉学ができなければ、何年塾にいても等級は上がりません。

 オランダ-日本語の辞書(ズーフ)は1セットだけ、3畳ばかりの「ズーフ」部屋に置いてあって、持ち出しは禁じられていました。塾生たちは分からない単語が出てくると、その部屋に行って調べるのですが、塾生が多いので、昼間はじっくり調べることもできません。そこで深夜にズーフ部屋を使う塾生もいて、夜通し灯りがついていました。

 適塾の蘭学は、当時、日本第一と称されていました。江戸でも蘭学はさかんでしたが、江戸から学びに来る者はいても、江戸に行く時は教えに行くのだ、という気概を塾生たちは持っていました。

 これほどの塾でも、塾生の食費も含…

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