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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和2年(2020)12月28日(月曜日)
通巻第6744号
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アントは事実上の庶民銀行。預金者は五大銀行からの口座移し替え
中国国有銀行のつなぎ融資に預金者の現金を廻す手立て
***************************************
報道に拠れば「中国は2028年に米国経済をGDPで追い抜く」そうな。
英有力シンクタンクの「経済経営研究センター」(CEBR)」の年次報告によれば、コロナを短期間で「退治」したと豪語している中国は2021年度のGDP成長率を4%とし、米国は2%とはじく。明確な根拠が示されているわけではないが、日本は2021年度もマイナス成長に陥るという。
フィンテックに最も遅く参入した中国が、フィンテックの段階を一気に飛ばしてネット銀行時代へ。アリババ傘下の金融企業「アント」は10億人とも7億5000万人とも言われる「預金利用者」を得た。
過去の取引データから、口座利用者の好み、買い物遍歴、返済具合を忽ちデータ分析し、AIが利用者の信用度を、推量し、与信枠を与える。まるで銀行。
いや、その高度なフィンテックは中国の既存の銀行を超えている。
中国銀行、中国建設銀行、中国工商銀行、中国農業銀行、そして交通銀行という中国五大銀行が焦るのも無理はなかった。
これら五大銀行は、政府債権の59%、人民銀行の85%、そして社債の44%を引き受けてきた。つまり庶民へのローンは少なく、融資先は国有企業ばかりだった。中国企業
資金集めは社債起債が中心で、銀行が直接に株式へ投資することは少ない。
人民公社などを「国有企業」に組み替え、経済改革を加速してきたのは1998年の朱容基首相時代からだった。西側の会社のように組織を改編したものの外国の資本参入には厳しい制限をつけて望んだ。しかも共産党派遣の「政治委員」が企業内に居座った。
中国における外銀のシャアは2019年10月時点で僅かに1・22%だった。ちなみに米国での外銀率は19・2%,EUは52%,ロシアですら6・37%である。
ようやくゴールドマンサックスが中国で100%出資による現地法人を認可されたのは2011月になってからである。それも米中貿易戦争の結果、中国が妥協したからだ。
▲あの博打根性の染みついた中国人は、預金も大好き
中国人は博打好きだが、同時に預金が好きである。
GDP比較で26・5%が預金率だったが直近のそれは44・6%となった(数字は米国「ジェイムズタウン財団」発行の『チャイナ・ブリーフ』、2020年12月23日)。
国有銀行が国有企業に主に融資するという意味は、投資効果、利回りにより利益を慎重に計算し、査定した結果ではなく、債務超過に陥れば追加融資をくりかえすという、およそ資本主義システムにはない方法がとられているからだ。
利益があがるどころか、マイナスが明らかで、中国の中央政府、地方政府の負債はGDPの335%に達している。表の数字だけでも、邦貨換算で5300兆円を超えている事実を示している(小誌は以前から9900兆円が中国の債務総額と見積もっている)。
経済成長のスピードより迅速に負債が積み上がっている。
異常という他はないが、『人民日報』でさえ、これらを「ゾンビ企業」と呼んでいるくらいである。
政治的安定を維持し、共産党の独裁を継続確保するには、借金を増やしても、成長がなされている演出を続ける。それもこれも、ソ連が経済的に行き詰まって破綻したことを教訓としてきたからだ。
◎☆◎◎み☆◎□☆や□◎◎☆ざ◎◎□☆き◎☆◎◎
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(年末年始の発行予定)1月5日までの年末年始は随時休刊となります。
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW
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中国は鬼門であり、中国は悪魔であり、暴力が大好きな鬼
内モンゴルでも起きたジェノサイドを見ないふりのメディア、政府、知識人
♪
楊海英『世界を不幸にする植民地主義国家・中国』(徳間書店)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ちょうど読み始めたときに、ニュースが入った。米国トランプ政権は『ウィグル族弾圧』を続ける中国共産党を「国際法上の犯罪となるジェノサイド(民族大量虐殺)」と認定」するべく、具体的検討をポンペオ国務長官が指示し、政権交代前に『認定』する可能性があると報じた。
独裁者が率いる「虐殺政権」に対して、小声で「遺憾の意」を評するだけの日本とはえらい違いである。
すでに習近平政権は香港の自由を圧殺し、一国二制度を五十年続けるとした国際的な約束を紙くずとして開き直った。尖閣諸島は「昔から中国領だ」とふんぞり返った。
この怪物国家をモンゴル人の立場から、追求したのが本書である。
中国は鬼門であり、中国は悪魔であり、暴力が大好きな鬼。だから鬼滅隊は、正義の剣を振るえ! と日本にまだ正義と道議が残っていれば訴えるだろう。
しかし武士道が消滅し、モラルが廃れた日本には、悪魔の所業を前にしても、小さな声で遺憾の表明をし続けるだけである。これでよいのかと楊海英氏は鋭角的に日本の政治の貧困をえぐる。
文革中に視察にでかけて後味の悪い中途半端な感想を書いた竹内好、朝日ジャーナル誌に文革を斜めから報じた高橋和己がいる。
楊海英教授の批判は穏やかに、しかし辛辣で激辛の文章が躍動し、こうした戦後知識人の欺瞞を徹底的についている(本書131pから140p)。
本書の独自なポイントを挙げると、第一に「植民地体制は1960年代の植民地解放運動で終わった」とする史観の間違いである。これは左翼の宣伝でしかない。すなわち中国共産党が展開しているチベット、ウィグル、そして南モンゴルにおけるジェノサイドこそは「植民地主義」である。
中華思想なる考え方は噴飯ものだが、要するに、周辺に住む諸民族を「昔から中華の臣民」とみなし、植民を進める地域を「有史以来中国の固有の領土」と獅子吼し、少数民族への弾圧と虐殺を「解放」と宣伝してきた。
第二に伝統的な中華思想と社会主義イデオロギーを両輪として、支配するシステムが中国的社会主義的市場経済を呼号する裏側の植民地主義であると説く。このような重要な観察と分析が、いまの日本人にどれだけ浸透するか、それが日本の問題だろう。
◎☆◎◎しょ☆◎□☆ひ□◎◎☆よ◎◎□☆う◎☆◎◎
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樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 2176回】
――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港58)
△
遣米使節一行以後、遣欧使節(竹内下野守一行)が1862(文久二)年に、遣仏使節(池田筑後守一行)が1863(文久三)年に、遣英・仏使節(柴田日向守一行)が1865(慶応元)年に、遣露使節(小出大和守一行)が1866(慶応二)年に、遣仏使節(徳川民部大輔一行)が1867(慶応三)年に香港を経由している。
すべてが往復ともに短時日の立ち寄り程度だが、それでも日本、あるいは日本人にとっての香港の姿がほの見えてくるようだ。
たとえば竹内下野守一行の場合、文久二年正月元旦に船中で屠蘇を口にして新年を祝って長崎を出港し、6日後に香港に到着している。
「清人の料理を懇望して、清朝の酒を飲み手始めて微醺を得たり清朝の酒は日本の本直しという酒に味い似たり」(『欧西紀行』)というから、派遣の主たる狙いが樺太問題に関してのロシアとの交渉にあったはずなのに、物見遊山とまでは言わないものの、存外に幕末の緊張が感じられない。香港で味わう「清人の料理」に「清朝の酒」とは、当時すでに『食は香港に在り』だったのか。
一行の中に市中で洋靴を買い込んで履き心地を楽しんでいた者もいた。その行為を副使の松平石見守が見咎め、国風を蔑ろにするものは即刻帰国させるぞ、と叱責する。さて、「そこもと、これへ直れ。その乱れたブザマな姿はなんだ。毛唐の真似ごとなんぞを・・・えーい、国風を紊すとは不届き千万。武士(さむらい)たる者の為せる所業か。拙者、遣欧使節副使としては断固として許すわけにはいかん。恥を知れ、ハジを」などと大声を張り上げでもしただろうか。この時、石見守は33歳。
帰路の香港寄港時、一行は日本からの公文書を受け取っている。ならば、すでに江戸と香港の間では――定期か不定期かは別にして――公文書のやり取りがあったと考えられる。
じつはシンガポールに立ち寄った際に手に入れた香港の新聞で、一行は3か月ほど前に起こった生麦事件についての情報を得ていた。
公文書で「国内の政変、攘夷説の盛んなるを知り、船中の外人に対して面目なく、また英字新聞は盛んに日本に問罪の師を送るべし、日本の攘夷論は兵力をもって撲滅せざるべからずと論じ立てあるを見、船中は憂慮やら慷慨談やら」(尾佐竹猛『幕末遣外使節物語 夷狄の国へ』岩波文庫 2016年)だったとか。
当時の香港は、日本人が列強の動向を知るための窓口でもあったらしい。
その後、香港に関する日本人の記録は、目下のところは『觀光紀游』(明治25年)、『漫游見聞録』(明治18年)まで不明だ。前者は岡千仭(天保4=1833年~大正3=1914年)が、後者は・田清隆(天保11=1840年~明治33=1900年)が記したものであり、2人は共に清仏戦争(1884年~85年)前後に香港で出会っている。
すでに『觀光紀游』…
[続きはコチラから]
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令和2年(2020)12月28日(月曜日)
通巻第6744号
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アントは事実上の庶民銀行。預金者は五大銀行からの口座移し替え
中国国有銀行のつなぎ融資に預金者の現金を廻す手立て
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報道に拠れば「中国は2028年に米国経済をGDPで追い抜く」そうな。
英有力シンクタンクの「経済経営研究センター」(CEBR)」の年次報告によれば、コロナを短期間で「退治」したと豪語している中国は2021年度のGDP成長率を4%とし、米国は2%とはじく。明確な根拠が示されているわけではないが、日本は2021年度もマイナス成長に陥るという。
フィンテックに最も遅く参入した中国が、フィンテックの段階を一気に飛ばしてネット銀行時代へ。アリババ傘下の金融企業「アント」は10億人とも7億5000万人とも言われる「預金利用者」を得た。
過去の取引データから、口座利用者の好み、買い物遍歴、返済具合を忽ちデータ分析し、AIが利用者の信用度を、推量し、与信枠を与える。まるで銀行。
いや、その高度なフィンテックは中国の既存の銀行を超えている。
中国銀行、中国建設銀行、中国工商銀行、中国農業銀行、そして交通銀行という中国五大銀行が焦るのも無理はなかった。
これら五大銀行は、政府債権の59%、人民銀行の85%、そして社債の44%を引き受けてきた。つまり庶民へのローンは少なく、融資先は国有企業ばかりだった。中国企業
資金集めは社債起債が中心で、銀行が直接に株式へ投資することは少ない。
人民公社などを「国有企業」に組み替え、経済改革を加速してきたのは1998年の朱容基首相時代からだった。西側の会社のように組織を改編したものの外国の資本参入には厳しい制限をつけて望んだ。しかも共産党派遣の「政治委員」が企業内に居座った。
中国における外銀のシャアは2019年10月時点で僅かに1・22%だった。ちなみに米国での外銀率は19・2%,EUは52%,ロシアですら6・37%である。
ようやくゴールドマンサックスが中国で100%出資による現地法人を認可されたのは2011月になってからである。それも米中貿易戦争の結果、中国が妥協したからだ。
▲あの博打根性の染みついた中国人は、預金も大好き
中国人は博打好きだが、同時に預金が好きである。
GDP比較で26・5%が預金率だったが直近のそれは44・6%となった(数字は米国「ジェイムズタウン財団」発行の『チャイナ・ブリーフ』、2020年12月23日)。
国有銀行が国有企業に主に融資するという意味は、投資効果、利回りにより利益を慎重に計算し、査定した結果ではなく、債務超過に陥れば追加融資をくりかえすという、およそ資本主義システムにはない方法がとられているからだ。
利益があがるどころか、マイナスが明らかで、中国の中央政府、地方政府の負債はGDPの335%に達している。表の数字だけでも、邦貨換算で5300兆円を超えている事実を示している(小誌は以前から9900兆円が中国の債務総額と見積もっている)。
経済成長のスピードより迅速に負債が積み上がっている。
異常という他はないが、『人民日報』でさえ、これらを「ゾンビ企業」と呼んでいるくらいである。
政治的安定を維持し、共産党の独裁を継続確保するには、借金を増やしても、成長がなされている演出を続ける。それもこれも、ソ連が経済的に行き詰まって破綻したことを教訓としてきたからだ。
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楊海英『世界を不幸にする植民地主義国家・中国』(徳間書店)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ちょうど読み始めたときに、ニュースが入った。米国トランプ政権は『ウィグル族弾圧』を続ける中国共産党を「国際法上の犯罪となるジェノサイド(民族大量虐殺)」と認定」するべく、具体的検討をポンペオ国務長官が指示し、政権交代前に『認定』する可能性があると報じた。
独裁者が率いる「虐殺政権」に対して、小声で「遺憾の意」を評するだけの日本とはえらい違いである。
すでに習近平政権は香港の自由を圧殺し、一国二制度を五十年続けるとした国際的な約束を紙くずとして開き直った。尖閣諸島は「昔から中国領だ」とふんぞり返った。
この怪物国家をモンゴル人の立場から、追求したのが本書である。
中国は鬼門であり、中国は悪魔であり、暴力が大好きな鬼。だから鬼滅隊は、正義の剣を振るえ! と日本にまだ正義と道議が残っていれば訴えるだろう。
しかし武士道が消滅し、モラルが廃れた日本には、悪魔の所業を前にしても、小さな声で遺憾の表明をし続けるだけである。これでよいのかと楊海英氏は鋭角的に日本の政治の貧困をえぐる。
文革中に視察にでかけて後味の悪い中途半端な感想を書いた竹内好、朝日ジャーナル誌に文革を斜めから報じた高橋和己がいる。
楊海英教授の批判は穏やかに、しかし辛辣で激辛の文章が躍動し、こうした戦後知識人の欺瞞を徹底的についている(本書131pから140p)。
本書の独自なポイントを挙げると、第一に「植民地体制は1960年代の植民地解放運動で終わった」とする史観の間違いである。これは左翼の宣伝でしかない。すなわち中国共産党が展開しているチベット、ウィグル、そして南モンゴルにおけるジェノサイドこそは「植民地主義」である。
中華思想なる考え方は噴飯ものだが、要するに、周辺に住む諸民族を「昔から中華の臣民」とみなし、植民を進める地域を「有史以来中国の固有の領土」と獅子吼し、少数民族への弾圧と虐殺を「解放」と宣伝してきた。
第二に伝統的な中華思想と社会主義イデオロギーを両輪として、支配するシステムが中国的社会主義的市場経済を呼号する裏側の植民地主義であると説く。このような重要な観察と分析が、いまの日本人にどれだけ浸透するか、それが日本の問題だろう。
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【知道中国 2176回】
――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港58)
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遣米使節一行以後、遣欧使節(竹内下野守一行)が1862(文久二)年に、遣仏使節(池田筑後守一行)が1863(文久三)年に、遣英・仏使節(柴田日向守一行)が1865(慶応元)年に、遣露使節(小出大和守一行)が1866(慶応二)年に、遣仏使節(徳川民部大輔一行)が1867(慶応三)年に香港を経由している。
すべてが往復ともに短時日の立ち寄り程度だが、それでも日本、あるいは日本人にとっての香港の姿がほの見えてくるようだ。
たとえば竹内下野守一行の場合、文久二年正月元旦に船中で屠蘇を口にして新年を祝って長崎を出港し、6日後に香港に到着している。
「清人の料理を懇望して、清朝の酒を飲み手始めて微醺を得たり清朝の酒は日本の本直しという酒に味い似たり」(『欧西紀行』)というから、派遣の主たる狙いが樺太問題に関してのロシアとの交渉にあったはずなのに、物見遊山とまでは言わないものの、存外に幕末の緊張が感じられない。香港で味わう「清人の料理」に「清朝の酒」とは、当時すでに『食は香港に在り』だったのか。
一行の中に市中で洋靴を買い込んで履き心地を楽しんでいた者もいた。その行為を副使の松平石見守が見咎め、国風を蔑ろにするものは即刻帰国させるぞ、と叱責する。さて、「そこもと、これへ直れ。その乱れたブザマな姿はなんだ。毛唐の真似ごとなんぞを・・・えーい、国風を紊すとは不届き千万。武士(さむらい)たる者の為せる所業か。拙者、遣欧使節副使としては断固として許すわけにはいかん。恥を知れ、ハジを」などと大声を張り上げでもしただろうか。この時、石見守は33歳。
帰路の香港寄港時、一行は日本からの公文書を受け取っている。ならば、すでに江戸と香港の間では――定期か不定期かは別にして――公文書のやり取りがあったと考えられる。
じつはシンガポールに立ち寄った際に手に入れた香港の新聞で、一行は3か月ほど前に起こった生麦事件についての情報を得ていた。
公文書で「国内の政変、攘夷説の盛んなるを知り、船中の外人に対して面目なく、また英字新聞は盛んに日本に問罪の師を送るべし、日本の攘夷論は兵力をもって撲滅せざるべからずと論じ立てあるを見、船中は憂慮やら慷慨談やら」(尾佐竹猛『幕末遣外使節物語 夷狄の国へ』岩波文庫 2016年)だったとか。
当時の香港は、日本人が列強の動向を知るための窓口でもあったらしい。
その後、香港に関する日本人の記録は、目下のところは『觀光紀游』(明治25年)、『漫游見聞録』(明治18年)まで不明だ。前者は岡千仭(天保4=1833年~大正3=1914年)が、後者は・田清隆(天保11=1840年~明治33=1900年)が記したものであり、2人は共に清仏戦争(1884年~85年)前後に香港で出会っている。
すでに『觀光紀游』…
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